ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

ある冊子から

昨日、関西セミナーハウスから文集が届きました。先頃、二泊三日で行われた神学生の交流研修会の報告です。
カトリックプロテスタント諸派からの14名の神学生が集い、同志社名誉教授の深田未来生先生や釜ヶ崎で奉仕されている本田哲郎神父、そして茶道とキリスト教のご専門であられる小林哲夫先生のお話を伺いながら、共に過ごし親睦を深め、今後の歩みの糧とするという試みです。
なぜ私のところに文集が送られてきたのか、と言えば、この研修会のための献金のご案内があったので、ささやかながら送金したからです。すっかり忘れていたのですが、こうして報告書が届くと、こういっては失礼ですが(やはり、キリスト教たるもの、こうでなければ)と、安心した思いでした。
というのも、このセミナーハウス、東京とは少し趣が違っていて、建物も立地条件も立派なのに、どうもかつての勢いや活気が失われたのではないかと、ずっと残念に思っていたからです。
所長さんが、どういうわけか次々によく交替されるのも不思議でしたし、会合参加申し込みの電話でも、対応が非常に気になっていました。(例えば「担当者は、今日は休みです。それは、私の担当じゃないので、また後で電話してください」などと、平気で返事したり、間違ったメールアドレスを教えて「まだ届いていません」など。)
何代か前の所長さんは、私に対して、「是非一度こちらに来てください。お話しましょう」と何度か書いてくださっていたのですが、その時にはこちらが、さまざまな状況から一種の不信感のようなものを持っていて、躊躇して機を逃してしまいました。
遠方を押して、思い切って会合に出かけて行っても、どこかよそよそしい雰囲気で、中には、ある知り合いの神学部の先生など、「こんにちは」と言いながらも(どうして、あなたがここへ来たんですか)と言いたげな表情で明らかに冷たくされて、がっかりしました。そういう先生が、講師として「キリスト教倫理は、人の生命を大切にする」などという話をされているパンフレットを見て、ますます落胆しました。
よく、会誌では「どうして日本のキリスト教は不振なのか」と話題にはなっているのですが、私に言わせれば、一般人は、口には普通出さないものの(私は多分、例外)、そういうところで判断して、足が遠のくのではないでしょうか。特に関西では、老舗の誇り高き教会が多くて、よそ者の新来者には、最初から敷居が高い以前に、閉められているような感じがします。初めは何も知らなかったので、本当に戸惑いました。
とはいうものの、家で一人閉じこもるわけにもいかず、求められれば献金だけは少額送ることにして、会報などで様子をうかがうことにしていました。
今は、新しい所長に替わられて、少し雰囲気が変わってきたように思います。その所長の師は、とにかく祈りの人だったことで有名で、私も学生時代に榎本保郎師の「ちいろば」の本を読んだことがあります。ただ、私の感覚では、最近、こういう話はあまり流行らないようです。もっと理屈っぽく、批判的に相対的な態度を取る方が、世の中の受けもいいようなのです。
でも、この所長さんが、私のささやかな送金に対して、わざわざ似顔絵イラスト付の直筆入り言葉を添えて、お礼状をくださった時には、素直にうれしく思いました。また、結果的に、目標額を上回る献金があったとのことで、やはり、と感じた次第です。
ロバート深田未来生先生は、アジアのキリスト教事典などでも、お名前をお見かけします。この世代の先生方は、学問だけではなく、身軽に国内国外どこへでも出かけて、本当に一人一人のために奉仕されていたようです。2007年3月のイスラエル旅行の時、同行した方の娘さんが同志社神学部出身で、タイ人と結婚されたそうですが、心配したお母様の話を聞いてなのか、先生ご自身、わざわざタイへ様子見にも行かれたと、うかがいました。その時、(ずい分、今とは雰囲気が違うんだなあ)と驚きつつも、うらやましく感じたことを覚えています。
なぜならば、そういう積み重ねがあれば、マレーシア事情についても、当然のことながら肌身でご存じなわけで、大学の生き残りをかけて、国から競争的獲得資金を得て、無理ヘンに拳骨のプログラムを作ってしまうなどということはなかっただろうと思うのです。立場が異なれば、必ずしも対立するというものではなく、一方が他方を勝手に抑圧したり無視したりすることで、摩擦が起きるのだろうと思います。その点、6割しかムスリム人口がないのに、イスラームだけでマレーシアを見ようとすると、不都合な事例が次々出てしまい、キリスト教主義を名乗っていながらも、肝心のキリスト教が傍流化されたまま、イスラーム優位の流れができてしまうことになったのです。
私の混乱の原因は、そもそもこの時の経験に基づくものですが、今は人事も大幅に変わり、世の中の流れも多少違ってきました。ただ、いくら当時、私が主張してみたところで、犬の遠吠えに過ぎず、徒労感しかありませんでした。
こういうことは、ある程度、時間がたってみて判明することだろうと思います。それゆえ、その間に、家で自分の勉強をすることにして、疲労回復に努めていました。
冊子に話を戻しますと、神学生14人とはいえ、若い人達ばかりかと思っていたら、50代60代の方も数名混じっていらっしゃいました。教員生活をやめて神学校に入られたなど、さまざまな経歴でした。私の考えでは、あまり若い時から、ギリシャ語やヘブライ語ラテン語に専念して、こむつかしい論文ばかり読んだり書いたりして、一種、浮世離れした神学者ないしは牧師になるよりも、ある程度は世俗の職業に就いて、世間の風を肌身で知った上で、神学を学ぶ方がいいのではないか、と思っています。もっとも、歳をとれば語学上の不利は多少あるのでしょうが、金銭面でも、それまでの仕事である程度の蓄えがあれば、信徒から献金を要求するために無理をしなくて済むのではないかとも思うのです。
文集でおもしろかったのは、本田哲郎神父の講演でした。実は、本田神父のことは、新聞でも時々大きく取り上げられているので、お名前や活動については存じ上げてはいたのですが、どこか少し抵抗感もありました。また、去年だったか、学会の休憩時間に、みのもんた先生が、「本田神父、あれおもしろいぞ」とおっしゃったのですが、相槌を打ってはみたものの、よくわかってはいませんでした。
ところが、今回、読んでみて、はっきりと正直におっしゃる神父さんなんだな、と共感する面もありました。おもしろいというのは、建前でごまかしていないからなのです。
例えば...

