ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

キリスト教徒迫害

久しぶりに「メムリ」(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20150529)からの転用を。

メムリ(http://memri.jp/bin/articles.cgi?ID=SP607615


緊急報告シリーズ
Special Dispatch Series No 6076 Jul/4/2015


「Sayfo後に繰返されるキリスト教徒迫害」
ジョージタウン大機関誌でフェルナンデスMEMRI副会長が警鐘―


ジョージタウン大学バークレー宗教・平和・世界問題研究センターの機関誌Cornerstone「コーナーストーン」に、MEMRIのアルベルト・M・フェルナンデス副会長が、中東におけるキリスト教徒の歴史と苦境について論じた。以下2015年6月16日付同誌掲載の記事である。



シリアとイラクでは、恐るべき宗派間殺戮が展開している。集団の熱狂的忠誠で凝り固まるシーア派政権に対するに、苦しみにあえぐスンニ派アラブという構図で展開する相剋であるが、そこに外国の戦士が惹きつけ、或いはIS(イスラム国)のようなサラフィージハーディスト集団に強烈に訴えるものがある。そしてそれは、言語に絶する恐るべき行動となる。彼等は、攻撃にさらされるスンニ派アラブイスラムの防衛者としてのポーズをとり、自分達とは違う者を手当り次第に押し潰している。その結果が、過去1世紀見られなかった地域の社会的民族的構造の崩壊である。粉砕されつつあるといっても過言ではない。キリスト教徒社会に対するISの敵意は、長年の積み重ねのうえにあり、もっと人道的で寛容な地域になるためには、アメリカの外交政策が真剣に取り組まなければならぬ問題である。


北東シリアのハブール川沿いに、小さな農村が連なっている。アッシリアキリスト教徒社会である。最近ISが数ヶ村を攻撃し、蹂躙した。このアッシリア系住民のうち232名(内51名が子供、84名が女性)が人質にとられた。大半は捕われたままである。報道によると※1、ISは釈放条件として2200万ドル(1人当り約10万ドル)を要求している。人質にとられなかった村民は、散々に痛めつけられ、モスルとニネベ(チグリス川をはさみモスルの対岸にある)平原にあった一連のキリスト教徒社会が壊滅している。イスラムが来てイスラム化が進み、更にモンゴルとタメルラン(ティムール帝国の建設者)の侵攻にも耐えて生きのびたが、ISによって抹殺された。この社会の壊滅からまもなく1年になる。



シリアとイラクで展開中の殺戮戦では、犠牲者の大半はムスリムではあるが、同じ圧力でも、キリスト教徒社会にとっては少人数であるため、耐え難い打撃となっている。更に問題は、IS“カリフ領”の主戦場がトルコ南部と境界を接するシリア北部及びイラク北部であることである。そのため少数派キリスト教社会は塗炭の苦しみを味わってきた。その地域は、シリア語(アラム語と近縁関係にあるセム語)を話すキリスト教徒が先祖代々住んできた地で、ベトナーレイン(シリア語で“河川の家”の意、メソポタミアと呼ぶ地方である。アンティオキア正教会の歴史と深いかかわりのある地である(無論、シリア正教会アッシリア東方教会、カルディア典礼カトリック教会、シリア典礼カトリック教会の各教徒社会もある)。いずれも誠に小さい少数派社会である。この地域はクルド語を話すヤジディ教徒の居住地でもある。この社会もISの攻撃対象となり、虐殺、追放の憂き目にあった。


ISは、ハブール川流域のこの村落群を襲ってまさに殲滅したが、それより約100年前、村人の祖父母達は、ハッカリ山地に居住していた。現在のトルコ南東部にあたる地域である。その時代アッシリア大虐殺(Sayfo、シリア語で剣の意)があった※2。所謂1915年の大虐殺である。かつてアメリカの伝道師が“山岳ネストリウス派”と呼んだ古代より連綿と続くキリスト教徒社会が虐殺の対象となり、多数の住民が犠牲になった。辛くも生残った人々は、部族の指導者と司教に率いられてオスマントルコ軍の包囲をくぐり抜け、ロシア側の安全地帯へ逃れたのである



