翻訳と古典音楽で豊かな時を
今年は、今後の道筋を整理していくためにも、年齢的な区切りとして、学会などの会合は極力控え、片付け物(物質的+精神面)をしていくつもりだった。
そこで、9月9日から10日にかけての学会は、先約があったこともあり、欠席通知を出した。
8月上旬に、別の学会を経由して届いたメーリングリストで日本通訳翻訳学会のお知らせがあり、会員ではないが、出席を申し込んでおいた。
会合には三十数名ほどが集まっていたが、初めての顔ぶればかりで、いかにも「語学で食べてい(き)ます、キリッ」という雰囲気の若い女性(院生?)や、白髪頭も含めて大学で教えている方々だった。
最初のご講演は、「1920年代ドイツの翻訳論」と題して、ゲーテ、シュライアーマハー(シュライエルマッハー)、フンボルト、ベンヤミン、ヘルダーリン、ローゼンツヴァイク、ブロッホ、フィヒテなどの翻訳論に関する箇所の訳文を提示され、要点を挙げて説明を受けるものだった。ベンヤミンやヘルダーリンは初めてだったが、特にゲーテやフンボルトなどは、ドイツ語やドイツ文学の翻訳を読むことや言語学の本に夢中だった学生時代を思い出して懐かしかったし、長い間離れていたのに何とか話についていけたのが、我ながら嬉しかった。やはり、周囲の無理解からくる変な発言に惑わされず、自分が勉強したいものや興味があるものは、時間に余裕のある若い時代に、多少、背伸びをしてでも学んでおく経験は、決して無意味ではないと改めて思った。
また、次のご講演は北代美和子先生で、翻訳家としてフランス語、イタリア語、英語から多数の作品を出版されてきた方。ラフな服装で、気取りのない団塊の世代風のように見えたのだが、話の内容は、川端康成の『雪国』を例に取ったサイデンスデッカーの英訳の問題点などで、具体例を拝聴していると、これまた、(私の学生時代にはこういう話を普通に見聞するのが大学だった…)と懐かしい気がするものだった。
つまるところ、2003年からの大学改革によって、横には分野が広がったが、基本的な知識や学力素養のようなもの、幅のある教養のようなものが欠けているかのような「専門○○研究もどき」やオタク趣味が高じたような研究者が一時期目立ったように感じていたのだったが、久しぶりに古巣に戻ったような通じる話が多くて安心した、ということである。
とはいえ、お二人とも「秀才が進学する」(とご自分でおっしゃっていた)上智大学のご出身で、外国語に卓越した学生と先生が集まっていらっしゃることもあり、長らくご自宅で翻訳の研究会を継続されてきたとのこと。最近では、インターネットの影響でよろず即席即興のスピードが求められるが、言葉の文化を移植する知的活動には、やはり長い時間と地道な努力を要するものだと痛感した次第である。
二十代の頃、大学院では言語文化専攻だったこともあり、相当の言語学や翻訳関連の本を読んではノートを作っていたが、その頃には全く想像だにしていなかったご依頼によって(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120330)、中東イスラームと米国の外交政策をテーマとするパイプス訳文を2012年3月下旬から現在まで継続してきた経験が下敷きとなって(http://ja.danielpipes.org/art/year/all)、今回の初めての通訳翻訳学会へのプレカン出席へとつながった(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20130715)。上記の各種のドイツ翻訳議論の特徴が浮き彫りになったし、北代先生の器用なラテン系諸語の複数翻訳の実態も、スクリーンで提示されることによって、何だか自分のもたもたしたパイプス訳文作業にもいささかの安心感が生まれた。ちらしの裏に5分あれば翻訳の下書きを作る方もいるらしい。北代先生の場合は、手書きで横のもの(欧文)を縦(和文)に原稿用紙に書くのが一校で、次にそれをワードに入力していき、手書きで朱を入れて、推敲に推敲、校正に校正を重ねて、三校までいくようだ。
ちなみに、私の場合は、最初からパイプス原文をワードに転写して、行揃えと画像圧縮などの作業を加える。いつも繰り返しているように、原文は数分で読めるが(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/201204)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140305)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/201403)、訳すとなると完成まで数日がかりだ。コラムの場合は定期的にメールでご依頼があって、まずは英文を縮小で印刷し、ハイパーリンクを全部調べて鉛筆の手書きでアドレスを記入していく。映像がある時は、勿論、見る。こうすれば、大凡の内容をつかみ、パイプス先生の思考作業の跡を追うことができる。(一見、単純そうに書いているが、実は相当な時間をかけていることがわかる。あの重苦しい複雑かつ単調なテーマを数十年も書き続けてきたなんて、メンタルな粘り強さは並大抵ではない。)これが第一日目の作業。
二日目に、英文を日本文に直しながら、訳した箇所の英語を消去していくが、大凡できたところで、そのまま一旦寝かせる。このようにして、三日目ぐらいに下訳が完成するが、言うまでもなく、言葉のみならず、内容が重い上に、中東絡みだと知らない事柄が必ず含まれているため、小さなコクヨのメモノートに逐一調べ事を書き込んでいく作業も含まれる。調べていくだけで時間が経ってしまうこともしばしばだ。
そうして出来上がった下訳を再度寝かせて、裏紙に印字をして、手書きで修正を入れていく。そして印刷。再度ペンで修正を入れる。三度ほど印刷を繰り返すと、ようやく送信可能なものができあがる。この繰り返しを、ここ四年半、一人で続けてきた。
