ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

ミーチャ@DSCH(2)

閑話休題。「研究」といっても、どういう立場から何の目的でショスタコーヴィチを研究するのかにもよるので、先日書いた偽書論争の‘理由づけ’は、私には何とも言えません(「ユーリの部屋」2007年9月9日付)。ただ、一級の研究資料としてではなく、単なる読み物としてならば、ソロモン・ヴォルコフ著『ショスタコーヴィチの証言』は、それなりにおもしろく読める本だと言えそうです。以下、素人の単なる憶測ですが、現段階で感じたことを書いてみます。

例えば、著者には「ソロモン」という名がついているので、どうやらユダヤ系らしいということは推測がつきます。現に、彼の両親が、1955年に初演された、ユダヤ民族にまつわるショスタコーヴィチの演奏会から興奮して帰ってきて、それをきっかけに、彼はショスタコーヴィチの作品を音楽的にも政治的にも研究するようになったと「序」で述べています(p.1)。ソ連から亡命するというのは、機会とルートが整い次第、ユダヤ系ならば充分あり得ることです。実際に、アシュケナージミルシテインもその系統でしたから。そして、ショスタコーヴィチは、ユダヤ民族音楽をよりよく理解しようと務め、ユダヤ人の味方でした。ですから、著者に対して丁重な態度で接したということは、その観点からも理解できないことではありません。
また、著者はアメリカ亡命後、コロンビア大学ロシア研究所の助教授になったとのことですから、日本でぶちぶち理屈をこねていないで、ご本人に直接会って、冒頭で述べられている証拠写真と署名の入ったタイプ原稿を確認すれば済むことか、と思いました。(←ところが、それが拒否されたところから、ますます‘疑惑’が高まったらしいというオチがついています。)
それに、夫人(恐らくは最初の奥さんの死後、再婚した人?)の来日当時に、この著作を不愉快に思っていたらしいのが事実だとしても、私などから考えれば、それも極めて自然な反応だろうと思います。なぜならば、夫人は亡命しなかった身なのであり、今も「スターリン再礼讃」風潮があると言われるロシアで、下手な発言でもしようものなら、帰国後が危ないことぐらい、わかりそうなものです。言論統制の厳しい国に少しでも滞在したことのある方なら、そういう察しはつくのではないでしょうか。

話は逸れますが、数週間前に、何ヶ月か前に郵便受けに入っていた日本共産党のパンフレットを整理しようと思い、唖然としました。驚くべきことは、きちんと驚いておかなければならない、とある先生が本に書いていましたが、本当にびっくりしたのです。何かというと、日本共産党は今、世界のイスラーム諸国と連帯していて、OIC(イスラーム諸国機構)の会合でも、唯一招かれたのは日本共産党だけだと誇らし気に書かれてあったからです。特に、マレーシアと日本共産党とは仲良くしているらしいんですよ!マラヤ/マレーシアの歴史(特に第二次大戦前後)をもう少し勉強なさったらどうですか、と思わず口にしそうになりました。

もう一つのびっくりは、そのパンフレットに「もうすぐ資本主義は崩壊し、今後の世界は、社会主義を経て共産主義が勝利します」というような文面が書かれてあったことです。え!今でも、本気でそう思っていらっしゃるんですか?何という恐ろしい時代錯誤かと驚きました……。
ここで思い出したのは、2003年に閉会された、あるアジア研究会の会合です。中心メンバーの先生方は、もちろんマルクス主義系ではなく、中には、仏教の僧侶兼大学教授も含まれていました。ある日の会合で、出席者の年配男性が、何やら共産主義の優位性とか何とか発言し出しました。1990年代半ばのことです。その時は、何が何やらわけがわからなくなり、黙って聞いていましたが、さすがに主催者の先生が、会合後のお茶の時に、「まだあんなこと言っているなんて、信じられんなぁ」と呆れ返っていらしたのを目撃しました。まさに、そんな感じです。

ただし、私にとっては笑い事ではありません。共産主義イスラーム主義には、無神論と有神論という大きな前提差がありますが、その社会統治法には、どこか類似したところが多いのです。語弊を恐れず一言であえて言ってしまえば、全体主義的だということです。どちらの運動家も、「民主主義」「デモクラシー」ということばそのものは、好んで繰り返し口にします。しかしその実態は、決して自由に恐れず物が言える形態を具現化するものではありません。日本共産党イスラーム圏と親しく手を結んでいるというのは、その根拠がここに見出されるかと思います。

ともかく『ショスタコーヴィチの証言』の本、もし出版直後の1980年代に読んだとしたら、なかなか意味がつかめなかったかもしれません。ちょうど大学院の時の私の誕生日にベルリンの壁が崩壊しました。院修了後はすぐに海外に派遣され、ソ連邦の崩壊はマレーシアで知りましたので…。
若い時期には、自分の人生の手本やモデルを模索するものですが、ショスタコーヴィチって、難解な重たい曲ばかり作って、なんて皮肉屋で辛辣な人の悪口ばかり言う暗い作曲家なんだろう、という印象のみで終わってしまったことでしょう。

私の小学校時代には、ロシアの民話や文学もさることながら、児童向けソビエト文学も、威勢よく紹介されていました。当時私が抱いていた旧ソ連の印象は、政治的には言論統制が厳しく恐ろしい国であっても、人々は文化とスポーツに抜きん出ていて科学技術の発展した国、という他愛のないものでした。ソビエト児童文学にせよ、ソビエト音楽にせよ、今記憶を辿ってみても、どこか不自然な妙な明るさを含んだものだったことを思い出します。
今のように、少しでも疑問に思ったり知りたいと感じたことを、すぐにパソコンで調べて納得することのできる時代でもありませんでしたから。

笑えた箇所の一つは、プロコフィエフに対するショスタコーヴィチの悪口です。

プロコフィエフは、あまり人と打ち解けるタイプではなく、やや周囲を見下す傾向にあったと書かれています。真偽のほどは不明ですが、二人の音楽を聴けば、タイプが違うことはよくわかります。ともかく、プロコフィエフにはお気に入り言葉が二つあり、それは「おもしろい」「わかりましたか」だったということです。本当にショスタコーヴィチがそう発言したのかどうかはわかりませんけれども、そこで「低能の食人種の語彙ではないのか」と記されています(p.59)。当時のソビエト・ロシア文化圏から見れば、そういう発想なのでしょうか。マレーシアでは確かに、元首狩り族のイバン人がボルネオ島に居住していて、「男らしさの象徴」として首を狩っていたらしいですが、もちろん現在では、キリスト教化されたこともあり、すっかりおとなしくなりました。しかし、聖書翻訳史を少し調べてみたところでは、いくら何でも、プロコフィエフお気に入りのその二単語だけの言語じゃありませんでした!

ともかく、ショスタコーヴィチについては、旧ソ連における反ユダヤ人問題に対する理解と曲想との関連、曲の分析とその政治的社会的背景などが、私の主な関心事です。こんなことに夢中になっていると、また、自称‘学者’さん達から「だけど、それがマレーシアの研究と、学問的にどう結びつくの?」なんて、わけのわからない質問をされそうですが、もう気にしない、気にしない…。平板で硬直化した視野の狭い発想には御免被りたいです。興味あることは多いのに、人生は短いのだから…。

そういえば、以前(2007年9月10日付)にも言及した、邦楽専攻だったロシア出身の留学生が、ある時私に「音楽は、必ず科学的に説明できなければならない」とか何とか言っていたのを思い出しました。当時は、(さすがはロシアの音楽教育!)と感心していましたが、今なら、彼女の背景がよくわかります。