ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

時代祭の小レポートその他

2006年4月28日、ケルンでの庄司紗矢香さん演奏会のラジオ録音を聴きながら、書いています。グラズノフのヴァイオリン協奏曲は、確信に満ちた解釈の大人の演奏。アンコールのレーガーの前奏曲とフーガという無伴奏風の曲は、音がつややかに響き渡る堂々たる演奏でした。着実に成長を遂げていらっしゃるのですね。日本でもう4回も彼女の演奏会に行き、若い演奏家の変化を楽しむ‘特権’を味わっています。

昨日は、久しぶりに実家の父と弟にメールを送り、その返事がきました。何とか、それぞれに工夫して楽しく暮らしているみたいです。父は、私が紹介した友の会に参加し、予定を詰めてあちらこちら旅行に出かけているようですし、弟は、アメリカで英語と格闘しながらも、子育てを楽しんでいるとのことでした。それぞれ自立して生活しているのは、ともかく安心です。

思い返せば、子どもの頃、母からよく「お父さんが病気か事故で死んだら、ユーリが学校やめて働いて、妹や弟の面倒見るんだよ」と言われ続け、将来をおびえていたところがありました。学校も勉強も友達と遊ぶことも大好きでしたから…。児童心理学的には、子どもには人生への希望と生きる自信を与えるべきであり、義務教育制度と社会保障が整っている現代日本で、そんなことを母親が子どもに言うのは、絶対に間違っているそうです!

予期せぬ人生への心構えという点ではいささかの意味があったかもしれませんが、確かに、取り越し苦労も多過ぎました。懸念していたことが一度も実現しなかったどころか、父は父なりに、定年後も2,3の会社で働き続け、その後もいろいろな集まりに出かけて、それなりにやっているのですから。子ども達に心配をかけたくない、ということもあるのでしょうが、高度経済成長期の猛烈サラリーマン生活を毎朝5時半からのジョギングで乗り切り、子ども三人を何不自由なく育ててくれたのですから、老いても、子が心配するほど親は頼りなくもないのですねって随分失礼なこと言ってます、私。

しかし、世の中皆がそれほど幸運でもないことは、充分承知の上です。毎年、「あしなが基金」にささやかな送金をし、応援の葉書を書いているのは、自分がここまで守られ、恵まれたことへの感謝の気持ちからです。

さて、遅くなってしまいましたが、時代祭の小レポートです。

時代祭の事後報告
2007年10月22日。12時15分から見物し始め、1時50分に最後の行列が御所を出て行った。途中、快晴から少し曇り空に変わり、肌寒くなってきた。2時半に最初の行列すなわち明治時代のグループが平安神宮に到着し、最後の行列を4時半まで待つとのこと。全員揃ったところで祝詞をあげる。

葵祭は、1998年に京大に用事があった際、ちょうど時間的にも距離的にも最高の兼ね合いで見ることができた。今回も、同志社女子大フランシス・フクヤマ氏の講演会の前に、ちょうどよい頃合いで見ることができたのは幸い。祇園祭は、イスラエルの「シオン祭」と並行状況にあるとか、数週間前のテレビでたまたま見たけれど、真偽のほどは不明。

ものすごい人だかり。国文科出身の血が騒ぐ思い。学生時代ならこの種の催しには見向きもしなかったと思うが、年をとったのか、なつかしく見つめてしまった。外国人、特に西洋人がこの祭りを見ると「オリエンタリズム」と解釈され、私のような日本人が見ると、自己ルーツとアイデンティティの再確認の機会となる。では、少し混じっていたアジア系外国人の場合はどんな気持ちなのだろうか。

各時代の行列を眺めながら、それぞれの時代に、私の遠い祖先は、どこで何をしていたのか、とふと思う。種の保存の生存競争を生き延びたからこそ、今ここに私が命をつながれている。もしかしたら、平和に農地を耕作していたばかりではなく、人をあやめた祖先がいたのだろうか。

明治から出発して、古い時代に遡っていく行列。歌舞伎の阿国の説明を聞いた時には、林屋辰三郎先生の岩波書店『京都』(1962)の記述を思い出した。

馬が一番大変だったりして。毛並みのよい馬とはこういうものか、とまじまじと見つめていたら、「写真を撮ってもいいよ」というように、装束を身につけたおじさんにポーズをとられた。さすがは、観光地ずれしてはる京都のお人やなあ。時々、待機中の馬のいななきが聞えたり、いわゆるじゃじゃ馬とはこれを指すのだろうかというやんちゃな馬もいた。

観光バスがずらり。名古屋、三重、岐阜、奈良からが中心。私は用事のついでの見物なのに、わざわざお金を払ってバスや新幹線に乗って遠方から見に来る人々も多い。本当に我が身を幸せだと思う。

行列はゆっくりと進むので、開始直後の20分ほどは、木陰で寝ころんで休んでいる装束姿の若者も結構いた。あれ?学生アルバイトなの?

大勢の人々に見守られながらの行進は、私にも経験がある。小学校5年生の時、秋の名古屋祭で、鼓笛隊の部の小太鼓係として、地下鉄3駅分を練り歩いたのだ。母親が大きな声で「ユーリちゃあん!」と叫んで手を振っていた。ともかく、こう見えても私、幼稚園の頃から舞台度胸があり、人前に出るのが好きだったのだ。人前で上がったことは一度もない。家に閉じこもっているようでも、結構、出たがり屋。ジキルとハイドのような二面性!院生の頃、指導教官にも「古風なところと革新的なところが同居している不思議な人だね」と言われたことがあった。

京都御所を訪れるたびに、本当にここで清少納言紫式部がお仕えしていたのかと思うと感無量。同志社大学から新島会館へ向かう途中の道で、「紫式部の家」の表示を見かけたことがある。こうしてみると、結婚を機に関西に移り住んだ私だが、元国文科専攻ということに、もっと誇りを持ってもよさそうだ。国文学→日本語教育→マレーシア派遣・滞在→社会言語学→マレーシア地域研究→キリスト教神学とイスラームの関係…と変遷を辿って来た。定見がないからではなく、勉強を進めていくと、現場の状況から自然にそういう風になったのだ。その場その場でいつも一生懸命だったので、昔学んだことは自分の中で根付いていると思う。(レポート終)

今日はこれから、神戸の三宮へ中原中也の生誕百年記念セミナーに行くのです。前にも書きましたが、高校生の頃、中原中也の詩に惹かれ、小林秀雄河上徹太郎などの評論を読み漁っていました。卒論は国語学にしましたが、それは当時、中原中也の一次資料を目にするには、パソコン時代の今と違い、あまりにも道のりが遠そうだったからです。でも、思い切ってやってみれば、案外よい経験になったのかも?

ただ、ここ数年、新聞記事にも中原中也が取り上げられることが多くなり、そういう時代なのかと思います。昨晩も新聞切り抜きの整理をしていたら、結構、記事が見つかりました。去年の冬頃、同志社大学の図書館で、初期の中原中也に影響を与えた高橋新吉の『ダダイスト新吉の詩』や中原中也の『山羊の歌』『在りし日の歌』などの複製本を見ました。写真を見ると、昔は大人と思っていたのに、今はつるつるした若い顔だ、と思います。つまり、私が年をとったのです!
ともかく、行って参ります。ご報告はまた後ほど…