ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

井の中の蛙

アゴラ(http://agora-web.jp/archives/2020103.html


「私は日本人だ。撃たないで」はなぜ無意味なのか
2016年07月04日
池田 信夫


・孫崎氏のような「日本人は平和主義だから安全だ」という類の神話は、日本の左翼に広く行き渡っている。去年の人質事件のときも”I am not ABE”というプラカードを掲げれば殺されない、と主張した元官僚がいた。
・こうした人々の脳内では、憲法第9条が念仏のようなありがたいものになっているのだろう。
・これはイスラムだけの問題ではない。孫崎氏は「東アジア共同体」なる幻想を抱いているが、最近、中国の戦闘機の領空侵犯が急に増えた。これも日本が有事にどう対応するかをみているのだろう。
・それに対して「日本には憲法第9条がある。撃たないで」といっても、何の意味もない。無防備でいると、ますます彼らは領空深く入ってくる。世界の人々が互いに理解することはきわめて困難だ。それを理解することが、日本人が身を守る第一歩である。

(部分抜粋引用終)
武装もさることながら、知的備えも...少しのことにも、先達はあらまほしき事なり(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20100309)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20110302)。
そこで、野口雅昭先生(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20160708)に再びご登場を。

http://blog.livedoor.jp/abu_mustafa/archives/5073892.html#comments


abu_mustafa
2016年07月11日


・実はイラン革命やイラ・イラ戦争の時代に、外務省で邦人保護を担当していました。


・こういう場合には米国は勿論、アフリカなら仏やベルギー、その他の国でも自国民を多数抱えるところでは、自国の軍用機(別に戦争をするためではなく、民間人引き上げのための輸送機)を派遣することは常識で、イライラ戦争の際などには、確かニュージーランドでさえ(と言っては申し訳ないが)、必要に備えて、自国機をドバイだったかに待機させていました。


・ところがイラン革命、イライラ戦争が起き、外国人の中でも最も多数の自国民を抱える国の一つである日本は「自衛隊海外派遣反対」ということで、自衛隊機の派遣は固く禁じられていました


・そういう場合に、日本としてできることは、日本航空機のチャーター便の派遣(当時は全日空は海外便はほとんど認められていなかった)か、米国等の友好国のお情けにおすがりするしかないという状況でした。


・幸い私が、担当者の時には、そういう状況のために日本人だけ取り残されたということもなく(そういう危機の時には、お互いに外国居留民は助け合うもので、米国のみならず、仏も、更に南米ではアルゼンチン等も快く日本人を引き受けてくれました)、何とか切り抜けたものですが、時には日本は自国機を派遣しないのだから、そういう相互支援の外国人をまず乗せて、席が余ったら喜んでお乗せしましょうと言われたこともありました(冷たいように聞こえるかもしれないが、全ての国が自国民の救出で必死になっているときには当然自国民優先となる)


・そういう時に、何度何故わが国だけが自衛隊機が行ってくれないか、と愚痴をこぼすことも一方ならずありました(もちろん日本の重大な政治問題ですから、外務省の1課長ごときが発言すべき問題ではなく、友人と酒を飲んではぼやいていた程度の話ですが・・・)。


・本日のニュースを聞いて、日本もようやく変わったのだな、とつくづく思った次第ですが、もちろんそのような感慨とは別に、一日も早く状況が正常化し、自衛隊機も途中でUターンして、必要がなかったということになるのが最善であることは言うまでもありません。


・確か今月の安保理議長国は日本で、日本の国連大使が議長として、声明の取りまとめをしたはずです。


・どうやら今般の参議院選挙の焦点は、マスコミや野党勢力は、憲法改正是非だとして戦ったということですが、邦人保護のための輸送機の派遣でさえ、自衛隊の海外派遣だからまかりならぬ、という時代もあったのですね・・・・個人的には、このような自衛隊の活動は、憲法9条とは何ら関係ないものと思っていました


国家として自国民を守る最低限の手段を有することは、ある意味当然のことでしょう。

(部分抜粋引用終)
そうなんですが、研究会や学会では、「国家は暴力装置である」などと、妙齢のかわいらしい女性が発表していたのだった。マルクス主義などとは縁がないと思い込んでいた私は、だからこそ余計に長い間混乱していたのだ。遅きに失したが、今となっては宜なるかな

