ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

故羽仁五郎氏を巡るメモ(2)

昨日のブログは、ワードに下書きを作るのに結構時間がかかったものの、アップした今見てみると、羽仁五郎氏とは、偉い歴史家どころか、何ともくだらない破壊思想の持ち主だったのだと、我ながら呆れる。
それにも関わらず、お姑さんの羽仁もと子氏が立ち上げた『婦人之友』誌は今でも続いているし(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20081115)、婦人の意識向上運動の励まし合いである「友の会」は、現在も全国規模で規律正しく展開されている(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20071114)。天皇家にも、羽仁もと子氏による『おさなごを発見せよ』という育児書が伝わっていると巷では言われているが、果たして実際は如何に?

少し遅い感もあるが、近年、平川祐弘氏が次のように執筆されている。

1.(https://jinf.jp/articles/archives/7257

国家基本問題研究所
(2012年2月27日付『産経新聞』朝刊「正論」より)


羽仁五郎もてはやしたあの時代」 比較文化史家、東京大学名誉教授・平川祐弘 
2012年2月28日


・納戸に姉が昭和15年頃に買った本が残っていた。
羽仁五郎三木清河合栄治郎なども買い求めたのは、思想の如何(いかん)を問わず人気学者の本は戦時下でも売れた証拠で、ナチス・ドイツ共産国に比べてわが国にはずっと言論出版の自由があったのだ。河合と三木は敗戦前後に死んだが、羽仁は戦後日本で一躍ヒーローとなった。戦前、思想弾圧されたため後光がさして参議院や学術会議に当選、人民史観を吹聴した。私も講演を拝聴した。あの縦長の面相は憶(おぼ)えている。
羽仁五郎(1901〜83)の『ミケルアンヂェロ』(39)を種に私は戦後社会科の時間にリポートを書いた。知りもしないことを姉の本を頼りに書くのはよくない気がした。しかし今にして思えば羽仁自身がよく知りもしないことをこの岩波新書に書いていた。後年イタリアに留学しミケランジェロの詩を訳すに及んで私は「羽仁は胡散(うさん)臭いな」と感じた。
・羽仁が描くフィレンツェの大芸術家は戦闘的共和主義者だ。
昭和14年当時の羽仁は、治安維持法違反で大学を辞して6年、ミケランジェロを語ることで軍国日本に対する鬱憤を晴らしていたのだ。
・五郎は一高・東大で法学部卒業前にドイツへ留学した。豊かな織物業者森家の息子だからできた贅沢(ぜいたく)だ。帰国して国史学科に再入学、ブルジョワ史学を批判しプロレタリア科学研究所に参加、日大教授となる。時代の寵児(ちょうじ)は唯物史観の優位を説いた。では、無神論かというと自由学園創立者のクリスチャンの羽仁家へ婿入りし、説子と結婚した。野呂榮太郎を助けて日本資本主義発達史講座の刊行に尽力した。
・この左翼の大インテリは、日中戦争が始まっても夏は軽井沢で過ごす。その避暑地で8歳年下のE・H・ノーマンと親しく、羽仁は自分の『明治維新』-これは雄弁の大力作だ-を教科書に2カ月間毎日、チューターを務めた。
・片やハイデルベルク、片やケンブリッジマルクス主義に染まった2人だ。意気投合したノーマンが羽仁の近代日本成立史観を多く踏襲し、講座派の見解を鵜呑(うの)みにしたのも無理はない。明治維新ブルジョワ革命と見るか(労農派)、市民革命ではないとするか(講座派)などの論争は日本ではもう過去の話だが、ダワーなどの西洋左翼は今もって日本近代史を講座派の枠組みで見ている。
・ノーマンは1951年、米上院で追及され、赤の前歴を暴露され、6年後、カナダの駐エジプト大使時代に自殺した。すると死後20 年、北米の反ベトナム戦争世代の手でにわかに偉大な日本史家と祀(まつ)り上げられ、その結果、羽仁がノーマンに仕込んだ講座派流日本解釈までが金科玉条視されるに至ったのである。
・羽仁が最後に勇名(悪名?)を轟(とどろ)かせたのは68年、『都市の論理』が一大ベストセラーになったときだ。今は民主党の幹部に納まっている大学紛争時の闘争学生たちが次々に買った
西洋史木村尚三郎はその記述の誤りを列挙し、「壮大なアジテーションの書である。しかし火を吐くばかりの羽仁の熱烈な現状批判も、そこでの歴史的根拠に大きな無理があるとすれば力を失う。『都市の論理』は『現代都市の論理』とも『現代変革の論理』ともなりえないであろう」と結論した。
日本軍国主義に反対したからといって、羽仁のような左翼知識人が信じた唯物史観が正しかったという保証はない。かつて戦争に反対したからといって、彼らが信奉した国際共産主義が正しかったという保証はさらにない

