ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

外国語学習の動機と目的

まずはフェイスブックhttps://www.facebook.com/ikuko.tsunashima)の転載から。

(http://www.danielpipes.org/15492/)
「あり得ない場でヘブライ語を学んで」
ダニエル・パイプス
2005年09月29日


ユーリ:説明が消えてしまっていました。もう一度ここに書きます。


ユーリ:二十代の頃、某国立大学で日本人学生達に、「皆さんは、日本語を学ぶ外国人は、日本が好きで、日本文化に興味を持っていると思っているかもしれませんが、北朝鮮では、日本が憎いから日本語を学んでいるんですよ」と言ったところ、怪訝な顔をしていたことを今、思い出します。


ユーリ:当時は、戦時中に日本語を植民地に押しつけた日本を否定し、コミュニケーションの道具としての日本語、という教授法が主流でした。つまり、ニコニコと優しく楽しく日本語を教え、共に学ぶことによって、相互理解と平和が訪れるという、今から思えば何とも安易で脳天気な環境でした。そこから抜け出て正解だったと思います。

(転載終)
1980年代半ばから90年代初頭まで、新聞紙上でも「女性に向いた仕事」で「国際的」で「進歩的」だとして、話題を呼んだ日本語教育。国文学科出身の私は、仕事を持つなら、自分なりに勉強を一生続けられる分野をと考え、まずはボランティアで経験を積んでから、と思っていた。という話をしたところ、卒論の指導教授に院進学を勧められたのだった。
その際、草分けの大御所的存在だったO・M先生にご挨拶に伺うよう、指導教授に言われて、緊張しながらもその通りにした。今でも覚えているが、その前に指導教授から「突然、よそ者が伺うのだから、口を聞いてもらえなくても当然だと思え。ご挨拶だけでも、という礼儀だ。いいな」と厳しく言われた(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20091219)。つくづく、とてもありがたいご教示だったと懐かしく思い起こす。
実際には、ご多忙のことでいらしたろうに、O・M先生は、十分ほどだったか、個別に一対一でお話してくださった。穏やかでにこやかで、いかにも教育者風でいらした。
その後、入試があり、面接の時には、十人以上だったろうか、試験官や教授陣がずらりと並んで座っていらして、ドアの開け閉めからお辞儀の仕方から服装はもちろん、足下もじろじろと厳しい注視の的だったことを、今も思い出す。
質問は、矢継ぎ早にさまざまな角度から飛んできた。筆記試験の専門科目は何でもなかったが、ドイツ語に関しては、以前書いたとおりだったので(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20070730)、自分としては開き直り状態。(どうせ落ちるのだから、華々しく落ちてやろう)という気分だった。(ボランティアでも何でも、早く自活のために居場所を見つけなければ)という居直り。なので、かえって緊張することもなく、それこそ自然体で「どこからでも私を見てください」という心境。
その時、ある男性教授から「O・M先生に言及されましたが、以前からの知り合いだったのですか」と衆人環視の中を問われた。咄嗟に「はい。時々、テレビで拝見しております」と大真面目に答えたところ、思わず面接官数名からも観察の教授陣からも、一同ドッと笑いが起こった。これには我ながらびっくりしたが、アメリカではスピーチの冒頭で笑わせなければ失格だとか、国際的な場では余裕ある態度が重要だなどと、何かの本で読んだことを思い出し、ここは日本だが、と忙しく考えながらも、一緒になってニコニコと笑ってみた。
しばらく笑いが続いた後、「では、よろしいです」と外へ出るように指示があり、素直にお辞儀をして退室した。
(まぁ、この程度で落ちるなら悔いはない)と思っていたところが、意に反して….。
院生になってしばらくした後、指導教官から「ユーリさんは、度胸がありますからねぇ」と言われた。これまた遠回しに注意されているのかと、「はい、失礼いたしました」と返事をしてしまったのだが、今になって振り返ると、いつもどこかズレた反応をしているような、それでも我ながら憎めないというのか、特に相手を怒らせているわけでもないし、これで国内外どこでも身を守ってきたとは言えるのかもしれない。
こんなことも、半世紀を生きてきたから言えるようになったことだ(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20141109)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20150113)。
当然のことながら、故白井成雄先生も(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20111001)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20111006)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20111226)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20121007)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20141112)、一緒に笑ってくださった中にいらしたことであろう。
ところで、そのO・M先生も先頃、お亡くなりになった。古稀にはお祝いとして膝掛けをお送りし、胡蝶蘭の弔電も送ったのだが、特に何もお返事はないままだ。確かに、日本語教育からは外れた私だが、そうは言えども、副指導教官の白井先生も、晩年の三年間になって親しい交流が芽生えたのであるし、初期のセンター長の故M先生もそうだったように、ご香典をお送りすると、いずれも奥様方からご丁重なご連絡を賜っている。
詳細はよくわからないが、もしかしたら、当時は画期的で評判の高かったO・M先生の日本語論や教授法も、時代の変遷や検証により、今では評価や流れが変わってきたのだろうか。あれほど「その言い方、その態度は、日本人に失礼だ」という注意を頻繁に(我々にも)されていたO・M先生だったのだが。
マレーシアからの一時帰国の際にも、当時、国立国語研究所にいらしたので、上京してお時間を取っていただき、ご挨拶申し上げた。言うまでもなく事前にお手紙をお送りし、お伺いした時には、応接室の机の上に私からの便箋が開かれてO・M先生の近くに置かれてあった。つまるところ、電話一本で突然のお邪魔というわけでもなかったのだった。
その時、「すみません。マレーシアでは日本語に関する論文は書けません」と平謝りに謝った私。鷹揚に笑われて、「あそこで書けるわけがない。あれは、マレーシア政府が悪い。論文なんて、時間をかけて、ゆっくりと書けばよろしい」との仰せだった。
そのご教示に関しては、今振り返っても、その通りなのである。しかし、その含みは、といえば、上記のパイプス拙訳にあるように、外国語学習の動機とは、当時の日本側の無邪気な理解の仕方とは全く異なっている、というのが、私の二年間のマレーシア勤務を経ての観察および結論であった。
私のマレー人の教え子の中には、マハティール氏の通訳を務めたという人もいるが、昔から彼は抜け目のない都会っ子で、私の観察によれば、当時のマレー共同体の中では、いわば例外である。(彼は、2006年にクアラルンプールの日航ホテルで偶然ばったり会った際、「安倍総理のビジネスを手伝っているんです」とも自分から言った(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20070913)。)それよりも、マレーシアでは国語たるマレー語および英語が最も重要で、その次ぐらいに華語が大切。日本語なんて、所詮、商売に役立つか(どうか)、無知で世間知らずの日本人を喜ばせる程度でしかないのだ。
今、日本語を学ぶ外国人で、日本に何年も住んでいる人が増えているが、一体全体、どういう動機で何のために学んでいるのか、外向きのビジネスや肩書き以外に、自宅に帰ってから本国向けに何をしているのか、その程度まで目を光らせる必要があるだろう。
私は、日本に来たら、日本人と知り合いになれば、相互理解で世界が平和になるなどと、おめでたいことを言うつもりはない。二十代でのマレーシア経験は、そういう現実の厳しさをとくと教えてくれた。
残念ながら、帰国してからのバブル浮かれの日本社会では、なかなか話が通じなかった。それは、今の「イスラーム国」絡みのメディア報道各種でも、歴然としている。