ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

世論の是正に向けて

http://blog.livedoor.jp/abu_mustafa/archives/5079877.html


abu_mustafa
2016年07月25日



・私のような民間人のブログの表記方法にまで、ケチをつけるというのはかなり異常です。
・PDKIの日本語はさておいて、兵士は「民兵ではなく、ペッシュメルガとしてもらいたい」とは何たるいい方ですか!!
要するに各国の正規軍や警察軍ではなく、民間人が指揮する軍事組織を民兵と称するのは、世界的な呼称のやり方です。
・第3者の人間が、民兵民兵と書いて、どこが悪くて、「表記してもらいたい」などと注文を付けられるのでしょうか?どうも不思議です。

(部分抜粋引用終)
abu_mustafa氏こと野口雅昭先生の過去引用リストは、こちらを(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/archive?word=abu_mustafa)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/archive?word=%CC%EE%B8%FD%B2%ED%BE%BC)。

http://www.kase-hideaki.co.jp/magbbs/magbbs.cgi


「沖縄米軍報道に違和感 ヘイト・ジャーナリズムへの懸念」
2016年7月26日


・たしかに、痛ましい事件だった。しかし、私はマスコミが勢揃いして、あれほどまで賑々しく報道する必要が、いったいあるのだろうかと思う。
沖縄県警の統計によれば、人口当りの殺傷罪、盗みなど刑事犯が占める比率は、沖縄県民が0.24%であるのに対して、沖縄県に駐留するアメリカ軍人、軍属は、その約5分の1の0.05%でしかない。
・いったい、本土で500人か、600人でも集まって、同じように痛ましい殺人事件を糾弾する集会が、1回でも開かれたものだろうか。テレビ朝日のレポーターがマイクを握って、「深い怒りに包まれていた」とか、「国民の怒りは限度をこえた」と、叫んだことがあるものだろうか。
・だが、沖縄で起った事件を取り上げて、連日、大きく報道するのは、常軌を逸しているとしかいえない。これは、ヘイトスピーチ――あるいは、ヘイト・ジャーナリズムに当たるものだ。
・日本においてアメリカ兵に対する人種差別が酷いと訴えられたら、「もう日本を守るのは、やめよう」という世論が、醸成されかねない

(部分抜粋引用終)
加瀬英明氏のウェブ引用リストは、こちらを(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/archive?word=.kase-hideaki)。加瀬英明氏の著作を巡る過去ブログは、こちらを(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/archive?word=%B2%C3%C0%A5%B1%D1%CC%C0)。

http://blogs.yahoo.co.jp/bonbori098/33949097.html


「多くの日本人が怒り、涙を流した、蘘國神社常陸丸殉難記念碑」を忘れないでほしい・・・」
2016年1月9日


蘘國神社の正面に第一鳥居という大鳥居を過ぎて、すぐ右手の奥の方に、あまり見向きもされない「碑」。
明治28年当時、造船技術が未熟だった日本では1600トンの船舶しか造れませんでした。
日本郵船がヨーロッパ航路のために6000トンの船舶をイギリスに6隻注文しようとした時、そのうち1隻を三菱の長崎造船所が受注
三菱は莫大な投資と優秀な技術者を採用して船を造りはじめると、イギリスが嫉妬するほどの輸送船が出来上がりました。これが「常陸丸」。
明治37年6月15日、「常陸丸」は陸軍将兵1055名、馬320頭と武器弾薬を積んで広島県宇品から朝鮮と満州に輸送するために「佐渡丸」とともに出航。
ウラジオストック艦隊の司令長官・スクルイドルフは「玄海灘で日本の輸送船を撃破して日本の輸送を止める」と指示を出し、ロシアの装甲巡洋艦3隻が日本海を南下。
・この海域は対馬を基地にした上村彦之丞中将を司令官とした第二艦隊が警備。哨戒任務の巡洋艦対馬が濃霧の中を南下してくるウラジオストック艦隊を発見。
・するとすぐに無線で第二艦隊に知らせ、第二艦隊は輸送船の航行を停止するよう打電。
・当時は軍艦以外で無線を持つ船は少なく、「常陸丸」は無線を傍受することは出来ずにそのまま航行。
玄界灘沖で「常陸丸」はロシア艦隊3隻に捕捉され、猛烈な集中砲撃。
・「常陸丸」の甲板は修羅場となり、やがて日本人の屍で埋めつくされ、血の海そのもの。
・もはや最後と悟った指揮官の須知中佐は軍旗を焼きその場で自決大隊長山縣少佐以下は万歳三唱して自刃して後に続き、乗組員もそのまま海底に沈んでしまいました。
・当時、多くの沈んだ船の中でも最大の被害を出したのがこの「常陸丸」。
明治37年10月30日、「常陸丸」の殉難者墓碑を軍人会館(九段会館)の敷地内につくり、近衛隊の英霊635柱の遺骨、遺髪、遺品、写真などを納め、神式および佛式で盛大な慰霊祭が執り行われました。
大東亜戦争後、GHQの命令でこの「常陸丸の碑」が廃棄
・地下鉄10号線(都営新宿線)工事の時に、地中から無残にも3つに切断されたこの「常陸丸の碑」が発見され、昭和40年に「常陸丸の碑」を復興して、蘘國神社に「常陸丸殉難記念碑」が建てられた
・毎年6月15日には靖国神社でこの碑の前で慰霊祭。

(部分抜粋引用終)