それだけではおもしろくないので、ブログにメール交流の一端をご紹介し、ご本人やお父様やお仲間学者や活動家の著作も読んでは、理解を少しずつ深めていく作業も同時並行して行なってきた。
翻訳理論としては、文芸ではないので訳しやすいとは言えるのかもしれないが、やはり論文を訳すのは、プロの翻訳家よりは、内容に馴染みや理解のある研究者がする方がふさわしいのではないだろうかと思う。私にとって訳していて最も勉強になるのが、パイプス先生の昔の長文の論文。これは、骨格がしっかりしているし、イスラームについて刺激もある反面、共感する面も多いので、日本語になっていなければ読まないかもしれない人々に向けて、ご奉仕感覚で作業してきた。難しいのがコラムとブログで、これは文体も少しくだけていることがあり、他の人の引用文も混じっているし、訳している途中で追加分や変更箇所が増えたりもするので、なかなか厄介だ。
休憩時間に、(せっかくのチャンスだから)と蛮勇を奮い起こして、北代先生に近づいて質問をしてみた。
「翻訳理論は別として、苦労して訳す以上は、少しでも広く読まれてほしいと願うものですが、先生はどんな工夫をされていますか?」それに対しては、「楽しければいい。訳者が楽しむ!」と元気の良いご回答。自分の楽しみで訳している事例もある、とのことだったが、「訳者が意義を感じて楽しいと思っても、読者がそう思っていなければ、広まらないのですが」と重ねてお尋ねしたところ、「売れるかどうかは別。アマチュアとプロの違い。演奏家が楽しく曲を演奏している例を出したけれど、それと同じ」とのこと。また、「サイデンステッカーが日本占領者/支配者の米国人としての視点から川端の作品を訳した」というご指摘については、「それは今の時代の我々だから、そういう解釈が生まれるのであって、本当に占領者としての意識が当時のサイデンステッカーにあったかどうかは、調べてみなければ言えないのでは?」と追求してみたところ、講演中の調子とはがらっと異なり、あっさりと「そうかもしれませんね」と同意された。
最後に、「先生はイタリア語も訳されているからお聞きしますけど、オリアナ・ファラチって(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20130122)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20130208)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20130308)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20130319)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20130331)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20130403)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140220)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140220)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140509)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20160406)、どうして昔は訳されていたのに、晩年の作品は日本語になっていないんでしょう?」と質問してみたら、「あ、あれはねぇ。需要がないから」と、これまたあっさり。
そうでしょうか?私は、オリアナさんが「オリアナのイタリア風英語を笑わないでね」と卑下しつつ、息つく間もなく書き綴った慟哭のような調子は理解できたし、彼女の痛烈な問題意識は伝わってきたと思っている。つまり、日本語に訳さないのは、興味関心のある人なら自分でオリアナ英語で読んでしまうからではないか、と。
実は、北代先生と同じことをパイプス先生も私にメールでおっしゃったが(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20130208)、イスラームについては、どの立場からであれ、誰にとっても語ることが難しい時代だ、ということで落ち着きそうだ。
ちなみに、オリアナ・ファラチに言及されたパイプス拙訳は、こちらをどうぞ(http://ja.danielpipes.org/article/11975)(http://ja.danielpipes.org/article/12018)(http://ja.danielpipes.org/blog/12574)(http://ja.danielpipes.org/article/12581)(http://ja.danielpipes.org/article/12761)(http://ja.danielpipes.org/article/16779)(http://ja.danielpipes.org/article/16783)(http://ja.danielpipes.org/article/16956)。
三人目のご講演者は、聖書解釈も踏まえた翻訳技法について伺ったが、先約のために途中で失礼することになった。
その先約とは、半年ほど前に、主人が自発的に私の分だけ予約していたチケット。フェスティバル・ホールでストラディヴァリウス奏者が一堂に会する演奏会。こういう演奏会があることは何年も前から知っていたが、ストラディヴァリウスのヴァイオリンによる演奏は、これまで個別に何度も聴いてきたので、特に是非ともいうわけでもなかった。
実は、主人はすっかり忘れていて、数日前に、何と冒頭の「学会に行って来ればいいのに」と、不可能なダブルブッキングを提案したのだが、これが私のご機嫌を損ねた。学会の通知の数ヶ月も前に演奏会に行くよう予定を組ませておいて、実際には演奏会の当日に学会に行けなどとは…。私は「その演奏会に行きたい、チケットが欲しい」などと、一言もねだっていなかったのに。