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abu_mustafa
2016年07月12日


・最大の争点である第9条に関しては、これまでの長い歴史を通じて、現憲法下でも、独立国家としておおむね機能し得るような法的体制が整備されてきたように思います。


自衛隊を今頃違憲と考えるのはごく少数派だし、自衛権は当然あることに異論はないし、、国連PKOへの参加も実現し、、おまけに武器使用の基準も国連の基準並みに改善されたとともいます。個人の正当防衛としての武器使用などというアホな考えはもうないと思います。


・昨年だったかの安保法制で、集団的自衛権の行使もできることになり(ちなみに国連憲章では個別的自衛権集団的自衛権も特に区別せず、国家固有の権利としている)、ここまで来れば、独立国家日本としてどうしても必要に迫られての軍事力行使は、殆どができることになったのではないでしょうか?


国連憲章下では自衛権の行使以外に、安保理の決議に基づく強制措置(要するに軍事力行使)というのもありますが、国連憲章の予定した強制措置は朝鮮戦争以外発動されたことはなく、日本としてそこまでやる覚悟は当面必要ないでしょう。


・日本は既に必要な時に必要な軍事力の行使ができる体制になっており、今更憲法を変えなくとも、実態的には大きな不都合はないのではないでしょうか?国論を2分するような憲法改正を論じるより、議論すべきはもっと具体的な戦略問題とかそちらの方ではないのではないでしょうか?

(部分抜粋引用終)
この辺り、湾岸戦争の頃の日本の対応を巡る記述を、他の本でも少し読んだ記憶がある。旧社会党土井たか子氏の応対が世界的に顰蹙を買っていたことも....(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140929)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20160210)。でも、同志社関係者からは、その釈明を聞いたことがない。さすがは同志社、といったところ....。

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abu_mustafa
2016年07月12日


・まずは発議の要件を国会議員の3分の2から半数にするように改正すべきとのご意見に完全に賛成です。


・議員の3分の1さえとれば、憲法改正は阻止できるというのは、如何に何でも国民軽視だと思っています。社民党が今回議席を1も取れなかったのは、その意味で、彼らの歴史的役割が終わったことを意味していると思います。


・但し、9条の改正となると、矢張りこれまでの「平和教育の」の影響が大きいのか、平和と言うだけで条件反射的になるのかは別にして、最近は非常に現実的になってきている、、大学生等の若い世代でも、まだまだ拒否反応があるみたいです。


・当初から無理することなく、現実を積み重ねていく方が、良いというのは個人的考えです。


・何しろ、記事でも書いた通り、私がまだ課長であった頃(というのはそんなに歴史的な時代ではない)には、日本人保護のための自衛隊輸送機の派遣も、自衛隊の海外派兵だという、痴呆的な議論が日本の主流であったものです。


自民党の偉い人も「アリの一穴」とかいう議論をして、どんなことでも自衛隊を正当化するようなことをすると、日本は軍国主義化するなどという、小児病的なことを言って、それが結構受けていましたね


・矢張り日本は随分変わったと思います。随分まともな国になったのですよ

(部分抜粋引用終)

http://blog.livedoor.jp/abu_mustafa/archives/5073892.html#comments



abu_mustafa
2016年07月13日



・「私は日本人」という時代は終わった、とはどういう意味ですか?もし、日本人だから安全だった時代、という意味であれば、多分そんな時代はなかったのだろうと思います


・勿論米国人やイスラエル人(というかユダヤ人)のように、、特に目の敵として狙われたことはなかったかと思いますが、日本人だから特別に殺さずにおいてやろう、などと言うことがどこかでありましたっけ


・個人的に、日本に友好感情を抱く人は、世界中に居ると思いますが、過激派の連中が日本人だからと言って特別扱いをすることはなかったと思います


・外国人が大勢人質になり、その中で特に日本人だけが、日本人だという理由で助けてもらった、などという事件があったという記憶はありません

(部分抜粋引用終)
「トルコが親日的」という話も、似たような幻想だったと....過去ブログをどうぞ(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20130911)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20160123)。
要するに、「井の中の蛙、大海を知らず」の思い上がりということなのだろう。自戒の念として、記す。

https://www.facebook.com/ikuko.tsunashima


大変申し訳ないけれども、池内先生に少し異議ないしは補足あり。バングラデッシュはそうかもしれないですが、マレーシアにはジャパン・クラブがあり、1990年代前半には、確かに私達も、時々、割高な和食を食べてくつろいでいました。(私の定番は、鯖焼き定食!)現地エリートのクラブもマレーシアにありました。欧米諸国のクラブもありました。但し、私の世代では、現地と分離した海外居住のあり方を批判する論調が、大学から出ていました。現地化が一つの特権のように考えていた人もいました。

