ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

研究の技法について

洋間の本棚から、なつかしい本を取り出しました。梅棹忠夫著『知的生産の技術岩波新書青93(1969/1989)です。学部生時代に図書館から借りて読み、とてもおもしろかったので、1993年12月5日に名古屋の覚王山にあった古本屋さんで改めて入手したのですが、今読み直しても、本当におもしろいです。一見、わかりやすく書かれていますけれども、実に含蓄が深い!こういう文章こそよい手本であり、また良書であろうと思います。
最近の本は、電車の中でさえ読みたくないほど中身が薄かったり、逆にやたら細かいマニアックな情報であふれていたりと、資源の無駄ではないかと思われるようなものが増えているように感じられます。「良い本は古本屋で探せ!」というのが、最近の私のモットーです。
梅棹先生については、1993年夏に、京大東南アジア研究センターの高谷好一先生(当時)が私達に「梅棹さんは運が良い。イギリスとの比較をやったから」とおっしゃっていたのを覚えています。しかし、今思うと、単に運が良かっただけでなく、思想が深くて人間洞察に富んだ方だということです。そしてユーモラスでもあられます。
ちなみに、私が読んでいる本を見て、主人が「あ、うめちゅうか」と言い出しました。さすがは関西人。民博館長でいらした梅棹先生のことを、軽々しくもあだ名で呼ぶのです。

読んでいて笑ってしまった箇所を引用列挙しますと…。

そしてその結果、基礎的素養において欠陥のある研究者が、つぎつぎと出現してくるということになる。知識においては高度なものを身につけているくせに、研究の実践面においては、いちじるしく能力がひくい、というような研究者がでてくるのである。」(p.4)
そのかわり、いわゆる専門バカといわれるような、視野のせまい、学問的生産力のとぼしい研究者になりやすい。」(p.6)
情報の時代における個人のありかたを十分にかんがえておかないと、組織の敷設した合理主義の路線を、個人はただひたすらにはしらされる、ということにもなりかねないのである。組織のなかにいないと、個人の知的生産力が発揮できない、などというのは、まったくばかげている。」(p.18)
自分というものは、時間がたてば他人とおなじだ、ということをわすれてはならない。」(p.55)
分類法をきめるということは、じつは、思想に、あるワクをもうけるということなのである。」(p.58)
わたしたちにはいつも、無限の世界とのつながりを心のささえにしているようなところがあるらしい。カードは、その幻想をこわしてしまうのである。無限にゆたかであるはずの、わたしたちの知識や思想を、貧弱な物量の形にかえて、われわれの目のまえにつきつけてしまうのである。」(p.61)
材料や、道具や、ムードなどのところで個性を発揮すると、それで安心してしまって、ほんとうの知的生産のレベルでの個性発揮がおるすになるおそれがある。」(p.78)
とにかく自分の読書歴のすべてが集約されて眼前にあるということは、自分自身の知的活動力に対してあまり幻想的な評価をしないために、ひじょうに役だつ。」(p.104)
新字の考案という仕事は、なにか、人間の情熱をあやしくもえあがらせる、ふしぎな魅力をもっているらしい。もともと、国語国字の問題に熱心な人には、しばしばファナチックな傾向がみられるが、新字論者には、ずいぶんはげしくその創造にうちこんだ人がいたらしい。」(p.132)
わたしは、ひらかなタイプライターの開発者という、日本文化史上の光栄ある地位を獲得しそこなったのである。」(p.140)
国際的には、手紙の形式はひとつのものに収れんして、人類共通文化を形成しようとしているのに、国内的には、日本の手紙はまさに百花斉放、ますます放散する方向をたどりつつあるようにおもえるのである。」(p.147)
世界には、いろいろな文化があって、なかにはほとんど実質的な仕事もしていないくせに、報告書その他の書類だけは、やたらに部あついものをつくるので有名な国民もある」(p.174)
原稿というものは、つい最近までは、ごく少数のエリートだけがかくものだったのだ。いまでも、年配の人のなかには、わかい人たちのかいたものが出版されたり印刷になったりすると、たいへんごきげんがわるくなる人がある。わかいくせに、なまいきだ、というふうにおもえるのだろうか。かいたものが印刷になるなどということは、なにかどえらいことのようにおもっているのだ。」(p.182)(ユーリ注:原文は「どえらい」に傍点あり)

ただし、梅棹氏については、昨今、キリスト教関係者から一部根強い批判があります。大阪クリスチャンセンターの講座でも、佐藤全弘先生が「どうして梅棹さんほどの人ともあろう方が、一神教、特にキリスト教について、環境破壊の根源だとか、紛争の原因だとか、これからは多神教の時代だとか、そういった間違った認識を持たれるのだろうか」とおっしゃっていました。比較文明論がご専攻とのことですが、本来は理学部のご出身で、自然科学の畑育ちだそうですから、民族学からの発展でそうおっしゃっているだけで、本格的な神学や宗教学の学徒ではいらっしゃらないのだろうと思います。

もう一つの‘認識ミス’は、タイプライターのローマ字・カナモジ運動についでですね。英語のアルファベットと比べて、漢字は画数が多い割に意味内容が簡単に表示でき、語源を辿りやすいので、決してローマ字・カナモジにはならないと、私は学生時代から考えていました。これは、本を読んでノートに大事な箇所を抜き書きする経験から得た知見です。英語(のみならず、マレー語もドイツ語もスペイン語も)は、その点、本当に面倒なのです。カナモジ表記もそんな運命になるのかと思うと、ぞっとしました。例えば韓国でも、いわゆるハングル世代は漢字の読み書きが苦手なばかりか、語源を知らないために、日本留学してから初めてこれは日本語から韓国語へ輸入された借用語だと知った、などと述懐している例があります。韓国には大変申し訳ありませんが、日本が同じ轍を踏まなくて、本当によかったと思う次第です。
もしかしたら、この提案が生まれた背景には、マルクス主義の運動も貢献していたのかもしれません。左派系の人々は、しばしば「誰でもわかるように表現しなければならない」と主張し、通常は義務教育でも漢字表記するところをわざわざ平仮名表記にする傾向があります。例えば、「…に関して」というのを「…にかんして」と表記するなどです。ただ、どうなんでしょうか。そういう表記は、一般の新聞でも見かけませんから、かえって書き手の癖と受け止められるかもしれませんね。

「易しいことを難しく語る」のが御法度なのは当然として、「難しいことを易しく語る」のは、本当に内容を熟知していなければできないことでしょう。上記の「誰でもわかるように」というのは、一見、もっともらしい啓蒙なのですが、実は、まやかしも含まれているのではないかと思われます。第一、「誰でもわかる」内容ならば、専門家や専門教育は不要だということになります。人間界やそれを取り巻く環境は、残念ながら、「誰でもわかる」という幻想を抱くには複雑過ぎるのです。

恐らく、ローマ字・カナモジ運動が不振に終わったのは、そういう現実直視からずれていたからではないかと思います。キリスト教など一神教批判の展開も、日本国内でならともかく、決して国際的には正当に認められないだろうと予測されるのも、同じ理由からです。

そういえば、ワープロが出回り始めた頃、ある新聞のコラム欄に「これで梅棹さんの苦労は報われた。今どう思われるだろうか」とあったのを思い出します。