ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

エリートとは何か

潮木守一『世界の大学危機ー新しい大学像を求めて』中公新書1764(2004年)より(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20161227)。

・いつの時代のいかなる社会もまた、エリートに対しては、それを尊敬、賞賛する感情と、それを批判し、その価値を貶めようとする力学が働く。(p.138)


・このように、人々がエリートに対して抱く感情は、多くの場合、両面性がある。一方ではエリートを尊敬・賞賛し、それに憧れ、誇りを抱くが、その反面では、エリートの失敗を期待し、その権威の失墜を心ひそかに願う。民主主義社会において、エリートと大衆との間にはつねに緊張があり、そのことがエリートの選抜・養成制度をめぐる議論に投影される。(p.140)


・先述したように、もともとエリートに対する社会一般の反応は、つねに両面性を持っている。ある時にはエリートを賛美し、それを賞賛し、その能力に依存しようとする。しかし別の時、別の場面になると、エリートの特権性を否定し、その権威を傷つけ、その能力を貶めようとする。(p.228)

(抜粋終)

潮木先生は母校の教授でいらしたが、勿論、授業などは受けたことはない。また、ずっと前に所属していた教育関係の学会で、ご講演だったかご発表だったか、お話を伺ったことがある。

・もともと大学とは、少数精鋭を対象とするエリート養成の場であった。ところが、過去五〇年間、大学には門戸開放と大衆への普及拡大という新たな役割が課せられた。(p.鄱)


・もともと大学とは落ち着いた、こぢんまりしたところであった。少なくとも、何万人という規模の人間が、一か所に集まるようなところではなかった。そこには人と人との接触があり、アイディアの交流があり、知的刺激があった。(p.鄴)

(抜粋終)

つまり、父方母方両方の大叔父達は、エリートだったということだ(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20091218)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120120)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20161208)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20161219)。特に父方の大叔父の場合は、そうだったと言える(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20080422)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20091228)。
私の実家の勉強部屋には、額縁に入れた大叔父の書「積善」が掛かっていたが(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20091223)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20151112)、いつでも力不足を痛感し、本当に申し訳ない気持ちがしたものだ。
今でも、その気持ちは消えない。
エリートって、本当は何なのだろうか?