第一次世界大戦の後、トルコはこのアッシリア人の山塞帰還を許さなかった。そのため住民達はイラクに落着き、イギリス支配下の当地で警官や兵隊になった。1933年のイラク独立は、虐殺の始まりであった。新政権が、大戦時こちらへ逃げこんで来た人々を殺し始めたのである。彼等は再び逃げ出さねばならなくなった。行きついた所は、フランスが支配するシリアである。この後シリアは、動乱の時代を迎える。しかしそれでも、キリスト教のトクーマ(Tkhuma)、ティアリ(Tiari)、バズ(Baz)、ジル(Jilu)、ディズ(Diz)の各部族は、質朴ではあるが静かな聖域を当地にみつけたようであった。



中東のキリスト教徒は、或る意味では炭鉱のカナリヤ的存在であった。そして今日の彼等の苦しみは、中東諸国統治体が病んでいる有力な証拠である。現在、このアッシリア人大虐殺(Sayfo)は続いている。度重なる虐殺と追放、離散の憂き目にあった末、この人々に果して未来はあるのかという疑問が湧く。シリア語を話すキリスト教ディアスポラの民になって流浪するのであろうか。アメリカと地域勢力は、汚い外交の駆け引きのなかで、ISと戦う上の損得を考え、さまざまな相殺取引を行なう。しかし私がとりあげたいのは全体像のことではなくて、小さい少数派社会の人々、つつましく純朴で、大風で吹き飛ばされそうな木の葉のような人々の話である。再び命からがら逃げ出し、安住の地を求めて、もがき苦しんでいる人々のことである。


ISにとって重要なのは、キリスト教徒とヤジディ教徒をこの地から根絶することである。ISの幹部聖職者アブマリク(Abu Malik Anas al-Nashwan)は、サウジの教育制度が生みだした人物であるが、最近ビデオを発表した※3。エチオピアキリスト教徒30名の殺害話が中心で、キリスト教徒をどのように扱うかが、主要テーマになっている。その扱い方とは、イスラムへの改宗、保護税(Jizya)を課した侮辱法、或いは処刑である。不幸なことに、この意識はISに底流しており、サウジアラビアの大法官であった故アブダル・アジズ・ビンバズ(Abdul Aziz Bin Baz)のだした公式ファトワからの剽窃であることが※4、充分に考えられる。最近エルサレムのエルアクサモスクで、パレスチナ人聖職者アメイラ(Issam Ameira)も、同じようなことを言った。


ISが手にしたものを取り返し、形勢を逆転するのが、反IS連合の政策であるのなら、ISが実行している民族浄化をやめさせることが、優先されて然るべきである。サウジやカタールは、ISの喧伝するサラフィの世界観を相当に共有している。この二ヶ国のような諸国が、迫害された一連の共同体の損失を本当に償うのであれば、口先だけではない寛容と異宗派間の連帯があると言える。



トルコのトゥルアブディン地方には、衰退しつつあるものの比較的健在な、シリア語を話す社会がいくつもある。アルクシュという町はイラクキリスト教徒の住む由緒あるところだが、まだISの手にかかっていない。クルディスタンの都市部に設置されたIDP(国内離散民)キャンプにはキリスト教徒とヤジディ教徒が呻吟している。連帯の手がこのような社会や人々にもさしのべられたらと思う。まだ息のある共同体に対する補償と歴史の記憶の回復には、例えば2015年3月ISによって爆破された由緒あるシリア典礼カトリック教会のマル・ベーナム修道院(4世紀建立)のような、極めて象徴的なサイトの再建を含むことになる。


西側の対応については、研究者ワーテンプーフ(Keith Watenpaugh)が新著で1世紀前の状況を書いている※5。極めて類似した状況の中で、全く同じキリスト教徒共同体に救いの手をさしのべられた経緯が描かれている。現代の文明社会は、もっと思いやりが有る筈だが、人々の心を癒し、父祖の地における共同体の再建を手伝いことができるのであろうか。キリスト教の慈善団体が、宗派を問わず離散民の救援に奔走している。しかし、この地域と西側の国民国家に対しては、もっと説得する必要がある。民族と宗教の多様性は大切なことであり、その維持努力は誰にとっても良き政策で良き政治であることも、理解させなければならない。


[1] Facebook.com/Assyrian.Network/posts/826249490789001
[2] Facebook.com/1915sayfo.
[3] The New York Times, April 20, 2015.
[4] Islamqa.info/en/34770.
[5] Ucpress.edu/book.php?isbn=9780520279322.

(引用終)