ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

とりとめもなく (その2)

昨日は、神戸市立博物館で開催中の大英博物館古代ギリシャ展」へ。風雨の中で客足が少ないのかと思いきや、大勢の人々で賑わっていました。
友の会のおかげで割引がきくのと、「ワーク・ライフ・バランス」とまではいかないものの、週末は、家族で過ごす時間を極力、大切にしたいと願ってのもの。そして、放っておけば、ただでさえ狭くなりがちな視野に、少しでも世間の風を与えて刺激としたい、という気持ちから。
約1時間10分ほど、見て回りました。展示そのものは、おもしろかったけれども、疲れました。また、大富豪の池長家のパネルもあり、(なるほど、カトリック教会のあの話は、ここから来たものなんだ)と納得。だからこそ、時間を見つけて外に出なければならない、ということです。
それにしても、神戸で昼食を、と思っても、探し方が悪かったのか、どこもあまりパッとせず。今でも、阪神淡路大震災の影響がどこかで残っているのでしょうか。ようやく入ったお店では、私にしては珍しく、出されたものを用心のために残した、というほど。どうしてこんな風になってしまったのか、不思議なぐらい。
ところで、昨日が日曜日だというので、ふと考えてしまったのですが、先々週、S夫人からうかがったには、「今の日本のキリスト教人口は、0.08%だ」との由。一桁少ないのではないか、と聞き返したのですが、「いえ、0.08%。しかも、教会が啀み合っているでしょう?」と。どのような根拠でおっしゃったのかはわかりませんが、それを聞いて感じたのは二点。一つは、(可視化できるのは、その数値だとしても、潜在的には、もっといるのでは?)ということ。二つ目は、折に触れて、私がこのブログで断片的に書き綴ってきた内容は、決して個人の身勝手な嘆きでもなさそうだ、とも。つまり、私の言葉で言い換えれば「その中で争っている」という点....。
「1988年8月7日 名古屋・丸善」で購入の記が入っている、岩波文庫の『眠られぬ夜のために』(第一部・第二部)。マレーシアで働いていた頃も、毎日の日課として、繰り返し読んでいました(参照:2010年2月9日・2月11日付「ユーリの部屋」)。
若い頃に、よき思想と出会って、人生の指針とすることが大切だとは、よく言われます。その「よき思想」を見抜く目は、自分で持っていなければなりません。その意味で、(最近は寝かせてあるものの)カール・ヒルティを読み続けてよかったと思いながら、彼の思想実践の妥当性を、この頃、ある出来事をきっかけとして、再度、確認しているところです。
これは、私自身の好み、ないしは単なる理想に過ぎませんが、静かで落ち着いているシンプルな集いの中において、力が与えられて、外に出て働くというもの。必ずしも、そこでは人数は問われず、むしろ、質こそが重要。しかも、透明で開かれてはいても、「隠れたところ」という側面も備えられていること。もっとも、物理的に集うという意味ではなく、離れていても可能ではありますが、人間は弱いから、できれば目に見える面も必要か、と。
その場合、原則に忠実たれ、ということ。時代が変わったから変えるという安易さではなく、変えてもよい部分を含めて、決して変えてはならない原則を守り続けること。そこがしっかりしていれば、ある程度、柔軟で多様な対応もできるはず。その逆は不可能。
その意味で、近いのではないかと思われるのが無教会。内部にいるある友人から「もっとひどい」「老人会のようで戦々恐々としている」と聞いたことがありますが、少なくとも、一人一人が自覚的に聖書を学び、研究しつつも、生計の糧としては、一般社会で高度な専門職として、それぞれに活躍されているという点で、私が見上げつつ尊敬し、少しでも見習いたく思っているところです。
これまで、このブログでも時々、無記名でご登場いただいた数名の方達は、無教会に連なる敬愛する友人。あの伸びやかな知性と巧まざるユーモア、そして、親身になっての具体的な助言、および精神面での援助(貴重なご蔵書をたくさんお譲りいただきました!または、ドイツ語と日本語の信仰ジャーナルを12年分、継続してお送りくださいました!)は、各分野で知る人ぞ知る方達からのもの、とはいえ、一見、表立って華やかに名を馳せようとされてのことではありません。そこの順序を逆にしてはならないのであって、原則を守れば祝福が伴う、と考えたいのです。
今の私の生活は、主婦として家事をしながら、毎日、音楽(といってもクラシックばかり)を聴き、本を読んで、自分のテーマの勉強というのかデータ落としの作業をして、必要な書き物をして、たまに研究発表をして、という地味で単調なもの。一人でやっていることであっても、決して孤独だとか孤立しているとは思っていないのは、有形無形の絆のようなものを実感しているから。その絆の根本は、どこから来るのか。そこで共有感覚が持てないならば、やはり、何かが混乱しているか逸脱しているのでしょう。
とりとめもなく綴った最後に、今日の一言。
2011年5月22日付ツィッターhttp://twitter.com/#!/itunalily65)にも記したハイエク。これ、なかなかいいと、興味深く読んでいます。専門外のこともあって難しくてわからない箇所も多いけれど、全体として、非常に共感できるんです。新自由主義との絡みで、否定的にハイエクを紹介されていた方がありましたが、多分、忙し過ぎてきちんと読んでいなかったのでは?
そして、社会主義という‘誤った’思想が、知識人を名乗る人々の間で一部蔓延したために、世の中に混乱と破壊が生じたのではないか、という点にも同感。実験国家の崩壊後も、どうもゴタゴタがおさまっていない状態。そればかりか、私達の上の世代がまだ現役として根張っていると、なかなか頭がつかえて難しい、という迷惑さ。
先のヒルティも、「随所で社会主義の悪口をいっている」と訳者の草間平作氏から指摘されています(岩波文庫幸福論 第一部』(1935/1961/1998年 第81刷 p.292)。「社会主義は労働者階級の『しっと』に根ざし、『憎しみ』をあおる、と彼は非難する。しかし、この事情は今日すでに大きく変化していることはいうまでもない。(中略)われわれは、この点におけるヒルティの時代的な狭さを超えて読まねばならないと思う。」(ibid.)
この評が書かれたのが、昭和36年のこと。でも、ハイエクの上記著書は「刊行直後から、多くの分野の研究者によって注目されてきたが、本書の対する評価は近年ますます高まっている。」と、古賀勝次郎氏(p.235)。邦訳は2009年1月25日初版。ということは、やはりヒルティの指摘の妥当性が証明されたという意味でもあります。