ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

チャンドラ・ムザファー博士

1月15日の夕方5時から、マレーシアのチャンドラ・ムザファー博士の講演会があると、その三日前にメーリングリストで連絡があり、出掛けてみた。
チャンドラ・ムザファー博士と言えば、1990年4月からの国際交流基金派遣による3年間のマラヤ大学赴任プラスその後のリサーチ滞在1年の計4年間のマレーシア暮らしの中で、英語新聞や雑誌『月刊アリラン』などに投書、論考文、インタビューが頻繁に掲載されていたのを見ており、当時からお名前は充分承知していた。
また、結婚後の数年間、年に一度はマレーシアへ単身で調査に行っていたが、クアラルンプールの国立図書館で1970年代から1980年代のマイクロフィルム新聞を調べていた時、1987年10月27日のOperasi Lalangで拘留された106人の社会活動家の一人だったとも知った。
それに、特にムスリム・クリスチャン関係の対話において、穏健派のムスリム知識人の論者として、マレーシアのカトリック冊子で馴染みがあった。マレー人よりも、遥かに明快な言論活動を展開するマレーシア人ムスリムだと感じたので、カトリック大司教館近くのカトリック・センターで知り合ったマラヤリ系の男性研究員に尋ねてみると、「あの人はヒンドゥ教徒の家に生まれたインド系だけど、マレー人女性と結婚してイスラーム改宗したんだよ」と教えてくれた。ケダ州出身ということもあり、道理で、インドの血を引くマハティール氏に風貌がどこか似ているのだとも思った。
マレーシアのローカル新聞や雑誌上の論考文やインタビュー以外は読んだことがないが、以下の文献などは、彼の基本的な思考を辿るに必須であろうかと思われる。

“Universalism of Islam” (1979)
“Islamic resurgence in Malaysia” (1987)
“Human Rights and the New World Order” (1993)
Alternative Politics for Asia: A Buddhist-Muslim Dialogue” (1999)

ここで、過去の英語ブログに引用したチャンドラ・ムザファー博士の発言や論考を以下に列挙する。

http://d.hatena.ne.jp/itunalily2/archive?word=%22Chandra+Muzaffar%22


• 2012-07-11 “Allah” issue still continues (http://d.hatena.ne.jp/itunalily2/20120711
• 2012-06-27 Hadith book by Kassim Ahmad (http://d.hatena.ne.jp/itunalily2/20120627
• 2012-03-08 Israel issue in Malaysia (http://d.hatena.ne.jp/itunalily2/20120308
• 2011-12-05 Hudud fear for non-Muslims (http://d.hatena.ne.jp/itunalily2/20111205
• 2011-12-04 Hudud affects on non-Muslims (http://d.hatena.ne.jp/itunalily2/20111204
• 2011-08-24 Muslim-Christian issue (http://d.hatena.ne.jp/itunalily2/20110824
• 2010-11-17 Chandra Muzaffar’s answers (http://d.hatena.ne.jp/itunalily2/20101117
• 2010-10-17 Is ‘Malaysianness’ a dream? (http://d.hatena.ne.jp/itunalily2/20101017
• 2010-06-08 Clash of mufti (http://d.hatena.ne.jp/itunalily2/20100608
• 2010-04-14 Interfaith dialogues ? (2) (http://d.hatena.ne.jp/itunalily2/20100414
2010-02-20 Chandra Muzaffar’s view (http://d.hatena.ne.jp/itunalily2/20100220
• 2009-11-14 This is Malaysia!(http://d.hatena.ne.jp/itunalily2/20091114
• 2009-10-22 Dr. Chandra Muzaffar(http://d.hatena.ne.jp/itunalily2/20091022
• 2009-06-16 M’sian apostate issue in the past (http://d.hatena.ne.jp/itunalily2/20090616
• 2008-03-27 Justice and equality in M’sia(http://d.hatena.ne.jp/itunalily2/20080327

