ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

日本思想って?

今日は、法令による三年に一度のガス器具点検日(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20090616)。在宅するようにとのことで、朝から掃除をしていた。ところが、外に備え付けのガス・メーターとお風呂場の脱衣場と台所のコンロだけのつもりが、結構、周辺に汚れや埃がたまっていることが判明し、ついでに年末の大掃除のイントロを手がけてしまった次第。
疲れたが、いい運動にもなり、気分もさっぱり。肝心の点検は、10分ほどで完了。「きれいに通っています」と合格印。
いつも思うのだが、こういう定期点検にきちんと応対することも、社会的義務の一つ。(うちは大丈夫だろう)と素人感覚でのんびりしていて、もし自宅からガス漏れやガス爆発でも起こしたら、ご近所迷惑も甚だしい。その際、「女性が生き生きと外で輝いて」働いていたら、一体全体、誰が事前にガス漏れ事故防止の点検に立ち会うのだろうか?まさか、「家事分担だから、あなたがお仕事休んでね」などと言うのだろうか?(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20071219)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20101109
昨晩、イスラエル・フィルの感想(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20141101)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20141102)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20141106)をワードに下書きしておいたが、そんなこんなで予定がずれてしまい、今日のところは、この頃ますます大活躍の池内恵氏を(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/archive?word=%C3%D3%C6%E2%B7%C3)。10年前のN氏経験と直結するだけに(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20141010)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20141011)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20141012)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20141017)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20141019)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20141024)、大袈裟に言えば、私なりのささやかな経歴や人生そのものに深い陰を落としていることだけに、やはり、日本での頼みは、池内氏のような論客研究者なのだ。
そういえば、二時間前に、突然エルサレムから電話が入った。何ら支障なく、英語でつるつる会話している自分を見出し、我ながら本当にびっくりした。「イスラエルに来られたこと、あるのですか?」と尋ねられ、「ええ、一度だけですけど」と返答すると、納得していただけた。地方出身で地方在住の国文学科出身の私だが、聴く音楽といい、読む本といい、やはり西洋的な思考を自然と有しているのだろう。だから、全くの素人だったのに、マレーシアの問題に一人で気づくことができたのだ。そこは、もっと胸を張って誇りにしてよい、と約半世紀生きていた身として、あえて自分に言い聞かせたい。

ついでながら、1986年3月に初めて一泊したマレーシアも、1990年代初期のマレーシアも、本来はイスラームを象徴として掲げ、マレー人の宗教として尊重しながらも、英国主導で西洋的な近代思考を注入する国造りを志していたはずだった。ある面では、日本の一般大衆よりは、遙かに先導してアングロ・サクソン文化を吸収している層が首都圏で確かに観察でき、まぶしかった記憶がある。ところが、その頃既にムスリム共同体内で進行していたイスラーム復興に関しては、マレー・カンポンに暮らしたこともなかった当時の私には、気づく余地もなかった。

http://chutoislam.blog.fc2.com/blog-entry-226.html
【寄稿】『文藝春秋』12月号にて「イスラーム国」をめぐる日本思想の問題を
2014/11/10


井筒俊彦の固有のイスラーム論を「イスラーム教そのもの」と勘違いして想像上の「イスラーム」を構築してきた日本の知識人の問題


*「イスラーム国」が拠って立つイスラーム法学の規範を受け止めかねている日本の学者の限界はどこから来るのか(ここで「そのまんま」イスラーム法学を掲げる中田考氏の存在は貴重である。ただしその議論の日本社会で持つ不穏な意味合いはきちんと指摘することが必要)


自由主義の原則を踏み越えて見せる「ラディカル」な社会学の不毛さ、きわめつけの無知


合理主義哲学と啓示による宗教的律法との対立という、イスラーム世界とキリスト教世界がともに取り組んできた(正反対の解決を採用した)思想問題を、まともに理解できず、かつ部分的に受け売りして見当はずれの言論を振りかざす日本の思想家・社会学からひとまず一例(誰なのかは読んでのお楽しみ)
(中略)
おじさん雑誌には、おじさんたちの安定した序列感によるページ数配分相場がある。それが時代と現実に合わなくなっているのではないか


・はっきり言えば、このテーマはもうウェブに出してしまった方が明らかに効率がいい。ウェブを読まない、日本語の紙の媒体の上にないものは存在しないとみなす、という人たちはもう置いていってしまうしかない。なぜならばこれは日本の将来に関わる問題だから


・国際社会と関わって生きている人で「日本語の紙の媒体しか読みません」という人はもはや存在しないだろう。


決定的に重要な今後10年間に、後進の世代の困難な選択と努力を、邪魔しないようにしてほしいから


・よく分かるが、こればかりやっていれば雑誌に未来がない、ということは厳然とした事実だよね。


・今後の日本がどのようにグローバル化した国際社会に漕ぎ出していくのか、実際に現役世代が何に関心をもって取り組んでいるのかについて、もっとページを割いて、掲載する場所も前に持っていかないと、このままでは歴史の遺物となってしまうだろう

(部分引用終)
はい、仰せの通り。でも、池内氏はいいなぁ。私よりもお若いから「おじさん雑誌」と言っていられる。齢かれこれ約半世紀の私は、どうなるの?
以下の「コメント欄」には、マレーシアのイスラーム復興とイスラーム化政策に関連して、「穏健なムスリム知識人」の一人として、活発に活動していたインド系マラヤリのムスリム(マレー人との結婚でイスラーム改宗)の論を掲載する。(注:マラヤリは、マイノリティ中のマイノリティだが、マレーシアのインド系の中でも、一世代分、進歩的で開明的な人々が多いとされている。)これを読むと、「穏健」と言えども、論が堂々巡りだということは一目瞭然。ここに気づかずに、あるいは、これを無視して「これもあり」と容認し、促進してきた群が存在することに留意を。その問題点は、日本の近代化の努力と達成を、その恩恵に預かりながら知的に言論的に歪曲し、否認し抑圧してきた研究者や論客の思想ないしは思考回路にある。