久しぶりにエレーヌ・グリモー
昨晩は、久しぶりに大阪のザ・シンフォニー・ホールでエレーヌ・グリモーのピアノ・リサイタルを堪能した。
関西には、びわ湖ホール、京都コンサート・ホール、兵庫県立芸術文化センター、いずみホール、ザ・シンフォニー・ホール、フェスティバル・ホール、そして、今はなきイシハラ・ホールなどの良い演奏会場があり、世界一流の演奏家達が定期的に演奏に訪れる。
上記の演奏会場から定期的に演奏会案内のパンフレットを郵送していただき、適宜選んで、行けるときに多少無理してでも聴きに行く、という生活を続けてきた。人生を潤し、想像力を豊かにし、文化の歴史再現へと誘うクラシック音楽は、一期一会の積み重ねが大切だとも思う。
普段の暮らしはできる限り倹約して、文化的なものにお金と時間を使うように心がけ、何とか今までこのように生きて来られたことに、心から感謝している。
エレーヌ・グリモーは私の好きなピアニストの一人で、生演奏を聴いたのは、実は二回目。前回は、ちょうど8年前の同じく5月で、旧フェスティバル・ホールでの協奏曲だった(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20080530)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20080531)。CDも何枚か持っているが、普段はYou Tubeが中心で、フランス語のインタビューも含め、さまざまな演奏に触れてきた。過去ブログでも、彼女の自叙伝『野生のしらべ』を読んだりしたことなど、自由に綴ってきた(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20080608)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20080629)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20090120)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20110924)。
結局のところ、子どもの頃からピアノを習っていた基盤があっての音楽好きなのだが、やはり、1990年代初期に仕事で滞在することになったマレーシアも含めた現在の全世界的なイスラーム復興下で、息詰まるような精神的、文化的抑圧状況を直接経験したからこそ、なお一層のこと、伝統的な日本文化のみならず、論理性と自由精神と創造性に満ちた西洋音楽(教会音楽)や、知的で活発で深みを持つユダヤ思想などに自然と惹かれるようになったのだろうと思う。そうでなければ、極めて単調かつ平板な日々の繰り返しだったはずだ。
そして、西洋かぶれというのでは全くないが、苦労しながらも西洋文明を学び、必要なものは積極的に取り入れる進取の精神があったからこそ、明治以降の日本の近代化が成功したと言われる歴史を有しているのならば、今を生きる我々の世代も、先人の努力を水泡に帰すことなく、大切に受け継いでいく義務があることを、時の経過につれて、ますます痛感するところである。
今回は大阪、名古屋、東京のみでの一日おきの演奏で、昨晩の演奏会は、日本ツアーの初日として、大成功だったのではないだろうか。85%強の集客力で、相変わらず中高年が中心だったが、平日にも関わらず、背広やジャケット姿の男性陣も来場していたのが目立ったことは、高度な演奏技術もさることながら、彼女の強い個性の魅力が大きく功を奏しているからだろうと思われる。話が前後するが、アンコールが三曲披露され、スタンディング・オベーションもあちこちで見られ、非常に満足なひとときだった。
実力派になればなるほど、女性演奏家のステージ衣装はシンプルだ。エレーヌ・グリモーも、黒シャツと黒の細いスラックスに、銀色地のジャケット・コートをさり気なく羽織り、踵が赤い黒靴という衣装で颯爽と舞台に登場され、息つく間もなく次々と、ピアノ音の醸し出す様々な水の情景(今回のテーマ)を繰り出していかれた。
ちなみに、ピアノは普通サイズで、特に丈の長い形態ではなかった。
演奏中の会場の咳も以前よりはぐっと少なくなり、皆が集中して耳を傾けていたことが充分に感じられた。彼女が紡ぎ出す多彩な音色から、様々な光景が浮かび上がり、自由に想像力を搔き立てられ、過去から現在そして将来へと時空間を縦横に飛び交う経験をさせていただいた。本当に、あっという間の二時間(休憩15分を含む)で、実に濃厚かつ不思議な時間だった。
