ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

昨今の風潮(2)

昨日のブログ(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20160623)の続きを。「夢」を政治宣伝に援用する手法は、「中国の夢」(習近平主席)「父からの夢」(オバマ大統領)を想起させる。

http://japan-indepth.jp/?p=28589


2016年6月23日
朝日新聞若宮啓文氏を悼む その3 竹島を韓国に譲って」


古森義久(ジャーナリスト・国際教養大学 客員教授
古森義久の内外透視」


若宮啓文氏の言説のなかでもイデオロギーや政策論を越えて広範な反発を招いたのが日本の固有の領土の竹島を韓国に譲ってしまえ、という趣旨の主張だった。これまた前出の「風考計」という連載コラムだった。ただし2005年3月27日の朝日新聞朝刊掲載だった。


・≪いっそのこと島を譲ってしまったら、と夢想する。・・韓国がこの英断を称えて「友情島」と名づけて周辺の漁業権を日本に認める・・どうせ島を取り返せる見込みはない≫


・しかしこの竹島譲渡案にしても、国旗掲揚や国歌斉唱への反対にしても、自分のを最大の基盤に使うという論法はあまりに無責任で狡猾である。日本の主権や領土にかかわる命題を論じる際に、一人の人間がみたと称するその人間の睡眠中のを、あたかも論拠か根拠であるかのように提示することは単に人間同士のコミュニケーションとしても常軌を逸している
・個人同士の意見の交換、個人から集団への意見の伝達には発信側と受信側とが共に認知できる客観的な共通要素がある程度は存在することが欠かせないだろう
・私自身、50年もの記者活動を続け、無数の記事を書いてきても、自分自身がみた夢を読者に訴える主張の材料に使ったことなど、ただの一度もない
・私は当時の『諸君!』論文で若宮コラムのこの夢の悪用を「情緒の過多と論理の欠落」と特徴づけた。国の主権や外交のあり方を個人の睡眠中のの内容を指針に論じるというのでは、あまりに情緒的にすぎる。そもそも個人の夢の内容を一般化しようとする話法には論理のかけらもない。これが若宮筆法の第一の特徴だった。
・第二の特徴は「論敵の悪魔化」である。最初に紹介した2006年3月の若宮コラムには以下のような記述があった。


≪現代の世界でも「発禁」や「ジャーナリスト殺害」のニュースが珍しくない。
しかし、では日本の言論はいま本当に自由なのか。そこには怪しい現実も横たわる。
靖国参拝に反対した経済人や天皇発言を報じた新聞社が、火炎ビンで脅かされる。加藤紘一氏に至っては実家が放火されてしまった。言論の封圧をねらう卑劣な脅しである。
気に入らない言論に一方的な非難や罵詈雑言を浴びせる風潮もある。この国にも言論の「不自由」は漂っている≫


・実際には朝日新聞の主張に反対する主体は時の民主的かつ合法的な政権であり、自由な言論人や学者たちである。私自身も含めて若宮氏の主張への反対論を彼と同じ言論の自由の範疇で述べているだけなのだ
・この作業は悪魔ではない相手を悪魔扱いする「悪魔化」ということになる。若宮氏の「悪魔化」の手法は以下の記述にもうかがわれた。


・≪(日本国民は)同胞の拉致の悲劇にはこれほど豊かに同情を寄せることができるのに、虐げられる北朝鮮民衆への思いは乏しい。ひるがえって日本による植民地時代の蛮行を問う声は「拉致問題と相殺するな」の一言で封じ込めようとする。日本もまた「敵に似てきている」とすれば、危険なことではないか≫


・日本側が自国民の拉致問題の重要性を強調することは日本を北朝鮮に似た国家にする、というのだから、牽強付会の屁理屈である。日本国民が北朝鮮に拉致された同胞の救出を求めることがけしからん、それは日本の北朝鮮化だ、いうのだ。日本国民をそんな邪悪な存在に例えることこそ、日本の悪魔化だといえよう。


(雑誌月刊「WILL」2016年7月号からの転載)

