ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

パソコンって本当に便利なのか?

昨日は、「ウィーン国際音楽祭イン大阪」なる演奏会のために、いずみホールへ。その前には、ホテル・ニューオータニで昼食を。
と、大変に素晴らしい一日が過ごせたのですが、今日はすっかり何もかもがボツに...。
パソコンのせいなのです!
ここしばらく印刷機能がおかしくなっていました。ウェブに掲載されたパイプス訳文を印刷していると、画面上では日付が印刷されるように提示されていたのに、印刷を連続させると、1本目はプリントアウトの日付も原稿の番号も印刷されていても、途中から日付が入らなくなり、それどころか、変な文字化けのような徴が代わりに印刷されているという状態に。しかも昨晩は、1ページから5ページまでの原稿を両面印刷でA4一枚に2ページの割合でプリントアウトしようとしたところが、なぜか、1ページ目と3ページ目が合作状態になってしまったのです。
もちろん、一切、操作をいじってはいません。連続印刷していると、途中で勝手に変わっていくのです。
しかも、今朝方、さらに腹立たしいことが起こりました。
パイプス先生の最近の論考である「イスラーム主義の統一」(http://www.danielpipes.org/12103/islamism-unity)に関して、訳文を提出した折に(http://www.danielpipes.org/12135/)、「現在の動向は、過去の『汎イスラーム運動』の別バージョンを志向していると考えることは正しいでしょうか」という問いを添えました。今朝方メールを開くと、早速、例によって短いながらも、お返事がありました。「今回は違うと僕は考える傾向にあるね。以前のよりも、もっと民族的で、よりイスラーム主義的になっている」と。
そこで調子に乗った私は、日本の1930年代と40年代の回教研究の興隆と現在のイスラーム研究の流行との兼ね合いについて、比較的長いメールを書き始めてしまいました。
以下は、「イスラーム主義に関するさらなる物思い」と題する私信の邦訳です。

お返事をありがとうございました。


「以前のよりも、もっと民族的で、よりイスラーム主義的になっている」とお書きになりました。「よりイスラーム主義的」には同意しますが、「もっと民族的」とは、どのような文脈で考えることが可能でしょうか?


「元キャット・スティーブンスがアカペラでシャヒードを歌っている」と訳している間に、私はたまたまYou Tubeで、「シェイフ」と呼ばれている日本人の改宗ムスリム男性が、日本の伝統的な作務衣を着て、まさにアカペラで日本語のシャヒードを歌っていたのを見つけました。確かにそれは「もっと民族的」に見えます。


しかしながら、大半の指導的な日本人ムスリム改宗者達は、頻繁にムスリム諸国、例えば、マレーシア、インドネシア、トルコ、エジプト、時にはサウジアラビア、そしてイランさえも旅行し、世界中の他のムスリム達と接触を持っています。また、外国のムスリム達も、会合のために日本に招待されてきました。彼らの間では、英語とアラビア語が話されています。


それが意味するのは、民族的というよりは、よりグローバル化しているということです。内部論争のために、ムスリム統一は非常に困難だと不満を述べているムスリムがいるのも事実ですが、この慣習は、1930年代と40年代に観察されたものとほとんど類似しているように思われます。


第二次世界大戦前や戦時中は、いわゆる国粋主義者や右翼の知識人や非西洋圏に共感する人々が、回教研究に従事しました。なぜならば、彼らはイスラームを「東洋の宗教」だと考えており、西洋植民地支配からムスリムやアジアの「抑圧された人々」が「解放」されるために、イスラームが鍵であるとも考えていたからです。例えば、1930年代に建てられた東京や神戸の古い大きなモスクは、典型的なトルコ風であり、そこには、多民族多国籍の資金提供者達が礼拝のために集まりました。


現在では、先生が書かれるように、左翼の知識人や元マルクス主義者や社会主義者が、ムスリムイスラーム(主義)に加担しています。ここ日本で、私も同じ傾向を観察しています。でも、基本的に私がまだ考えているのは、イスラームイスラームであり、イデオロギー上の立脚点や表面的な傾向が異なるように見えても、世界中で、いつ何時も強力な政治的動員力を持っている、ということです。

今日一日の予定が台無しになった不機嫌さの解消のために、このブログを書き始めていたら、何と、早起きパイプス先生から、またメールが届きました。
最後の一文をそのまま引用された上で、「全く異論はないね。『もっと民族的』で僕が意味していたのは、国境を越えてムスリムが統合することよりも、むしろ国境内部でイスラームをつくろうとしていることに焦点を当てた場合だよ」と。
それならば、こちらも何ら異論はありません。ほっとしました。

もう一点、お返事をいただいてほっとしたのが、冒頭の印刷機能のこと。メールでさえ、英語でお返事を書いているうちに、フォントや字形が勝手に変わってしまうことに、最近、非常に苛立っていました。実は、返事を書いている自分の画面では非常にきれいで、フォントも字形も整っているのです。ところが、返信ボタンを押した途端、どういうわけか乱れが出現するのです。あるいは、返信時点ではきれいだとしても、記録保存のためにと印刷にかけると、パイプス先生の宛名のみが異常に大きくなったり、私の名前が著しく小さくなっていたり、文中で文字の大小が変わっていたりするのでした。
これでは、いくら、外国人にしては「とても英語が上手に書けるね」(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120916)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120917)と言われていたとしても、パイプス先生宛メールは、いつも非常におかしな形態で届いているのではないでしょうか、と気になっていました。そのことで、私はますます苛立っていたのです。
今日、半日がかりで、メールや印刷機能を調べてくれた主人に言わせると、「あれほど世界中からメールを大量にもらってきた人が、そんなことで、もし低い評価をしていると考えるなら、それこそパイプス氏に失礼というものだよ。結局、こちらでいかにきれいに整えていたつもりでも、相手のパソコン機種によっては、違って見えることもあるからさ。日本語と英語の記述法の問題でもあるし、多くの外国語の翻訳を長い間受け取っているなら、もし問題があったとしても、面倒くさいし、承知済みだよ。きちんと通じているからこそ、ちゃんと返事が届くんじゃないか。嫌な相手や面倒ならば、いちいち返事なんて書いてこないよ」。
そうなんでしょうかねぇ。確かに私も、これまで、マレーシアや中国などの海外からメールを受け取った際、変な文字化けが入っていたり、字形が変だったりしたこともありましたが、そのことだけで、相手の能力や人柄を疑ったことはありませんでした。(パソコンってややこしいわね)ぐらいで。
自分はそのように「寛大」なのに、相手はもっと気難しいタイプだと私が考えていたとしたら、確かに失礼なのは私の方です。
確証として、これを一生懸命書いていたら、ちゃんと太平洋を越えて気持ちが通じていたのか、パイプス先生からメールが届いたというわけです。
「もう、そんなにパイプス氏に夢中ならば、パイプス氏のところへ行きなさい」と、主人に言われてしまいました。
明日は、昨日の演奏会のことを書こうと思います。