日本語ブログでは、2008年4月14日に言及がある(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20080414)。
この一覧表を見ると、何だか自分のささやかな人生に大きな比重を占めることになってしまったマレーシアという国の堂々巡りの様態が浮かび上がってきて、悲喜こもごもといった感がある。
最新のブログには、チャンドラ・ムザファー博士が1977年に創刊した『月刊アリラン』誌の25周年記念に際しての文章を掲載した(http://d.hatena.ne.jp/itunalily2/20160116)。この雑誌は、1990年代前半に「マレーシアでは、まだ読める方の読み物」だと、海外青年協力隊で現地の人と結婚した滞マ経験の長い日本人女性から聞いたことがある。当時のこととて、インターネットもなく、ワープロが先端だった時代。他に確認のしようもなく、そんなものかと思って、英語の勉強も兼ねて、興味のあるページだけを時々眺めていた。
そもそも、私は自分で選んでマレーシアに派遣されたのではない。政治的にも経済的にも、日馬関係が最も良好でピークだった時、しかも日本のバブル崩壊直前だったので、「実にいい時期にマレーシアにいましたね」と、ご年配の教授がおっしゃったほどである。
研究目的ではなく、日本語教育以外はいわば素人としてマレーシアに突然放り込まれたわけであるが、今振り返ると、「これからはアジアの時代」「戦後補償の意味も込めたマレーシア交流」「文化相対主義」「東南アジアがおもしろい」などの喧伝によって、ひたすら真面目に理解に努めようと膨大な時間を費やしたことを思う。もしも、マルクス主義に端を発した社会主義思想や穏健を装った文化的イスラーム主義やムスリム改革派運動の原理そのものや世界観を最初から知っていたならば、これほどまでの時間の無駄をしなくてもよかったはずなのだ。
マレーシアはアジアの一国かつ資源国なので、その意味では政治経済中心の日本の外交政策は妥当だったと思うが、現地事情を英米並みに詳しく調べていたかどうかについては、一部の研究者を除き、疑問の余地がある。
さすがに今では、一般世間もインターネット情報などを経由して徐々に気づき始めている上、もっと要領よく人生設計を立てる人達ならば、初めから回避したであろう行路ではある。ただ、大学やメディアの権力は一つの潮流を作るものであり、私の世代は、素直で勉強好きであればあるほど、疑問を抱きつつも、この隘路に陥ってしまう傾向があると思う。
この点でも、つくづく私は、中東イスラーム学者のダニエル・パイプス先生と知り合いになれて(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120114)、ぎりぎりのところで本当に助けられたと思うのだ。彼にとっても、アメリカが活力に満ちてピークだった1985年当時の日本滞在の思い出(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120505)があるため、私との小さな交流を喜びとしているらしい。
…ということを再確認させられたチャンドラ・ムザファー博士の一時間半の講演会だった。

会場は、同志社大学の志高館で、私にとっては初めての場所だった。グローバル学科と一神教学際研究センターの共催とのことだったが、広い教室にたった8名ほどしか集まっておらず、最終的には15名ほどの出席者だったろうか。その昔、私が教えていたクラスにいたようなスカーフ姿の女性も混じっていたし、ムスリムの留学生らしき男性も含まれていた。それにしても、マレーシア・プログラムがあったはずの約10年前のことを思えば、何とも閑散とし、寂しい限りであった。
私の知る限り、少なくとも1990年代までは、シンガポールとマレーシアで論客として著名な方だったことは事実であり、いくら1947年生まれで70歳近い年齢とはいえ、イスタンブールジャカルタでのテロ発生直後とはいえ、あまりにも主催者の集客力不足が伺えた。車椅子で不自由な中、わざわざ来日してくださったことを思えば、なおさらである。
今回は通訳なし。5年前にチャンドラ・ムザファー博士と出会ったという美人の先生が、英語のみで大丈夫かどうか確認されたが、私は昔から、外国から講師を招くこの種の会合には、理解しようとする以上、参加者の日頃の努力と備えが重要だという知見から、時間が半分に減ってしまう逐語通訳あるいは二重に音声が聞こえて煩雑になる同時通訳は不要だという考えだったので、問題はなし。むしろ、充分にお話が聞けてよかった。