結果的には、行ってよかったと思える充実した演奏会だった。
前回書いたような、「ののちゃん」が描かれた場違いな袋はなくなり(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20160624)、他のホールと同様の無地の半透明袋にパンフレットなどを入れて手渡されたのがよかった。また、少なくとも一階席は満席で、非常に盛況だった。
私の席は一階席の最後列の真ん中辺りだったが、何と右側から続いている椅子の並びが私を最後に止まっている場所だった。つまり、私の左側からは椅子がなかったのだった。これは助かる。演奏者は遠くに見えるだけだったが、音はよく響いていたし、久しぶりに江口玲さん(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20070728)や諏訪内晶子さん(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120422)に舞台でお目に掛かることができて、これまた懐かしかった。
アンコールはなく、CD販売もなかったが、二十分の休憩時間があっという間だったほど、充実したパンフレットと曲目だった。どれも素晴らしく、特に最終曲のメンデルスゾーンは、プログラムに華を添える力演だった。
プログラム曲目
テレマン「4つのヴァイオリンのための協奏曲 ト長調 TWV40:201」
ポッパー「3つのチェロとピアノのためのレクイエム 作品66」
ドヴォルザーク「2つのヴァイオリンとヴィオラのための三重奏曲『テルツェット』ハ長調 作品74」ショスタコーヴィチ「2つのヴァイオリンとピアノのための5つの小品」
ピアソラ(森孝之編)「6つのヴァイオリンとピアノのためのリベルタンゴ」
ヘンデル「2つのヴァイオリンとピアノのためのソナタ ト短調 作品2-6 HWV391」
ベートーヴェン「弦楽四重奏曲 第13番 変ロ長調 作品130より『カヴァティーナ』」
メンデルスゾーン「弦楽八重奏曲 変ホ長調 作品20」
こういう演奏会に一度でも足を運ぶと、耳が肥えてしまうのか、ますます好き嫌いがはっきりしてくるのは、良いことなのだろう。
予定が立て込んでいると、疲れも出るし、落ち着いて充分に出来事を消化できないので好きではないが、演奏会も研究会合も、振り返れば一期一会。出かけるとなると、気分的にはさまざまな感情が交錯するのだが、終わってみれば、何もしなかった半日よりは、とにかく出かけて新たなものに触れる経験を継続して積み重ねていくことで、人生が彩られ、自分なりに深まっていくのだろう。
帰宅してから、北代先生がお話の例証として挙げられた、川端の『雪国』の「指」を「手」とサイデンステッカーが訳した箇所については、実はインターネットでどなたかが詳しく書かれていることを知った(http://lib21.blog96.fc2.com/blog-entry-389.html)(http://home.att.ne.jp/yellow/townsman/SnowCountry_1.htm)。しかし、それを指摘するならば、英語では‘finger’と‘hand’が、それぞれの文脈でどのような意味合いやニュアンスを持つのかもネイティブに尋ねたり、英語文学を調べたりしなければ、「アメリカのピューリタン文化への遠慮があって、恥ずかしくて訳せなかった」という発展にはならないのではないか。この辺りは、既に研究論文がありそうな気がする。
実は川端については、「驢馬に乗る妻」という短編を学部生の時にレポート作成したことがあるので、その時の分析を思い出しているのである。評価はAだったが、もっと追求すればよかったのに、と我ながら今更のように思うところである。孤児として育った川端の一種屈折した女性への感情という路線で、作品に現れる色や形容詞を分析して表にしてまとめたのだった。
ついでながら、インターネットでは、『雪国』の出だしがどうして名文なのかという、人を食ったようなくだらない質問を出しているコーナーがあるようだが、これは読書力の低下を示すものである。努めて紙の本を読まなければならないのは、出版に至るまでの多くの人々のエネルギーや努力やコストなどを含めて、さまざまな想像力や感性の成長とも関わるからである。ひいては、それが国力にもつながる。
演奏会にせよ、これほど多くの人々をホールに引き寄せるだけの名器の伝統と選抜された演奏家の技能と作曲家の曲の素晴らしさなど、さまざまな要因が重なって成り立つものである。演奏家が演奏しなければ伝わらない曲もある。が、演奏を受け留めるだけの度量と能力と感性が鑑賞する側になければ、日本では西洋古典音楽など広まらないだろう。つまり、異なる文化が出遭うことで少なくとも一方に新たなものが流れ込み、豊かさをはぐくむのだ。
同様に、訳さなければ伝わらないで終わってしまう外国の思想や情報などもある。
例えば、常々思うこととして、パイプス先生からのご依頼だから、(自分の勉強にもなるし)と引き込まれるように没頭してきた訳文作業だったが、(原文で読んでいる人も多いだろうに、なぜ私が訳さなければならないのだろう)と。だが、日本の中東学者が歪曲して批判的にパイプス先生をあちこちで書いてきた経緯があるので(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140629)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20160708)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20160716)、やはり、訳さなければわからなかったこと、広がらなかった知識や経験も多いことを踏まえ、私のしている作業は無意味ではないのかもしれない、と思い直した次第である。