(部分抜粋引用終)
2.(http://blog.livedoor.jp/aryasarasvati/archives/44472422.html

2015年6月18日

WILL』2015.7月号
マルクスが間違うはずがありません」
東京大学名誉教授 平川祐弘
p54・55


羽仁五郎の悪影響」


・第二、マルクス主義思想の運命について。日本私学の大御所、黒板勝美の弟子に右に平泉澄左に羽仁五郎とがいた。
・「新興科学の旗の下に」プロレタリア科学研究所を創設、『日本資本主義発達史講座』の刊行に努めた羽仁の歴史学がまともかといえば、平泉より羽仁のほうが悪影響を及ぼしたのかもしれない
・1968年の大学紛争当時、造反学生のバイブルとなった羽仁の『都市の論理』は「壮大なアジテーションの書」だが、「歴史的根拠に大きな無理がある」(木村尚三郎)。日中戦争が始まっても、金持ちの羽仁は夏は軽井沢で過ごし、八歳年下のE・H・ノーマンに避暑地で自分の『明治維新』を二カ月間、毎日チューターとして教えた。羽仁はハイデルベルク、ノーマンはケンブリッジマルクス主義に染まった仲で、反日帝国主義で意気投合した。
竹山道雄は『昭和の精神史』で、歴史を解釈するときに、まずある大前提となる原理をたてて、そこから下へ下へと具体的現象の説明に及ぶ往き方はあやまりであるとして、羽仁・ノーマン流の「上からの演繹」に疑問を呈した。しかし、北米ではこんな連中(ハルトゥーニアンの日本語能力は極めて低い)が日本の左翼史家と連携し、東京裁判史観を奉じて学界、さらにはジャーナリズムを支配している。

(部分抜粋引用終)
つまり、読まれなくなった(持て囃されることがなくなった)今でも、我々に直結する問題であるが故に、検討の余地があるということだ。まずは、以下を読んでみよう。最初は8年以上前の文章であり、その次は実際に面識のあった方による文章である。
3.(http://dogwalker.way-nifty.com/carro/2007/04/post_7c22.html

2007年4月7日
「都市の論理」を読み終えて思う


羽仁五郎などと言っても、今時は知らない人が多いかもしれない。35年以上前に大学に学生運動の嵐が吹き荒れたが、その理論的支柱とも見られたバリバリのマルクス主義である。本業は歴史学者ということだが、戦後に参議院議員をやったりもした。
・序説において、羽仁氏はコミュニティ(地域社会)という概念を曖昧だとして切り捨てる。
「第一に、忌憚なくいわせていただいたほうがよいと思うのは、地域社会とかコンミュニティとかいう概念は、全然、学問的ではない、ということであります。この分化集会の報告を、どう、どっからうかがっても、まったくあいまいですね。」
自治体という概念をこそ用いるべきだと主張する。
「地域社会といういう[ママ]あいまいな概念を、もっと深く研究して、精確な概念を構成しようとするならば、やはり自治体という概念を使用すべきであることが、明らかにされるでありましょう。自治体という概念は、学問的にしっかりしています。自治体という概念は、歴史的にも、理論的にも、試練にたえてきています。少なくとも、自治体という概念は、地域社会という概念よりも、しっかりしている。」
・おそらく、自治体という政治的な実態のあるまとまりを、自然発生的な地域社会というものの上位に置かなければ、政治的な運動の主体を明確にできないと考えたのであろう。政治的、社会思想的な具体的活動こそ、羽仁氏が絶対に必要であると思っていたからである。
・羽仁氏は、常に彼の言う”学問的”であることを、あるいは著書の他の場所では”論理的”であることを絶対的に支持し、そうでないことを馬鹿にするか、罵倒する。それには度々「反動的」という言葉が用いられる。今日の眼から見れば、まさに独善的な態度という他無い。

(部分抜粋引用終)
4.(http://www.og-cel.jp/search/1176341_16068.html

2008年3月21日
『都市の論理都市の論理』 羽仁五郎著  勁草書房 一九六八年


・もう覚えている人も限られるが、私が大学生だった頃、『都市の論理』という本があった。書いたのは羽仁五郎。本の内容をおおまかにいうと、都市というものの主人公は、行政でも企業でもなく、市民、それも自立した自由な市民であると主張する。ここまでは社会的な主張だが、この先が私たち建築関係者にからんでくる。
・自由な市民を象徴するのが都市広場だというのである。広場がない都市など都市ではない。日本の広場は広場とは言えない。
都市、市民、広場、この三位一体を語り、当時の学生の心を打ったのだった。
・で、私も、羽仁五郎の講演を聴きに行った。壇上に上った羽仁五郎は、少なくとも私の近辺にはいないタイプの風貌で、銀髪の老人なのに、日本の伝統的老人のような柔和さはなく、悟ったような静けさもなく、強い表情でしゃべり、そして何よりファッションが歳に似合わず若く、オシャレだった。
・聴いている学生も市民も、イタリアなど行ったこともないし、将来行けるとも思っていない。当時、外貨の不足から海外へ行くのは制限されており、政府派遣の留学か、商社の駐在員か外交官か、ようするに仕事でなければかなわぬ夢だった。
そんな聴衆に向かって羽仁五郎は、自分が見たフィレンツェの広場の光景を語るのだった。