題目は『地域およびグローバルな政治文脈におけるテロリズム』(Terrorism in the context of regional and global politics)で、私にとっては聞き飽きた「無辜の文民への攻撃としてのテロリズム」「抑圧の問題」「イスラエルゴラン高原と水問題」「イスラム国はイスラームからの逸脱である」という、ムスリム知識人や西洋のイスラーム護教家や左派によくある論調だった。
おもしろいことに、「メディアで語られないより大きな文脈」と称して、ムスリムの世界観に基づく昨今の世界情勢が解説されたのだが、この「メディアでは語られない」という表現は、アメリカ保守派のイスラーム解説者にも頻出する主張である。つまり、両者は対立しているようでありながら、お互いに合わせ鏡のような競合関係にあるとも言える。
例えば、「テロの背後にはアメリカ合衆国の役割がある」「英米はテロを非難し、テロを支援する偽善がある」と言われた。これも既に陳腐な左派やムスリムの言論路線で、特に2003年のイラク戦争前後には、頻繁に日本でも語られていたものだった。
当時は、キリスト教を主体としてきた大学の神学部において、地域研究の枠を超えて、日本人ムスリム教員を大胆にも招いてイスラームに直接焦点を当てる学問的手法が世間一般にとっては斬新だったこともあり(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20141010)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20141011)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20141012)、研究費も潤沢で、世界の著名な学究人や講演者を招いて頻繁に研究会を催し、華々しい広告が新聞紙上に度々掲載されていたものだった。もちろん、ほぼ毎度、大勢の人々が講演会などに集まっていた。

そして、なんとこの私も、「貴重な経験と研究テーマ」を持っているということで呼ばれて、同志社大学と関わりを持たせていただいたのだった。あの頃は、父も元気で何か勘違いして喜んでくれたことを覚えているし、私も今より十歳以上若かったので、結婚で移住した関西の地で、数年後、思いがけず母校ではない大学でも活動できることが素直に嬉しかった。
ただ、始まってまもなく、ここは大変な場所だと気づいた。事務や図書室のスタッフの方々は皆、とても親切にしてくださったし、「学生達、喜んでますよ」と学部長兼センター長から言っていただけるほど、授業評価もまずまずよかった(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20090601)。だが、肝心の研究会となると、第一、話のスケールが大き過ぎ、方向性がよくわからなかった。研究者は集まって各自発言するものの、相互にしっかりと理解し合っているとも言えず、呼ばれているのに鼻を押さえて皮膚呼吸させられているような状態。それにも関わらず、次々と行事が展開され、(これでは長くは続けさせてもらえないだろう)と直感した。
反面、そうであるならば、身分証カードのある間に、極力、吸収できるものは吸収しようと決意し、週末の研究会や講演会には大抵出席し、他大学も含めて図書館で文献複写の収集に努め(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20101022)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20110301)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20110817)、知り合いを増やすべく、どこにでも果敢に出て行っては、あちらこちらで名刺を配っていた。
今でも、その時の我ながら涙ぐましい行動があってこそ、大学を止めて三ヶ月経ってから始めた本ブログの話題に困ることは全くない上、時差を伴うものの、おかげさまで研究者や大学関係者以外にも、私のテーマに興味を持ったり、言いたいことを理解してくださったりする支援者が増えた。だが、研究論文となれば充分な論証と理論構築が必要で、肌が合わないのに言葉の上だけ時流に乗って要領よく世渡りするやり方は、私には不適切だと思われた。それで、まずは心に溜まった澱のようなものを解放するためにも、ブログ書きを続けてきたという経緯がある。
それに、当時は家事が滞っていた。
今に比べれば、主人の病状はまだ非常に軽く、動きも自由だったが、精神的には将来を心配して焦り、重苦しかった。食料の買い物や洗濯物干しなどの家事を手伝うことが全く苦にならないという主人であっても、週末に研究会があるとなれば、せっかくの休日を家庭で過ごす時間が反故にされ、申し訳なかった。
それに、週一回の授業であっても、イスラーム改宗したばかりの黒スカーフ姿の日本人女子学生達には、非常に気を遣った。自分の理想とするイスラーム解説を私がしないと、授業中に叫んだり、不機嫌になったりしたのである(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20150320)。マレーシアでは、ムスリム人口が約6割、非ムスリム人口が4割近くだとされているので、政府主導のイスラーム化政策に反対する地元の声があるのは、自然かつ現実なのである。しかし、それを説明しようとすると、自分達の新しい信仰アイデンティティに傷がつけられると思ってなのか、あるいは、ジハードの一種としての抵抗なのか、怒り出す。あるいは、「イスラームがわかっていませんね」という逆行した態度だった。
そのようなこともあって、契約終了直後に初めてイスラエル旅行をし(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20070725)、中東の現実を見て視野が広がった時には、むしろほっとした。家にいて、好きなクラシック音楽を聴き、時には演奏会にも行き、納得のいくように充分に関係書籍を読み、資料を少しずつ整理し、インターネット情報で細部などを確認し、ブログに勉強ノートとして上澄みを綴って考えを積み上げ、記録にまとめていく毎日の方が、自分らしくいられると実感した。
...という長い経過を経ていたため、チャンドラ・ムザファー博士による40分ほどのお話の後、質疑応答になった際には、自信を持って最初に挙手し、起立して質問ができた。

