ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

停滞する日本を直視する

昨日は、四度目の出席となる母校の関西支部同窓会へ(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20130519)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140518)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20150517)。場所は同じく堂島の中央電気倶楽部。
ノーベル物理学賞を2014年に受賞された天野浩先生から、テキパキと明るい調子の「世界を照らすLED」と題するご講演を伺った。今回も中高年が中心だったが、小学生から中学生も含めて参加者の層が広がり、女性参加も例年より多かった。名簿によれば210名以上の参加で、会場には活気があり、楽しい時間を過ごせた。
6名のノーベル賞受賞者を出した大学とのことで、自由闊達で独創的な研究環境だと注目はされているのだが、それはあくまでも理系分野のこと。私が学生だった頃は、卒業生には大学図書館を使わせてもらえないという前近代性だった上、世界各国からの留学生には媚びるものの、国民である日本人学生には、どうかと思われるような対応があったことは、今でも記憶に新しい。
また、ご講演はバランスが取れていてよかったのだが、やはり「停滞する日本」をグラフ化されると、自分のこれまでの紆余曲折のささやかな歩みが思い出され、それだけに疲労感もぐっと大きい。
科学技術関係の研究予算としては、中国が断トツに伸びており、続いてぐっと下がって韓国、そしてさらに下がって米国、そのどん底に日本と続く。論文シェアについても、米国がトップを維持してはいるものの、年々低下しており、中国が急速に上回っていることは、予想通り。日本も一時期山を描いていたのに、徐々に下がって、当然のことながら、中国に抜かれている。但し、韓国はずっと日本以下で低迷しており、その点では、日本側が何かと韓国の悪口を言うことは控えた方が賢明だとも痛感させられた。つまり、相手にしている場合ではない、ということである。
GDPの停滞については、「生活が先か、研究投資が先か」という問いが立てられ、日本の場合、1990年から95年までの期間に伸びた時期があり、それ以降は停滞している、とのことであった。これは、私自身を振り返っても共感するところで、だからこそ「失われた二十年」(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20160310)と合致すると言える。
また、一般企業でも大変な状況が続いており、日本人の労働生産性は、一人当たりG7の中で最低である。それに、先導者が不足しており、博士号取得者も最低で増加していない。日本の超高齢化は世界一で、その人口動態の歪さがグラフで示された。
大学からのメッセージとしては、社会人の再活性化のため、修士号や博士号に再チャレンジしてほしい、との提案であった。また、「偏執狂かつ苦労を知らない学生達」という指摘もあった。
先生ご自身の研究生活を振り返られると、1980年代初期には、一億円かかるところを300万円しか研究室予算が下りず、装置をつくるところから始めたという。「高価な装置だと萎縮するが、自分でつくった実験装置だったのがよかった」との由。また、学生も教員も関係なく「全員素人」だったので、同じ立場で自由に議論が可能になり、その点では若い人の方が有利だった。それに、結果に対する責任感が持てる、とも。
研究成果について、アメリカの一流の雑誌に論文を書いても殆ど見向きもされなかった時期があったが、目利き人材の登場により道が開けたとのことで、そこから産学官連携の重要性を訴えられた。
実験では水素爆発の失敗もあり、幸いなことに人身事故には至らなかったとの由。その後は、学生に任せることにしたとの笑い話も。また、私立大学で講師をされていた時には、実験だけに没頭できた助手とは異なり、週に10コマの講義担当が義務とされ、体力勝負だったという。
日本の大学の問題点としては、「多様性のなさ」「女子研究者の少なさ」「オックスブリッジのような大学では30%から40%が海外留学生なのに比して、日本では5%のみ」と指摘され、国内ビジネスでは日本人は優秀で真面目だが、グローバル基準では評価が難しいとのこと。
質疑応答も活発で、計8名の質問者の中、女子中学生からの挙手も2名あったが、いずれも前後の挨拶がしっかりしており、質問内容も簡潔かつ的確で、その点はとても頼もしかった。
ご回答全体から印象的だった要点をまとめると、(1)成功か失敗かは即座にはわからない上、「実験が楽しくて仕方がない」「苦労した意識がない」ことから、続けるモチベーションとしては「成功イメージ+楽しむこと」が鍵(2)自分のやっていることの意義をかみしめて進めることが重要(3)教科書に書いてあることは当然勉強するのだが、書いてないことを勉強するのが研究者(4)異分野の人が集まると楽しいし、刺激がある(5)自分は中学の頃まで勉強が大嫌いだったが、大学に入って面白くなり、とことんやった、ということのようである。

