ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

住めば都(2)

今暮らしている町には、住み始めて二十年と半年以上になる(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20070902)。
日々の暮らしでは、買い物や駅等、案外に行く場所が決まってしまっていて、町全体を知っているわけではない。
町が紹介した史跡探索コースには、健康ウォークも兼ねて四通りほどあるが、なかなか行く時間がなかった。というよりも、パソコンで情報を得る生活に馴染んでしまうと、それだけで一日のかなりの時間が費やされてしまうのだ。
昨年の冬には、町のプログラムで、説明を受けながら西国街道を歩くものがあり、葉書で申し込んで楽しみにしていたが、結局、前日に風邪を引いて欠席となってしまった。
二十年以上前には、例えばコンピュータの図書館検索も「十五分間で三冊まで」といった調子で、すぐに時間切れになってしまったので、バスと電車と地下鉄で京都や大阪の府立図書館まで直接出掛けた方が早かった。しかし今や、アマゾンで検索が簡単になり、海外の英書も安価に手早く送られてくるようになった。
また、講演会等も、以前は大学で開かれるものの方が上等な気がしていたが、今では、テーマによっては、町の催し物の方が余程充実したものが増えている(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20080419)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20100214)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20161121)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20171027)。
そんなこんなで、まだ余震も不安だったが(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20180619)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20180620)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20180621)、真夏になる前に、自転車で一つのコースを試してみた。結局、地図を見て、写真を撮りながらだったので、ほんのご近所だったのに、悠々一時間四十五分もかけて一周することになった。
今日の発見としては、浄土宗系のお寺が日本家屋そのもののように見えたこと、梵鐘を持つ大徳寺系の小さな禅寺を見つけたことと、八幡と名のつく小さな神社が案外に古びて清掃が行き届いていなかったことである。
また、二十年前にお茶を習いに通っていた先生のお宅近辺が(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20141123)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20141124)、新たに増えた住宅や遠方の高層マンションの景観のためか、道路が狭くなり、小学校も小さくなったように感じた。
あの頃は本当に怖いもの知らずで、お電話で道をうかがった後は、自転車で直接出掛けて行った。迷うことなく、それで辿り着けたことも、今から考えると不思議である。お稽古の度に、利休百首を一首ずつ暗記して先生の前で唱えてからお点前を始めていたのだが、暗記が間に合わないと、紙切れに書いた歌を自転車のハンドルを持つ手に挟み、漕ぎながら覚えて行った。(それで何とかなっていたのも、今思えば不思議である。)
ちょうど田植えが終わったばかりの田園風景は、相変わらず懐かしく美しかったが、恐らく、今後はどんどん狭くなっていくのであろう。
史跡については、ここ十数年ほど、町が意識的に石標を立てて目印をつけているのでわかりやすいが、なぜもっと早くから訪れなかったのだろう、と我ながら不思議である。
二条天皇等にお仕えした十二世紀の女流歌人の碑が、高速道路の脇下にあった。ずっと名だけは知っていたのに、碑まで辿り着けたのは今日が初めてである。十七世紀半ばに高槻城主が建立したそうだが、場所を変えて今でも小規模ながら残っているのを目の前にすると、まるで時空を隔てて意識を共にするような感覚である。
「昭和六十年当時の碑はこうでした」という明るい日差しの下にある写真も説明札にあった。(それって、ついこの間のことじゃないの!)と思いつつも、それから三十四年以上経って、平成が一年もしないうちに終わろうとしているのだった。
結構、文学的にも歴史的にも重要な史跡があちこちに散在しているのが、我が町なのである。但し、私の実感としては、その意味づけや意義が、二十年前と今とでは、町全体の雰囲気として異なってきたように感じる。つまり、「町内にある豊かな史跡をもっと大切にしましょう」という呼び掛けが、最近では意識されてきたということである。
居住当初は、正直なところ、どこか仮住まい意識だった。(いつまでもここに住むのではない)(もっと都会に住む方が便利だろう)と思っていたが、主人の健康問題や私自身のものぐさもあり、日本経済の低迷その他の理由から、結果的にはこの町で良かったと思う。
役所の用事等でも、買い物ついでに数分で済ませられたし、図書館も便利になり、生活費が月に数万円ほどは節約できた。二十年も経てば、まとまった貯金になる。水も空気も質が良く、静かな環境なので、予想以上に本が読め、聴くクラシック音楽の幅も広がり、実に健康的な暮らしであった。
三十代の頃は、隣町の駅までスーツケースを引っ張って平気で歩いていた。バスにも乗らずに、阪急の駅まで歩くのは普通だった。今ではJRの新駅ができて、便利なことこの上ない。最初は、景観が崩れる云々で反対意見もあったようだが、できてしまうと誰も文句は言わなくなる。
大手企業の研究所や広大なグラウンドがあちこちにあったが、研究所が移転されたり、グラウンドには高層マンションが建設中だったりして、風景は徐々に変わりつつある。
人口が減少すると予測されているのに、マンションだけはどんどん建つというのは、どのような計算に拠るのだろうか。
町の北側に住んでいるが、今日探索して史跡の写真を撮ったのは、西南の方角だった。暑くなる前に、今度は南東方面の神社や寺社を訪問してみたい。
2018年6月25日付追記:
上記の女流歌人について、帰宅後に調べた事柄から追記を。

・『平家物語』『源平盛衰記』『千載和歌集』『新古今和歌集』等にも登場する。
・女房として、二条天皇(第78代)や高倉天皇(第80代)にもお仕えした。
・秘め事の懺悔会で、後白河院(第77代)と一夜の関係を持っていたことを告白。
後鳥羽院(第82代)の落胤である男児を産んだが、その子は後堀河院(第86代)より領地を賜り、星野氏の始祖となったという伝承が筑後に残っている。
藤原俊成藤原定家西行と交流があった。
鴨長明が、華やかで人を驚かせる女流歌人の一人として名を挙げている。切り返しの上手な返歌の詠み手だったようである。
・町内に残っている複数の古い小字から、この辺りには当時、貴族の別荘があったらしい。
・今回訪問した町内の地域に、晩年、天台宗系の寺庵である真如院を建てて住んだが、約265年後の応仁の乱で廃絶となった。
(終)

小柄な女性だったようだが、なかなか情熱的かつ知的で魅力的な歌人だったのだろう。