思い出は彼方に
院生時代の副指導教官だった白井成雄先生が、7日に80歳で逝去されていたことを、今日の朝刊で知った。
大学院の修了式でご一緒にお写真を撮らせていただいた時のことが、つい先日のように鮮明に思い浮かぶ。先生の研究室に修論のご相談にうかがった際も、「専門が違うので、私にはわかりませんから」と、静かに明快におっしゃった。
その後、黒沼ユリ子氏のヴァイオリン・リサイタルが名古屋で開かれた時、ホールで先生ご夫妻とお目にかかった。留学生寮のチューターをしていた私は、早速メキシコの留学生を誘って一緒に出かけたのだが、ご挨拶の時、私の方がハラハラしたことを懐かしく思い出す。
当時は、不肖の学生故に、わけもわからず緊張ばかりしていたが、2011年秋、思いがけないきっかけで先生からもご丁重なお手紙をいただくようになり、お兄様のシベリア抑留のことなど、院生時代には知る由もなかったご家族の背景を、丁寧にご教示いただいた。先生は、亡父の二歳年上でいらした。先生の一番上のお兄様は、2011年3月に数え年92歳で亡くなった母方の祖母より二歳年下の同世代に相当し、もしあの戦争がなかったならば、というお話であった。
主査の指導教官から、「あの先生は良い方だから、何でも相談しなさい」と親切に言っていただいたことの深い意味も、この頃になって、ようやくありがたく思い出す。当時は今と社会風潮が違い、大学の雰囲気も引き締まっていたので、「何でも」とは言え、ゆめ文字通り受け取るべきではなく、あくまで礼儀上の言葉だと解して、遠慮していた。もし、今のように、先生のお仕事そのものを知るきっかけが開かれていたならば、当然、ご相談に上がっていたことだろう。
院生の頃の狭い勉強から、マレーシア派遣が決まった時も、帰国した際も、周囲が「あんな遅れた国じゃあねぇ」と、既に人生が終わったかのような口ぶりだったので、フランス文学のようなしゃれた高度な文化をご専門とされている白井先生には、もう相手にもしていただけないものと勝手に思い込んでいた。
しかし、シャードルト・ジャヴァン『モンテスキューの孤独』水声社(2010年)を拝読し、恐る恐るご連絡申し上げたところ、遠い記憶なので、とおっしゃりながらも、「私のように異なった分野の者はどうしてよいか戸惑いが多く、学生の皆さん方にはご迷惑をおかけしたことと思います」と、実に心温まるお手紙をくださった。マレーシアのことも、ご自身がソウル生まれで戦中戦後の大変な時期を過ごされたこともあってか、「随分豊富な知見を身につけられたことと想像しています」と、肯定的に応じてくださった。自分なりに領域を広げてきたことで、ようやく接点ができかけたかとうれしく思っていた頃だった。
こういう先生でいらしたということを、学内政治のためなのか、詰め込みで成果ばかり焦らされていた環境のせいなのか、遙か後になって知るようになった私である。しかもそれは、何とあろうか、マレーシアと国交のないイスラエルを紹介する雑誌『みるとす』の河合一充先生のブログ経由だったのである。
その後、メンミの訳書も、早速二冊、図書館で借りてきて読了した。院生時代の記憶では、先生のご専門はアランだと了解していたので、その時になってやっと、自分の本来の関心事との連関はこうだったのだ、と合点がいったものである。
・アルベール・メンミ『あるユダヤ人の肖像』白井成雄共訳 法政大学出版局 叢書・ウニベルシタス(1980年)
・アルベール・メンミ『脱植民地国家の現在 ムスリム・アラブ圏を中心に』白井成雄共訳 法政大学出版局 りぶらりあ選書(2007年)
マレーシアという東南アジアの国民国家だけに囚われると、まともな一次資料もなく、指導教官も見つからず、孤立無援で窒息状況だったが、滞在経験中に抱いた問題意識だけを頼りにささやかな勉強を続けていった結果、院生時代とは全く異なった様相が生起し、思いがけず、昔の恩師とのつながりに生気が踊る。大学の場での指導教官・院生関係という学問的緊張から解き放たれた自由な私的再会によって、人生の諸相とありがたみを味わうことができた。
今にして思うのは、素晴らしい先生に巡り会うチャンスが与えられていたのに、異なる勢力に押しつぶされて、自分で機会を閉ざしていたのではなかったか、と。もっとも、自分の能力を客観的に知ることが難しかったせいでもある。常にわけもわからず批判ばかりされ、自分が一体全体、何がどこまでできるのか、今後どのように自分の人生の舵取りをすべきなのか、四方八方、壁に塞がれた感覚であった。
ただ、私にとって非常に幸いだったのは、ちょうど三年前の今頃、真の巡り合わせが与えられたことである。
白井先生、本当にどうもありがとうございました。