碩学のことばから (2)
古い本を読む時、(こんなことをやっていないで、もっと緊急の問題に関わる方が得策ではないか。ここに書いてある知識や情報は古くなっているのだし)という些かの心配がよぎることもありますが、やはり、私にとっては必要な経験です。書かれている内容が、現在に照らし合わせて、どこまで妥当なのかを確かめられますし、含まれているエピソードが新規事項であれば、なおさら楽しめます。また、学生時代には、どれほどがんばってもわからなかったことでも、だんだん読める範囲が増えてくるのは、この自分でも多少は進歩したのかなあ、などと単純にうれしくなってきます。そして、当時の知識人がどのようなことを考えていらしたのかを知ること、これは何よりも大事な作業だと思っています。
それでは、昨日の続きをここでまた。
『三谷隆正全集 第五巻 信仰と生活・書簡・英文・年譜』岩波書店(1966年)
・人の完全な精神的独立、又個人の不断の自己練磨といふものは活版術の発明並にそれによつて一般化せられた読書に基くものであつて、これは古代中世の文化にはなかつたものである。プロテスタントの力と自覚とはこれに負ふ所が多いのである。若し活版術の発明がなかつたら十六世紀の宗教改革はあり得なかったであらう。さうして原始基督教といふものは恐らく徐々に忘れ去られてしまつたであらう。(中略)その第一は沢山、さうして規則的に読む事、第二は良い本は残らず読む、其の代り悪い本や無用な本は一切読まないと云ふ事。それから第三は良い本を正しく読んで自分のものにするといふ事。これが読書法の根本原則であります。(中略)第一は規則的に読むといふ事、つまり毎日毎日例外なしに一定の時に三十分でもいゝから工面し得る限りの時間必ず読書するといふ事である。さうしてさういふ習慣を早くつけるといふ事、この習慣を二十年続けるならばその人はその二十年後にその国の学識ある人の中に数へられる事間違ひなしであります。(「ヒルティの読書論」『聖書講義』昭和十六年一-三月号)pp.16-17
・殊にかういふより深い哲学的宗教的な事柄に於ては、じつくり時を与へて考へるといふ事が必要であつて、四六時中引切無しに読んでばかりゐるのは宜しくない。さうしないと、我々の精神的成長といふものが惰弱な、第三者に依存したものとなつてしまふ。(「ヒルティの読書論」『聖書講義』昭和十六年一-三月号)pp.18-19
・さういふ種類の読書といふものは専ら借りた本を読む人の間に見出される現象だと思ふ。さういふ人は自分では相当物を学び識つて居るつもりであらうけれども、然し実際は何をも識らない。従つて何事に対しても独自な見識といふものを持つてゐない。(中略)若し自身の思考の成長がないなら、それは聖書にいはゆる磽地に落ちた種子と同様無益な読書である。(「ヒルティの読書論」『聖書講義』昭和十六年一-三月号)p.20
・人生とその祝福との為に大切なものは知識ではなくて実行である。(中略)唯書物に関しては良い書物とは通例少し後になつてから認められるに至るもので、その代り長続きがする。(中略)恐らく非常にいゝ本でありながら遂に認められるに至らなかつたといふ本は無いといふ事が歴史的に証明出来ると思ふ。(「ヒルティの読書論」『聖書講義』昭和十六年一-三月号)pp.24-25
・だが疑ひもなく、何時如何なる人々にとつても良い、然り最善の書と言はるべきものが一つある。それは聖書であります。(中略)聖書が凡ての書物の中で実は一番読んで面白い書物であるといふ事を知つてゐる人は割合に少い。又聖書は何時、幾度読んでも決して倦きない書物で、その点では恐らく唯一の書物でありませう。(中略)自分で自発的に読むといふ事が大切です。(「ヒルティの読書論」『聖書講義』昭和十六年一-三月号)p.26
・聖書といふものをもつと一般人に読み親しませるといふ事が、将来の教養といふ事についての真剣な問題であると私は思ひます。(中略)然し読書には限界がある事、読書の目的は読む事それ自体ではなくして、真理を追究し、捉へ得ただけの真理を生活の中に活かして行へといふ事にある事を常に記憶する必要がある。(「ヒルティの読書論」『聖書講義』昭和十六年一-三月号)p.28-30
大事なことは実践、ですね。そして、読んだ後で自分の頭でじっくりと考えること。これが案外に難しいです、わかっているつもりでも。我が身を振り返れば、方向性としてはそれほど間違ってはいなかったのだけれども、実践が著しく不足していた、ということに尽きます。