(部分抜粋引用終)
困ったものだ。しかし、1928年生まれの羽仁進氏がご存命中の今、バランスを取っておく必要もあろうか。世間は容赦なく批判するが、ご子息が父親を語ると、以下のようになる。

5.(1)(http://webneo.org/archives/29456

2015年2月28日


・父の羽仁五郎(歴史家・参議院議員)はマルクス主義を中心とした歴史を研究していました。父は講談を勉強していました。太平洋戦争に入る寸前、ぼくが小学校4年生の頃、父は中国へ渡っていった。父の持論は中国共産党と話をしなければ、中国との戦争は終らないということであり話し合いのためのルートを探しにいったのです。日本は大陸で軍事的に勝利をおさめているように見えるが、それぞれの極地で勝っているだけで、中国共産党のほうが勢力を増していると考える人たちが父のまわりにいた。
・母の羽仁説子(ジャーナリスト・教育評論家)に連れられて昔の品川駅のホームまで父を見送りにいきました。
・その2年後、ぼくが中学校へ入る前に、母・説子が中国にいる父・五郎と連絡をとろうとして、母はぼくたち子どもを置いて中国へ行ってしまいました。
・後に羽仁五郎上海で逮捕されたことを知りました。母・羽仁説子は、北京の自由学園の関係の学校にいったまま、帰国していなかった。
・2冊父の本が出版されることになりました。そのなかから共産党の細川嘉六(文筆家、参議院議員)さんの原稿も見つかり、それも出版されたので、公的に貴重なものを守ったのかなと思っています。子供心ながらに、父親がおこなっている活動が反政府的であり、政府のほうが間違っているということを理解していたんでしょうね。
自由学園を創立したのは、祖母の羽仁もと子のほうで、父の羽仁五郎はもと子の娘、説子のところへ婿養子に入った人でした。父は群馬県桐生市の出身で、その父親の森宗作は第四十銀行の創始者で実業家だった。父は5番目の息子で末っ子でした。ぼくは羽仁五郎が上海で逮捕されたことを桐生の家に知らせようと思い、東武線に乗ろうとして浅草駅に行ったら、空襲で浅草の町が焼けて、ほとんどの建物がなくなってしまっていた。それが1945年3月10日の大空襲だったんです。

(部分抜粋引用終)
(2)(http://webneo.org/archives/29456/2

・父の羽仁五郎は敗戦を留置所でむかえましたが、1947年に参議院議員に当選しました。自由学園の高校で5年目だったでしょうか、父がぼくに秘書をやってくれといいました。父・五郎の属している会派は12、3人の小さいものでした。そこで父は図書館運営委員長を割り当てられ大不満だったようです。
・図書館の規約を読んでみると、終りのところに一行、「国立国会図書館の設立を目指す」とあったんですよ。英国・米国では国立国会図書館というのは大設備で、重要きわまりない所なのです。父にこの事を説明したら、父はすぐ判って、これは大仕事だと云って、設立される時の為に館長に著名な哲学者、中井正一氏を候補にあげ、占領軍司令部に提出したところ、丁度、司令部にもアメリカ本国から設立準備が命令されており、一挙に騒ぎが始まりました。父は大車輪で働き、今日、図書館の総元締めとなる国立国会図書館が出来たわけです。国会図書館の正面に「真理はわれらを自由にする」という銘文が刻まれていますが、父がドイツ留学時代に見た銘文に由来していて、あれは父の字なんですよ。
・父は「岩波書店から来ないかという話があるが、断ってもいいんだよ」といっていました。
・父親の羽仁五郎参議院議員選挙に出馬することになって、ぼくはそちらの手伝いで大忙しになってしまった。

(部分抜粋引用終)
(3)(http://webneo.org/archives/29456/3

・父のところへよくきていた尾崎秀実(おざき・ほつみ)さんでした。尾崎さんは戦前に近衛内閣のブレーンをつとめた人ですが、共産主義者で、ゾルゲ諜報団に参加して1941年に「ゾルゲ事件」で捕えられて死刑になった方ですね。

(部分抜粋引用終)
(4)(http://webneo.org/archives/29456/4

・人生には自分自身にさえ隠されたものが出てくる瞬間があるのであって、それを一発で撮っているんです。
・国家や組織を中心に考えるのではなく、ひとりの人間という観点から物事を見直していくことが、いまの時代に求められていることではないかと、ぼくは思う。人間の価値が、会社にとって役に立つとか役に立たないとか、人間の外側から決められることがあまりにも多い。

(部分抜粋引用終)
長くなったので、今日はここまで。明日、度々お世話になってきた国立国会図書館について少し追加して、終わることにする。