「興味深いご講演をありがとうございます。


私は1990年代初頭に三年間、マハティール博士閣下のルック・イースト政策の下、マレーシアで働きました。その頃、『ニュー・ストレート・タイムズ』紙や『アリラン』誌や、その他のシンガポールの新聞雑誌でも、先生の多くのインタビューや論考文を読んできました。


お尋ねしたい三つの質問がございます。


1.ルック・イースト政策は、韓国や日本でイスラームを広めるもう一つの解釈だと思われますか? (Do you think that the Look East Policy is another version of spreading Islam in South Korea and Japan?)


2.マレーシアにおける現行のイスラーム化政策は成功していると同意されますか? (Do you agree that the current Islamization policy in Malaysia is successful?)


3.今のマレーシアで、サイード・クトゥブは流行していますか? (Is Sayyid Qutb popular in Malaysia now?)


以上でございます。」

チャンドラ・ムザファー博士の応答の要約は、以下の通り。
「どの問いも(答えるのに)時間がかかる」と前置きした上で、1については“Certainly no.”ときっぱり。

「東方政策は、マレーシア人が日本人から勤労倫理を学ぶプログラムで、マレーシアは、西洋ではなく日本から学び、マレーシア社会を転換する目的だったというのが、マハティールの見解である。」

耳にタコができるほど聞き、まさに二十代の私がそのプログラムに従事していたことを文字通りなぞるだけの回答だったので、私としては納得がいかず、重ねて「勤労倫理とは、イスラーム勤労倫理と日本の勤労倫理が重なっているのですか?それとも、分離しているのですか?日本はイスラームの勤労倫理に含まれるのですか?日本はイスラームと関連があるのですか?」と畳み掛けたが、何やらはぐらかされたような長々とした返答が続いた。
私が質問していた時、誰かが小さく笑っていたのが聞こえたが、私の意図は、公式のイスラーム宣教としてではない。マレーシアのマレー人学生が1980年代以降、これほど毎年、三桁の人数ずつ日本に留学して各地の大学で四年間(学力的に卒業水準を満たさなければ五年間(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20091027))、学んで過ごすとなれば、ハラール食品が流通し(←なぜか日本人の非ムスリムまで手伝っている)、モスクや祈祷室などお祈りの場所が増えることになり(←なぜか日本の某大学では、ムスリム用に礼拝前の足洗い場まで設置した)、スカーフやムスリム服姿の留学生が目立つようになり(←なぜか日本で、土着の非ムスリム日本人に「異なるものへの寛容」を要求してくる)、イスラームについて問われれば地元の日本人に説明するようになる(←なぜか答えは、最初から型通り決まりきっている)ので、結果的に、日本でイスラームを広めていることになるのではないか、というものだった。当然のことながら、それに直接触れるような回答ではなかったのは、予想通りでもあった。
2については、“Complex question.”と一言。

イスラーム化とは何か?」「6割がムスリムのマレーシアはスルタンの世界だが、公の施設や機構のことを指すのかどうか。価値はどうか。まだ時期尚早で、結論を下すには早い。肯定面と否定面があるが、前者に関しては、正直、高潔さというイスラーム的価値にムスリムがより気づくようになったことが挙げられる。公私の面では、汚職が40年、50年前と比べて大きくなった点など、否定的な側面がある。ヒジャーブは表面的なアプローチであり、個人の人格が基準となるべきだ。イスラームでは、心において控えめ(modesty)であることがベストである。イスラーム金融銀行で、利子を取らないリバーが重要だが、それはなぜか。誇張もあるが、これは我々の問題である。“イスラーム経済"“イスラーム的英語(Islamic English)"などは表面的であり、まだ深く浸透しているわけではない。また、ムスリムと非ムスリムが分離している点も、ネガティブな側面であろう。」

