ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

パールマン演奏会・トプカプ宮殿展

昨日の午前中、残念なお知らせがありました。
とても楽しみにしていたザ・シンフォニーホールでのイツァーク・パールマンの演奏会が、急病のためキャンセルになったとのことです。先日届いたミルトスの冊子にも、今回の日本ツアーの日程が書かれていたので、来日を喜んでいたのですが…。
クラシックコンサートの場合、演奏者の都合や気候状況で休演になったり延期したりということは、決して珍しくはありません。例えば、ザ・シンフォニーホールパールマンのチケットを購入した6月1日には、「マルタ・アルゲリッチの演奏会は体調不良のためキャンセル」という大きなポスターが貼ってありました。
こんな例もあります。夏のいずみホールでのヨハネ受難曲のコンサート(参照「ユーリの部屋」8月6日付)は、ライプチッヒの指揮者が交通事故のために来日不可となり、事務局は大慌てでした。その時は、合唱付き管弦楽団という大掛かりな演奏会のため、急遽日本人のベテラン指揮者に変更して開演しました。
一応覚悟の上とはいえ、著名な外国人演奏家の来日演奏会が無事に開催されることは、一期一会の大切な機会なのだと改めて思わされます。そういうわけで、今年、ギル・シャハム氏やロバート・マクドナルド氏が再び日本に来てくださったことを、この上なくありがたく思いますし、素晴らしい演奏を堪能できたのみならず、サインをいただいたり、写真まで一緒に撮っていただいたり、心から感謝しています。演奏会場で、人生のひとときを共に過ごせた、ということが本当にうれしいのです。
いずれにしましても、パールマンさんにおかれましては、速やかに回復されますよう、遠くより祈念申し上げます。

午後は、烏丸御池京都文化博物館トプカプ宮殿の至宝展示会に行って来ました。朝日友の会の会員なのに、新しいカードに替えて以来、今年はどういうわけか一度も利用していないため、主人と二人で計400円の割引があるという点に一番の魅力を感じて出かけました。

そういえば、今年3月上旬にイスラエルを旅行した時、タシュケントからテルアビブ行きの飛行機に乗り換える際、イスタンブール行きの飛行機待ちルートが、日本の女子大生風の若者でびっしり埋まっていたことを思い出します。私や妹の学生時代には、卒業旅行と言えば、アメリカか西ヨーロッパが主流だったことを思うと、まさに隔世の感でした。

このトプカプ宮殿については、以前にも「ユーリの部屋」で書いた、池田裕先生のパンと魚とワインの本にも微かに言及されていました。人口40万人のエルサレムと人口600万人のイスタンブールとでは、まるで規模が違うのだと書かれていましたが、先生が1970年代当時、イスラエルからトルコまで飛ばれた理由は、ある少年の手帳、すなわち「アビヤのノート」という資料を見てみたかったからだそうです。私も、その手帳があればいいなあ、と密かに願っていました。結論を先に言えば、もちろん、展示に含まれてはいませんでした。「アビヤのノート」はトプカプ宮殿脇の考古学博物館所蔵だったからです。

一時間ぐらい見て回りました。全体的な印象としては、金や宝石がたくさん使ってある豪華で派手な装飾品や物品が多い他、特に目をみはるようなものはなく、正直な話、どちらかといえば学ぶところ少なく、あまり感心しない文化だなあというものでした。これは、決して偏見の類ではありません。例えてみるならば、日本の大奥がかつてどれほど豪勢な暮らしをしていたかを見せびらかされるようなもので、見せられた側は「で、それで?」という言葉しか出ないのと同じです。

オスマン帝国は、広大な領土に多民族が共生していたという点がしばしば強調されます。展示会でもそうでした。一方で、信仰と軍事力が密接に結びついていること、ハーレムに見られるごとく女性の役割は官能に力点があり権力闘争中心であること、装飾品の模様も大ざっぱで精緻さにやや欠けること、書物がコーラン以外に見あたらないこと、文字記録が極度に少ないこと、などに気づきます。オスマン帝国と交流のあった中国陶器の展示コーナーもあり、これが一番安心して見られた、というのは何だか皮肉です。
お土産物では、記念用に葉書をペアで数枚とトルコ紅茶なるものを買いました。その他は、メモ帳にしてもブックカバーにしても、何やら値が張り過ぎで、とても買う気になれませんでした。また、トルコの魔よけの飾り物は、ブルーの目玉みたいな形をしていて、イスラームとどう関わっているのか、よくわかりませんでした。
チューリップはオランダ産だと思っていたら、実はトルコ産なのだそうです。本当かな、と思って帰宅後、手持ちの『カラー植物百科平凡社1974/1997)で調べてみたところ、次のように書かれていました。
 「原産地は不明だが、トルコで栽培されていたものが16世紀に欧州に渡り、オランダを中心に品種改良が行なわれ、多数の園芸品種が生まれた。」(p.242)

マレーシアのムスリム学者のみならず、イスラーム関連の日本人研究者の一部も、自己の研究対象を美化したいのか、または地位引き上げを行ないたいのか、または無知蒙昧なる一般人を啓蒙したいのか、本来はイスラーム発祥のモノやアイデアなのに、あたかもヨーロッパ発祥であるかのように誤解されている、と主張する傾向がたまにあります。例えばコーヒー、例えばシャーベット、例えばサモワールなどのように…。しかし問題は、大抵、話がそこで終わってしまうことです。なぜなのか、という議論になかなか発展しないのです。つまり、この種の話は、「どこが本当の発祥地なのか」ではなく、「語られていないのは何か」、そして「それはなぜなのか」に注目することが肝要だと思われます。
チューリップの記述に話を戻しますと、「オランダを中心に品種改良が行なわれ」という箇所は、イスラーム地域文化では、ほとんど語られません。種はトルコかもしれませんが、よりよい種に研究開発したのはオランダなのです。
という当たり前のことが、イスラーム圏内ではなかなかまともに忠言できない点に、非常なもどかしさと時間の浪費を感じます。
展示物の幾つかは、マレーシアでもよく似た感じの品を見かけたことがあります。それもそのはず、マレーシアの与党UMNOの創設者故Onn Jaffar氏などのように、マレー人ではあっても、そのルーツがトルコ系だということは、マレーシアで決して珍しい事例ではないのです。ムスリム同士は、国境を超え、民族の相違を超え、イスラームという紐帯で緩やかに結ばれ合っています。