(部分抜粋引用終)
今から考えると、『朝日新聞』系列の文章は、多かれ少なかれ、このような調子だった。例えば最近、松山幸雄氏の『「勉縮」のすすめ』を読み直す機会があったが、事例の取り上げ方が一方的で安易で軽過ぎると思った。「日本の学校教科書を見ていたら腹が立った」などのような感情的な判断も目立った。学生時代にあのようなものを読まされて成長した世代が我々だったのだ、と今では臍を噛む思いがする。日本の弱体化の原因は、ここにもある。
もう一点、派生的に付け加える。先日のフィラデルフィア管弦楽団五嶋龍氏の演奏会は(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20160622)、新装以来初めて訪れた、朝日新聞社のあるビルのフェスティバル・ホールで開催された。確かに、今のホールも立派ではある。だが、重厚で品格の漂っていた昔のホールの趣が、今では懐かしく感じられてならない(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20071120)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20071121)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20080524)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20080530)。
というのは、チケットを提示する入り口で、チラシやプログラムが入ったビニール製の袋に『ののちゃん』の漫画が大きく掲載されていたからだった。新聞掲載上の『ののちゃん』はどこか『クレヨンしんちゃん』に似ていて、私は大嫌いだった。しかも、クラシック演奏会でこんな場違いで下品な出し物を平気で手渡されたなんて、これが初めてだ。他のホールでは(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20160513)、まず経験がない。だからこそ、全面改装してからのフェシティバル・ホールでは、郵送されてくるチラシを見る限り、お金を払って直接会場に出向いて聴きたいと思う演奏家が殆どいなくなってしまったのだ。
また、真面目な仕事ぶりではあったが、他の演奏会ホールと比べて、会場案内係は雰囲気が一見して学生アルバイト風のように思えてならなかった。
このようにして、箱は立派でも、内部から徐々に文化が低下していくのだろう。

http://japan-indepth.jp/?p=28601


2016年6月24日
朝日新聞若宮啓文氏を悼む その4 歴史切り取りと日本不信」


古森義久(ジャーナリスト・国際教養大学 客員教授
古森義久の内外透視」


若宮啓文氏の朝日新聞での筆法の第三の特徴は「現実の無視と歴史の悪用」だった。


・≪日本のシベリア出兵や米騒動をめぐって寺内正毅内閣と激しく対決した大阪朝日新聞は、しばしば「発売禁止」の処分を受けた≫
満州へ中国へと領土的野心を広げていく日本を戒め、「一切を棄つるの覚悟」を求め続けた石橋湛山の主張(東洋経済新報の社説)はあの時代、「どこの国の新聞か」といわれた。だがどちらが正しかったか≫


・若宮氏は遥か遠い戦前の出来事の特定な一部を切り取って、自分の主張の正当性を証明しようとする。今の日本での懸案はすべて民主主義の政治体制での選択である。だが民主主義が制約されていた戦前の事例を持ち出して、あたかも今の日本にもその種の要因や環境が存在するかのように描く。自分に反対する側は戦前の軍国主義と同じなのだと示唆する。目前の民主主義の現実を無視して、戦前の軍国主義の歴史を目前の出来事への判断に利用しているのだ。
・そもそもシベリア出兵も米騒動も若宮氏がこのコラムを書いた時点よりも90年も前の出来事である。そんな昔の大阪朝日新聞への発売禁止の措置をあたかも現代の日本で起きそうな事例として使うのだ。しかも自分たちの特定の政治主張を補強するために時代環境の大きな違いなどを無視して、特定の過去を利用する。歴史の悪用としかいえないだろう。
・第四の特徴は「日本という概念の忌避」である。


・≪日本にはいまも植民地時代の反省を忘れた議論が横行する。それが韓国を刺激し、竹島条例への誤解まであおるという不幸な構図だ。
さらに目を広げると、日本は周辺国と摩擦ばかりを抱えている。
中国との間では首相の靖国参拝がノドに刺さったトゲだし、尖閣諸島排他的経済水域の争いも厄介だ。領土争いなら、北方領土がロシアに奪われたまま交渉は一向に進まない。そこに竹島だ。あっちもこっちも、何のまあ「戦線」の広いことか≫


・この筆者が日本人として日本の領土や主権を守ろうという意識が少しでも感じられるだろうか。「日本は周辺国と摩擦ばかり」という表現も発想も、筆者の基軸が日本におかれているとは思えない。まるでこの世界から遠く離れた宇宙人が他人事を語っているかのようなのだ。そこには若宮氏の「日本という概念」が感じられない。
・「周辺国と摩擦ばかり」というのも日本としては自国の利益を守る、奪われないようにするという主権国家としての努力の結果である。


・≪「砂の一粒まで絶対に譲れないのが領土主権というもの」などと言われると疑問がわく。では100年ほど前、力ずくで日本に併合された韓国の主権はどうなるのか。小さな無人島と遠い、一つの国がのみ込まれた主権の問題はどうなのか≫


・日本の主権や国益はどうなのか、という疑問を生む。日本の主張よりも韓国の主張を優先せねばならない、というような発想を背後に感じさせる記述である。やはり日本という概念の忌避を思わせる。
若宮氏は朝日新聞主筆を2013年1月まで務めた。私は彼がその主筆として最後の時期に書いた評論記事も点検してみた。2013年1月12日の朝刊に載った「『改憲』で刺激 避ける時」という見出しの記事だった。


