ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

イスラーム圏内のキリスト教

昨晩、キリスト教史学会から、今年9月に開かれる研究大会での発表申込みが受理されたとの通知をいただきました。頑張らなくちゃ!
日本国内のキリスト教関連の学会は、従来、ドイツやアメリカやイギリスの神学や聖書学の後追い研究や、日本のキリスト教史が中心になってきたのですが、そういう所で「マレーシアのキリスト教は」と発表しても場違いなのでは、とこれまで遠慮してきました。かといって、東南アジア研究やマレーシア地域研究の場で発表するのも、イスラームあるいはムスリム寄りの研究者の前では、勇気が要ります。
これまでにも「何が言いたくて、そういう研究をしているんですか」などという発言が聞かれ、落胆したことがありました。「何が言いたくて」ったって、これもマレーシアで起こっている現実じゃないですか!かと思えば、露骨に無関心の態度をとられたり、「ユーリさんの発表は聞きたくない!」などとも言われたことがあります。たとえ都合が悪くても、直視することで物事は進展するのに…。
名誉教授のようなご年配の先生方は、「これからはそういう研究が重要になってくるから、続けなさいよ!」「そういうこと言っているのは、若い層じゃないですか。気にしないでいいですよ」などと励ましてくださることが多いのですが、いかんせん、そういう重鎮は、私が発表するような会合には、もはや出てくださらないので…。
今、パキスタンイスラマバードにあるラール・マスジド(赤いモスク)で、マドラサイスラーム学校)の学生達を中心とした騒動が発生しています。マレーシアにもパキスタンムスリムが暮らしていますので、私にとって無縁ではありません。マレーシアもそうですが、中東や南アジアのイスラーム圏では、政府高官や上層階級はアメリカ寄りであっても、一般大衆レベルでは強い反米意識があるようです。しかし、だからといってアメリカをたたくだけでは、物事は解決しません。また、民族や経済格差に原因を帰するのも不十分であり、一種の逃げであろうと思います。
数年前、国際的なキリスト教の神学宣教ジャーナル2種について、1911年から2003年まで1ページずつ丹念にめくって記事や論文を調べたことがあります。目が蟹の横ばいのようになって非常に疲れましたけれど、大変よい勉強になりました。イスラーム圏のムスリムユダヤ人に対して、キリスト教宣教師が何をしてきたのかという変遷が、徐々に理解できるようになったからです。概論のような講義を聴けば受け身の理解ですが、骨董品のような埃だらけのジャーナルを書庫から出していただいて、手を真っ黒にしながら調べていく作業は、時間がかかりますが結構楽しいものです。
その経験から言えば、ムスリム地域は、基本的に当時からあまり変化していないようです。キリスト教宣教師達が、学校や病院を建て、苦労して聖書翻訳を試みても、現在に至るまで、ムスリムキリスト教への改宗は御法度です。当時、ムスリム地域でのキリスト教伝道はほとんど実りがなく、危険でもあるからという理由で、相当な決意と力量のある宣教師しか試みようとしませんでした。それでも、試みたことによって、改宗者の有無以上に、反省と共にさまざまな知見と経験の蓄積が生まれ、現在へと至っているわけです。
昔の宣教師達は、まじめに考えました。ムスリムの福利厚生を物質面だけで援助するのは、本当の解決にはならない。心と魂の変革が必要である。それには是非とも、個人レベルでキリストを受け入れなければならない。憎しみと報復、キリスト教への誤解を抱いたままで、ムスリムが真に向上することはあり得ない、と。
今、パキスタンの事件報道を見て、さまざまな感慨を覚えます。パキスタンの専門ではないので何とも言えませんが、いにしえには、優れた仏像や仏教遺跡の出土した地域です。インドとの分離独立の際、「清浄な国」を志向して立国したはずです。何でこんな風になってしまったのだろう、と思わざるを得ません。
そういえば、去年の国際聖書フォーラムでは、パキスタン聖書協会の総主事が来日されていました。ロビンソン博士に、食い入るように質問を繰り返していた姿が思い出されます。