今回、500円引きでS席のチケットが入手できたが、左側の6列目の中央寄りの席だったので、彼女の手の動きも充分目の前で見られた。これも朝日友の会のサービスのおかげだ。昨今、とみに評判の低下している朝日新聞で、私もとうに購読を中止しているが(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20150131)、文化的な催しが充実している点、利用しない手はない。
You Tubeの映像で見る限り、とても手の届かない遙か彼方の人、という印象なのだが、昨晩は、同じ二時間を同じ演奏会場で共に過ごせたのだ。こんな経験ができるのも、今という時代の恩恵である。
演奏会用のパンフレットは、入場時にいただいた、いわさきちひろ風のシンプルかつオリジナルなデザインで、特に別販売というものはなかった。記念としてCDを一枚購入したが、今回の水のテーマにちなんだ新譜“Water”(http://www.amazon.com/Water-Limited-Helene-Grimaud/dp/B017BN1V7O/ref=sr_1_fkmr0_1?s=music&ie=UTF8&qid=1463140756&sr=1-1-fkmr0&keywords=elene+grimaud)。但し、サイン会はなく、それでよいと思った。
アンコールの曲目は、恐らくはエレーヌ・グリモーの自筆によるものであろうか、黒いマジックペンでフランス語で書かれたB4程度の白い紙が、会場ロビーの出口前の掲示板に貼り出してあった。皆、熱狂的に群がって、スマホなどで写真を撮っていた熱心さが、久しぶりに日本人の元来持っている活気とエネルギーを表出しているようで、心地よかった。特にフランス語のタイトルを見てすぐに「あ、音の絵だ」と、私の隣にいた男性が聞きもしないのにわざわざ教えてくれたのは、大阪の文化程度を表しているようで面白かった。
彼女自身にとっても、今回はご満悦だった様子。第一部、第二部とも、演奏後に‘Thank you’と何度かつぶやきながら、にっこり微笑んで右手を左胸に当ててお礼をされる他、アンコールでも、正面席のみならず、両側のバルコニー席と背後のパイプオルガン席の観客の四方に向かって、長い両手を前で重ねるようにして、深々と丁寧なお辞儀をゆっくりと繰り返されていた。二度ほど、まるでインド人のように胸の前で両手を合わせた深いお辞儀もあった。
演奏曲目の順序が変更とのアナウンスがあったが、実際に演奏された曲目を以下に。(チケット購入前に入手したチラシおよび演奏会場で開始前に購入したCDと同じ順序。プログラムでは、新譜からとしつつも「ラヴェル、リスト、ドビュッシー、フォーレ、ヤナ−チェク、アルベニス、ベリオ、武満」の順に記されていたが、なぜなのだろうか。)
第一部:(45分)
ベリオ「水のクラヴィア」/武満徹「雨の樹:素描Ⅱ」/フォーレ「舟歌」第5番/ラヴェル「水の戯れ」作品30/アルベニス「アルメリーア ト長調」(イベリア組曲より)/リスト「エステ荘の噴水」/ヤナ−チェク「アンダンテ(霧の中より)」/ドビュッシー「沈める寺」
休憩:(15分)ピアノ調律
第二部:(25分)
ブラームス「ピアノソナタ」第2番 嬰ヘ短調 作品2
アンコール:(15分)
ラフマニノフ:エチュード「音の絵」op.33−3
ラフマニノフ:エチュード「音の絵」op.33−2
ショパン:エチュード ヘ長調
(注:ショパンは‘Etude in F’とのみ書いてあったが、恐らくは‘Op.10, no.8 F major’を省略したのであろう。)
興奮の渦に包まれて会場を後にしたのは、午後9時10分だった。
この頃、演奏会記録をブログで書けなくなってしまった(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20151122)。メモはあり、プログラムも保存してあるが、毎日の目の前の課題に追われて、ゆっくりと書く時間がない。本当は、きちんとファイリングなどもして、記録を残していきたかったのだが、ここ数年、ますますできなくなって、課題は相変わらず山積み。
久しぶりの演奏会記録だが、良い演奏家による音楽を聴くと、自分を取り戻せるような気がする。これからも、そのようであって欲しい。