ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

一つの帰結

おとといの続きです。
今から思えば、学生時代に、若くて未経験で無知だからこその「特権」を活かして、もっと率直に感じたことなどを先生に議論の形でぶつけていれば、早くに瓦解できたのだろうとも思います。私の感覚は私のものであり、生まれ育ちなどから、違和感は違和感として、やむを得ないものだからです。経済不況の昨今でもそうですが、当時でさえ、マルクス主義からの主張や視点の提出には一定の意義があるものの、現実面では無理や限界があることは既に看破されていたところであり(例えば『矢内原忠雄全集 第十六巻岩波書店1964年)および2009年7月28日付「ユーリの部屋」を参照)、礼儀作法さえ守っていれば、学生として「どうして先生はそう考えられるのですか」程度は、お尋ねしても構わなかったはずです。もっとも、都市銀行の管理職の父を持つ女子学生が、革新・進歩的な思想を実践しようとされていた、親と同世代に相当する大学教員に議論をふっかけてみたところで、所詮は時間の無駄、勝負にもならず、滑稽な図でしかなかったのでしょうが...。
学風は穏健だとされていたことと、私立のような建学の精神がなく、マスプロ大学でもなかっただけに相互規制が働き、かえって中立で安心できるとも思っていました。そこが判断に迷うところでもあったわけです。
また、一見フェミニスト風でありながらも、どこかこちらが牽制されているような感覚もありました。それに加えて、目上の人に逆らってはいけないなどと、祖母や母から躾として強く言い聞かされていたために、つい遠慮してしまったことと、専攻外のためにドイツ語能力が不充分で、こちらが未熟だから、まだ理解できないだけなのかもしれない、と自粛してしまったこともあります。
人間関係上は、穏便に済ませたことで身を守ったのでしょうし、過ぎたことはそれでよし、としなければなりません。基本的に、結婚後は年一回のお年賀状のやり取りだけでしたから、はっきり言ってしまえば、イメージがそこで凍結していて、当時のままの関係で相手を見ている、という図式になります。
以前にも二冊のご著書を送っていただいたのですが(参照:2008年4月4日付「ユーリの部屋」)、実は自分のことで忙しくて、きちんと読んではいませんでした。ただ今回は、あまりにもさっと読めてしまうこともあってか、疑問点はどんどん書き込みをし、気になるところはインターネットの検索で調べたりもして、だんだん様子がつかめてきました。
結局、学部時代の私の直感および記憶は、それほど大きく間違っていなかったようです。先生の恩師に当たる方が、マルクス主義の観点から革命詩人としてのハイネを日本に紹介した大家として知られていたため、そのお弟子筋も皆、まるで徒弟制度のように、それに同調する形でのみ論を展開していたこと、東ドイツに留学しても、社会主義のきれいな部分しか見せられず、そのまま日本に持ち帰って紹介していたこと、などなどです。そのため、例えば、ユダヤ人としてのハイネを実証的に考察するという立場の研究者には、なかなか日が当たらなかったこともわかりました。
....と、なぜ余計な無関係のことを、しつこく調べてブログにまで書いているか、と言えば、私の対象とするマレーシアを含むイスラーム圏に関する研究にも、どこか似たような傾向が見られるからです。ある会合で、「昔なら左翼に属していたであろう人が、共産圏が事実上ほぼ崩壊した今では、イスラーム圏の研究に従事している」という意味の話を聞いたこともあります。唯物史観無神論的社会と唯一神の信仰共同体とでは、そもそも前提が異なりますが、いずれも、結論が先に来ていること、全体主義的な色彩、権威主義的な志向、宗教警察のムスリム監視と共産圏内の密告制度などの近似、経済面では混沌として貧しい人口が多数派を占めることなどが、どこかで類似性を持つのでしょうか。
その中で看過できない点は、マルクス主義を信奉する人々が、実際には自由な資本主義社会の恩恵配分に預かっておきながら社会主義の優越性を唱えてやまなかったように、ムスリムの多くが、実際にはズィンミーの経済活動や学術文化面での貢献から益を得ておきながら、最終宗教としてのイスラームの完全性や優越性を誇るという、パラレルな特徴です。ですから私が、現地で気づいた、マレーシアでのキリスト教徒が直面する問題に対してリサーチを進めようにも、確固たる資料および師が見つかりにくく、どうにもやりにくかったのは、このような状況を概観すれば、客観的に肯定できるところです。
ただ、この歳になったから言えることですが、学生の頃は、いわば疾風怒濤の時代で、「革命」とか「新しさ」とか「抵抗」とか「闘い」のような用語、または、意味もなく堅苦しく抽象的な議論などに惹かれやすい性格もあると思います。問題は、よほどしっかり師を見極めない限り、たとえ数年は生産的な時期を過ごせたように思っても、経験に基づいて現実を直視し、地に足のついた方法でなければ、いつかはどこかで行き詰まるのではないか、ということです。