・≪過去の歴史の正当化や領土問題での強気と改憲が重なれば、周辺国の警戒が高まるのは防げまい≫
≪この憲法を維持できるかどうかは周辺国の日本への態度によって強く影響される。日本はこうした国から敵視されないために、(憲法改正によって)こちらから刺激する必要もない
憲法9条は過去に軍国主義失敗した日本へのメッセージである≫
≪日本が(憲法改正で)名実ともに軍隊を持てばイラク戦争のような間違った戦争にも参加の可能性が高まる≫


周辺国とは中国、韓国、北朝鮮ということだろう。これらの諸国が警戒したり、刺激されたりするから我が日本は日本国憲法を改正してはならない、というのだ。
・しかしどの国でも憲法はまず自国の思想や安全、利害を考えたうえで内容を決めるべきというのが鉄則だろう。だが若宮氏は日本よりも中韓両国などの対応を優先して考え、日本の憲法の扱いを決めるべきだと述べていたのだ。この理屈に従う場合、日本は中国や韓国が許可を出さない限り、自国の憲法は永遠に変えられないことになってしまう。
憲法9条が日本の過去の軍国主義での失敗へのメッセ―ジだというのは、日本不信の宣言に等しい。
憲法を改正すると日本は間違った戦争に参加する、というのも、日本不信、あるいは日本悪者論だろう。全世界の他の諸国がみな鮮明にしている自国の防衛の権利をもし日本が改憲によってうたうと、間違った戦争をするようになる、というのでは、日本だけが全世界でも異様に危険な遺伝子でも保有する例外的な国という意味になる。
つまりは若宮氏の朝日新聞主筆としての最後の記事は日本不信、日本危険視の一文だったのだ。
(雑誌月刊「WILL」2016年7月号からの転載)

(部分抜粋引用終)

次は、同じ古森義久氏による、おとといのブログ(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20160622)の続きを。

http://japan-indepth.jp/?p=28477


2016年6月16日
国としての主張がない 日本の対米発信の実態その2


古森義久(ジャーナリスト・国際教養大学 客員教授
古森義久の内外透視」


・ロサンゼルスとニューヨークにはそれぞれ「日本情報文化センター」という機関が存在する。ともに日本の独立行政法人の「国際交流基金」が運営する対米発信拠点である。同基金は外務省の事実上の管轄下にあり、対外的な文化芸術交流や日本語教育の普及を任務とする。 
・単に狭い意味の文化にこだわらず、政治や外交も含めての日本からの広範な発信もする、ということだ。
アメリカでは「ロサンゼルス日本情報文化センター」の活動をみると、あまりにも軽い。日本語普及の「みんなでしゃべろう!」というプログラムはまだしも、「かわいいお弁当の作り方」「おにぎりで世界を変えよう」「折り鶴の見本」というような通俗な「発信」ばかりである。その他はお決まりの映画とアニメの連続となっている。
・これでは「文化」の名にも値しない。ほんの少しでも日米間の「知的交流」を思わせる対米発信があってよいと思うのだが、まったくみあたらない。日本にとってのいま懸案の外交課題や日本が国として対外的に知らせたいテーマにわずかでもかかわるような行事はゼロなのだ。
・同じワシントンでの韓国の対米発信活動の状況を報告しよう。韓国を日本との比較の対象にあげるのは、両国がともにアメリカの同盟国である一方、たがいに利害の衝突があるからである。周知のように韓国は日本の領土の竹島を不当に軍事占拠している。まず領有権での衝突があるわけだ。また慰安婦問題をはじめとする歴史認識でも日韓両国は衝突してきた。
アメリカが日韓両国それぞれの主張や態度をどうみるかが常に重要となってくるわけだ。アメリカの理解や賛同を取りつけた方が有利になる
・日韓両国の対米活動は一種のゼロサム・ゲームだともいえよう。相手が得点をあげれば、それだけこちらの失点になるような相関関係があるわけだ。
・韓国政府の対アメリカ発信の主役は「アメリカ韓国経済研究所(米韓経済研究所)(KEI)」である。韓国は官民全体としてもアメリカへの広報や宣伝は日本のそれよりもずっと積極的で大規模だといえる。
・ただし韓国には対米発信では日本にない大きな武器がある。それは合計170万人とされる在米韓国人、韓国系アメリカ人の存在である。韓国系米人は国籍はアメリカだから韓国政府の指示で必ずしも動くとは限らない。だがそれでもなお韓国を祖国とみなし、その利益のためには協力し、献身するという人たちも多い。韓国政府はアメリカの政府や議会への働きかけでは、この韓国系アメリカ人の存在に依存できる場合が多いのである。
・だが対照的に日本は対米発信で日系アメリカ人に依存することはできない。日系米人には日米戦争のせいもあって、日本のために動くという意識がまずないからだ。

(部分抜粋引用終)