3については

「マレーシアでサイード・クトゥブに人気があったのは1970年代から1980年代にかけてであり、イスラーム復興との関連であった。アンワル・イブラヒムと関係がある。今はクトゥブにあまり人気がない。彼のアプローチに批判的である。」

これで10分ほどのやり取りであった。
最後のサイード・クトゥブに関しては、2012年12月半ばにクアラルンプールのツイン・タワーにある紀伊國屋に立ち寄ったところ(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20121225)、政治的イスラームに関する書籍がかなりたくさん並べられていたのを私は見た。兄の思想を著作で広めた弟のムハンマド・クトゥブが2014年に亡くなっていることから、チャンドラ・ムザファー博士の回答にどこまで信頼性があるかは、考察の余地があろう。かつては国民/人民正義党の副会長として、元副首相のアンワル・イブラヒム氏を擁護していた時期もあったが、昨今ではアンワル氏を批判さえしているチャンドラ・ムザファー博士なので、この辺りは、ムスリム世界特有の混沌とした曖昧模糊の状態なのであろう。

すっかりお歳を召されて、かつてのエネルギッシュで元気な姿はなかったが、最後にお礼を述べに講壇に近寄ると、「まだマレーシアと関わっているのか?」と静かに問われた。「そうですね、銀行口座があちらにありますので」とのみお返事を。私は用意していなかったが、名刺を所望すると一枚くださった。

帰宅後にインターネットの日本語検索でお名前を入力してみると、1990年前後から何度か来日されていたようだ。しかし招待側は、大学というよりは、反戦、平和、反差別、反抑圧、民主主義などの社会運動をしている市民セクターが中心のようで、アジア社会フォーラム、憲法第9条世界宗教者会議(YMCAアジア青少年センター、日本キリスト教協議会日本基督教団、パプテスト連盟)、反差別国際運動(IMADR)、アムネスティなど、旧社会党系や反差別団体やリベラル左派のキリスト教団体だとわかった。(蛇足だが、今回の出席者の中には、会合終了後、ムザファー博士に近づいて、創価学会に言及して挨拶していた人がいた。昔は天理教の布教地だったマレーシアが、今では創価学会の活動の場になっているらしいことを察知した。マレーシアで私が担当していたクラスでも、創価大学の短期交換留学制度で二人の成績優秀だったマレー人学生が日本にしばらく滞在したケースがあったので、それが今も継続されているのであろうか。)

この時、若気の至りでマレーシアに飛び込み、人より先に現地経験を経た利点はあれど、結局のところ、ビジネスを除く日本文脈で語られるマレーシアは、どうも私の肌に合わず、単純に知的好奇心でのみリサーチを延々と続けてきたことが明確になった。
これも、年齢のなせる業であろうか。
理系の主人は、所属する企業のグローバル展開から、自然にマレーシアを含めた世界各地の現地情報を得ており、私との結婚に際して、何ら懸念も心配もなかったと、今でも断言する。「マレーシアなら近いし、滞在費や航空運賃も高くないし、政治的にも安定した国だ。むしろ、女性は自分の研究テーマを持っているぐらいの方がいい。僕の所に来たら、思い切って勉強できるよ」とも、出会った当初から言っていて(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20091214)、そのまま約束を守ってくれたのだった(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20070930)。うんざりして何度も止めたくなった私を、「せっかく、ここまで続けてきたのに」と励まし、後押ししてくれたのは主人だった(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20091030)。
病気のために自分の人生目標を中途で断念せざるを得なくなった無念もあってのことだろうが、本当に、今後は研究を是非ともまとめ上げていかなければ、主人に申し訳ないと痛感する(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20100331)。
そのように、長い時の経過を回顧させられた、チャンドラ・ムザファー博士による小さな講演会の夕べだった。