Satoshi Ikeuchi
12 hrs
NewsPicks

ここ重要。かつて植民地主義進出を幅広くやっていた英・仏や、アメリカ人はクラブを持っているので、公共の場で集まらなくていい。そのためテロの対象になりにくい。
 なお、現地のエリートも、将校とか弁護士などでクラブを作っていることが多い。それらも部外者以外は入れないので安全。中に入ると荷物をぽんっと置きっ放しにしていても大丈夫、という外とは全く違う世界がある。

(転載終)
「現地化が一つの特権」の意味は、いかに自分達が地元に受け入れられ、溶け込めているかという尺度で、己の寛容度と異文化適応能力の高さを誇っていた、ということ。今ならば、インターネットもあり、格安航空券もあり、現地の生活水準も格段に上がり、現地との交流も生活も随分と楽になったようだが、当時は、ワープロがせいぜいの時代だったことを想起。
結局のところ、文化相対主義多文化主義などを標榜している大学とメディアが、問題の発祥地。アメリカの保守派の運動も同じことを言っているのだが、アメリカが日本に影響を及ぼしているというよりは、日本の左派がアメリカのリベラル派の影響を受けて、そのまま模倣して取り込んだせいでもある。
2016年7月15日追記:

(https://www.facebook.com/satoshi.ikeuchi?fref=nf&pnref=story)


【これまでダッカに住む日本人は、現地の人々と仲良くしていれば、壁に囲まれた施設を作って自国の文化に閉じこもる必要性はないと考えていたのか、日本クラブをつくろうという話は出なかった。
 バングラデシュイスラム教マジョリティの国であり、飲酒ができない。加えて、インド食文化圏に位置するため、三食カレーを手で食べる。ずっと彼らの文化に合わせて生活をしていては、どうしても息が詰まることがある。仕事で成果を出すためにも、箸と茶碗で飯を食い、酒を飲み、友人と話をする場が必要だ。
 バングラデシュで働く日本人のために、「安全に息抜きができる場所」が必要な時代がやってきたのだ。】


↑現地の日本人としてこのような結論を出すのは非常によく分かる。


「日本人はクラブを作っていない」ことは多くの国で事実と思いますが、「だから現地に溶け込んでいた」かというと、そういう人が各国に10人とかはいるでしょうが、大多数は日本人だけと、ごくごく限られた現地の人と一緒にいます。欧米諸国の旧植民地宗主国帝国主義国は、クラブを維持し、そこに招く現地エリートとのネットワークを持っています。それがいいか悪いかというと、悪いと見る人もいるのは当然です。ただ、クラブを持っていないから日本人が現地に溶け込んでいる、というのは、ごく少数の例外を除いて、勘違いです。クラブを作っていないけど溶け込んでいない、のが大部分です。いいか悪いかではなく、まず事実認識が必要です。


ちなみに私自身は現地で日本人社会とは一切交わらないし、日本人研究者が集まるところにも行きません(日本人がいないところに長く住んでいたら、近くに日本大使館が移転してきてしまって困ったことがある)。それは研究のためにはその方がいいからです駐在員などに同じことをしろとは言えません。駐在員などももっと現地の、様々な階層と交わればいいのだが、と思いますが、できない、時間がない、する素地がないことも痛感しています。この条件下では、私的に極めて狭い空間で逼塞するよりは、より開かれた(ただし外の世界とは一定の境界線を設けた)クラブ的なものを作って、「公」的な場を作るのは一つの案です。実際にはクラブを作ることでこれまでよりも行動範囲を広げるのです。それぐらい、海外での日本人の行動範囲は狭いのです。欧米のクラブ制度は、外部に対して閉鎖的ではあるものの、同国人の間の公的空間を作り、そこに外部の人を選んで入れることで現地の公的空間との橋渡しをする機能があります。もちろん、その選び方が恣意的だ、傲慢だという批判はあるでしょう。

(部分転載終)