私の感想を述べるならば、大学問題に関する指摘内容は以前と殆ど変わっていないが、「なぜそうなのか」という追求がないことが惜しまれる。また、ここ二十年間停滞している日本において、人もお金もないない尽くしの現状下で、「海外の大学がこうだから、日本も」「グローバルに対応を」と後追いして模倣するあり方が、果たして適切なのかどうかの検討がないことが、とても残念である。
後追いする段階で、既に独創性など吹き飛んでいるからだ。
第一、1990年代前半のマレーシア滞在でつくづく思い知らされたが、オックスフィードやケンブリッジで海外学生の割合が多いのは、反植民地主義イデオロギーはどことやら、厳然たる旧宗主国との結びつきであるコモンウェルスがあるからだ。そもそも、敗戦国の日本が旧日本領の子孫と大学レベルで同じ絆を保てるはずがない。また、言葉の壁もある。
従って、まずは日本国内の充実に力を注ぐべきであって、優れていれば自然と人が海外から集まってくるという流れの方が望ましい。私の要望としては、文化の相違から忠誠心が曖昧で、技術や情報が流れていく結果となる外国人留学生を税金で無闇に増やすよりも、むしろ卒業生こそもっと大切にして、社会人や一線を退いた中高年者の再教育の場を充実していただきたい。また、理系と文系の相違ではあるだろうが、多様性を重視するには基本知識の共有が先決で、やたら滅多と新奇性を狙うのは、かえって混乱の元ではないかと思われる。
中国の伸びは予想された通りで、既に98年頃、極めて戦略的な政策に基づいた、北京など大都市でのエリート校の選抜教育の実態を見聞していた。つまり、そのように厳しく鍛え上げられた中国の若者が、今では指導的な立場に立っているという結果なのだ。かたや当時の日本では、「あるがままの自分でいい」「もっと労働時間を減らして家庭での自由な時間を」「競争はいけない」「みんな仲良く」などとメディアで頻繁に喧伝されていた。そちらの方が楽なので、当然のことながら真に受けて流れていった層があっただろう。それが、現在の見るも無惨な開きとなっていると思われる。中国の批判をしている場合ではないのだ。
会場では楽しかったが、そんなこんなを考えていたら、どっと疲れた。今後の日本は、一体どうなってしまうのだろうか。

http://www.seisaku-center.net/node/926


「戦後保守」は終わらせるべきだ
投稿者:operatorC
投稿日時:2015/12/09


・率直にいって未だにこのような寝ぼけたことをいっているがゆえに、この「戦後保守」なるものは力を失っているのだ、といいたくなった。
今日の世界の安保環境の「根本変容」が全く見えていないのではないか。例えば、最近の中国の傍若無人大国主義的行動だ。
・問題はそれが国際的に通用する力をもち得るのか、ということだ。安保法制に対しては中韓を除くほぼ全てのアジア諸国、そして欧米諸国が歓迎した。この事実をどう考えるのか。
・先日のフランスのテロ事件である。幸いなことに、日本はこれまでかかる問題とは一定の距離を保った形でやってこれた。しかし、今後は残念ながら、その可能性は減っていこう。来年の伊勢志摩サミット、五年後のオリンピック等々、日本の対イスラム姿勢の如何にかかわらず、日本が否応なくその標的とされてしまうといったケース、可能性はもはや否定できなくなっているからだ。
・大統領は国際社会の意思結集を求め、改憲をいい、テロ粉砕を宣言している。にもかかわらず、当方では相も変わらず「戦争体験」だの「国家権力の抑制的な行使」という話なのだ。安倍政権がおかしいのではなく、「戦後保守」がむしろ現実離れし始めているという話だ。こんな「戦後保守」は、むしろ即刻終わらせるべきだ。


日本政策研究センター代表 伊藤哲夫)〈『明日への選択平成27年12月号〉

(部分抜粋引用終)

http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51976720.html


2016年05月08日
「純粋人間」がクーデターを起こす


・問題はこんな精神的幼児が東大法学部で憲法学を教えていることだ。一つの原因は文系学部(特に法学部)がガラパゴス化して国際競争がないことだが、もう一つはこういう妙に「純粋」な学生しか大学に残らないことだ
・経済学でも、東大のマル経は宇野経済学だったので、少しでも宇野派と違うマルクス解釈を書くと大学院で落とされた佐伯啓思氏や間宮陽介氏や野口旭氏は、先生の学説を丸写ししてマル経の大学院に行き、途中で「近経」に転向した裏口入学だ。京大では、民青の幹部は論文を1本も書かなくても助教授になれた。今の法学部は、当時のマル経に近い状況だろう。
・日本人はこういう忠誠心のために自分を犠牲にする純粋人間を好むので、彼らが世の中を変えることがたまに起る。それが尊王攘夷青年将校で、日本で本当のクーデター(非合法的な政権奪取)が起ったのは、明治維新五・一五事件二・二六事件だけだった

(部分抜粋引用終)
昨日は、過去ブログ(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20160411)に記した本を持参し、今朝までに読了した。
アルゼンチンのメソディスト神学者ホセ・ミゲス・ボニーノ(1924−2012)による「解放の神学」を理論面から考察した内容で、クリスチャンはマルキストであり得ないとしつつも、両者は手を携えて「解放」のために戦略的同盟として共働するよう勧めている。1974年と古い本だが、何と、登場する人名やイデオロギー観点については、今も北米の保守派論壇で反例として取り上げられる話と重複することに気づいた。もし学生時代に読解文として示されていたら、何が何だかわからなかっただろうが、今ならば、この潮流もその結末も充分理解できる。また、そんなことに取り組んだからこそ、南米は今も混沌としたままであり、著者がエキュメニカル運動で関与した世界教会協議会(WCC)が、その後ますます左傾化していったことも納得がいった(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20100811)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20130105)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20150402)。ちなみに、著者は1975年から83年までWCC議長であったという。
ヴァチカンにとって「解放の神学」は危険思想であり、自由主義陣営の盟主を自認していたアメリカ合衆国でも警戒されていたという。特に、レーガン政権ではCIAが排撃していたようだ。
そのような検討もなしに、あたかも正規のキリスト教の当然の流れであるかのように、関西の某神学部では紹介されていた(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20110114)。私が疑問を抱いたのも、5年経った今となっては宜なるかな、である。
日本側としては、このような思想潮流の発信者ではあり得ない。むしろ、海外から学ぶ対象は、好んで心酔するためにあるのではなく、自らを守るための予防線なのだ。知っておく必要はあるが、巻き込まれてはならない。それが私の立脚点である。