・できないとしても、少なくとも、わかった上で、今まで教会も神学院も神学校も無批判に生徒、学生に提供してきた神学的な教えなどを含めて「それはちょっと違うんだよ」とわかった上で、生きていく手だても必要ですからね、
・教会が出しているものはいいものばかりだ、それに対して疑いを持つのはとんでない(ママ)というような高飛車な姿勢の牧師、神父があったら、どうしようもないわけですよね。
・制度としての教会、教団としての教会が、しばしば持っている加害者性、いいものを提供するだけではなくて、提供することによって社会に害を与えている部分、そのへんに対する自覚を持ってほしいですね。
・「相手の立場に立って考えましょうね」→本当に相手の立場に立てるのか
・盛んに牧師、神父たちが、うれしがって言うことは、多様性の一致、違いを認めることのすばらしさ。皆、違っていていいんですよ、(中略)「みんな、違って、みんないい」という金子みすずさんとか「ばらばらもいっしょ」とか、教会の牧師、神父は大好きなんです。なぜだかわかります?共同体をまとめる上で、その言葉があったら万々歳、違っていていいんだ、(中略)だからナンバー1を目指さなくてもいい、オンリー1、神様にとって間違いのないオンリー1、それだけ教えていれば、牧師として神父として一番楽なんですよ。(中略)これは「祈りましょう」と祈りで誤魔化すわけです。祈りなんて、効きやしないのにね。祈りの本当の効果を確かめたことがあるんですか。(中略)祈った祈りが、ほんとに効いているのかどうかを、牧師になる人、神父になる人は疑ってかかってほしい。(中略)だけど、そうでないのだったら、祈りだけに、へんな期待感を持たせるような教会の司牧はしないでほしい。
・そのへんを聖書おタクになってしまっている聖書学者たちに、盲目的に従わない方がいい現場サイドから「これに対する答えになっているの、なってないの?」、神学生の皆さんが、聖書学者たち、神学者たちに問題をボンボン突きつけていって、彼らに発想を変えてもらうくらいの勢いを持ってほしいなと思います。
・だから多様性の一致というのは、誤魔化しなんですね。多様性は出発点です。
SMAPの歌じゃないけど、大きな花、小さな花、いろいろある、世界に一つだけの花という誤魔化しは効かないよ。大きい花は、それだけ楽なんですよ。ほっとかれても大丈夫。(中略)そんな誤魔化し方をされると、ムカーッときますよね。だけど教会って、意外と体質的に、そういうものを持っている。
・教会が、よかれと思ってやってきたことの加害者性が、どれほど害を与えてきたかということの最たるものが、キリスト教は愛の宗教であるという「愛」という表現が、どれほど人を苦しめてきたか。
・あなたたちがやっていることは一人の改宗者をつくるために世界中を走り回っている。ところが改宗者ができると、自分に対する地獄の子にしている。
・どっちみち、福音的な価値観というのは、常に少数派のままで動き続ける。それしかないんですね。体制を取り込んでしまうと、またぐずぐず崩れてく(ママ)。

特に私が共鳴するのは、「ナンバー1にならなくてもいい、オンリー1でいい」「多様性を認め合う」という教えに対する批判です。
「オンリー1」については、実際、教会にいる時間が長い若者に、そういう言葉を鵜呑みにしてしまって、一般就職がますますできなくなるタイプがある、と聞いています。芸術家や芸能人ならともかく、一般社会は、平凡な普通の人に「オンリー1」を求めてなんかいなくて、むしろ、協調性や能力的に何か貢献できるかどうかが大事なのに、むやみに個性を強調すると、「そのままでいい、ありのままのあなたでいい」ということになって、非社会的な礼儀知らずの若者ができてしまうという弊害です。
それ以上に私自身が困っていたのが、「多様性を認め合う」という合い言葉です。多様性といっても、実は拮抗する価値観も世の中には多く、認め合ったら最後、即座に分裂したり焦点がぼやける可能性もあります。なのに、その現実を直視せずに、いかにも広い心で何事もおおらかに包摂する「寛容性」こそが、人格的にも優れているような欺瞞が、アカデミアでもマスメディアでも盛んに唱えられていた時期があったように思います。私は、現実をまず直視するところから始めるべきではないか、と常々考えていて、その路線で、マレーシアに関する研究発表を続けてきたつもりです。
本田神父は、まったく別の文脈ですが、そこを鋭く突いていらっしゃいます。もちろん、賛否両論あるでしょうが、まずは問題提起としてのご発言としても、充分に意義があることと思います。
最近は、どうも今一つやる気が出ないなあ、と反省していたのですが、空元気や意志だけでは物事は進まないのであって、やはり、期待がある程度満たされるとか、自分のしていることにそれなりの意義が見い出せるとか、本当に共感できる発言や行為に刺激されるとか、そういうことが少ないと、意欲も減退してきます。
そういう意味で、この冊子は、本当に小さな集まりの記録ですが、さまざまな神学部や神学校や教会の様子が垣間見えて、勉強になりました。