知的閉塞感あふれる日本
ハートフォード神学校から、箱に詰められた大量の複写物が無事に届いた(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140520)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140524)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140525)。
4月12日と14日に図書館にこもってお世話になっていたので、かれこれ約二ヶ月がかりということになる。それほど、多くの方々の労を煩わせたということだ。感謝以外の何物でもない。
帰国早々、お礼としてのお土産などを送ると、かえって急かしているかのようで、プレッシャーになってはいけないと思い、準備はしてあるが、机の横にずっと置いてあった。これから、お送りするつもりだ。
それにしても、アメリカからの小包だと、配達のおじさんがニコニコ顔で、非常に愛想がいい。普段は国内郵便が中心で、それにマレーシアとシンガポールからの郵便が加わるのだが、当然のように、不審そうな顔をされたり、妙に改まって「マレーシアからですね」と言われたりする。でも、アメリカからのものは、全くそんなことがない。
もし大学周辺に住んでいたら、そんなことはないのかもしれないが、この相違に気づくチャンスも同時に失われるので、似たり寄ったり。それに、大学と名の付く発信元の影響で、変な思想にかぶれないか心配する気苦労からも解放され、地に足をつけて真っ当に生きている世間の普通の感覚の中で、自分のペースで勉強が進められるので、精神的には楽だ。
とはいえ、この頃気になっているのが、日本の知的閉塞感や、明らかな知的水準低下だ。もしかしたら、私がマレーシアのマレー語に関することなぞを、暇そうにダラダラと続けているので、(あれは趣味だな)と軽くあしらわれていて、マレーシアのマレー語話者水準に引き下げて扱われているのかもしれない。としたならば、随分、マレー語話者の人々に対して失礼な話だ。
実は、マレーシアから帰国した1993年以降、長らくずっと、そう感じてきた。それ以前には、感じたことのなかった失礼さを半日常的に感じるようになったからだ。最近よく言われる、「ここ二十年の間に日本は...」とぴったり重なっている。もっとも、親の庇護の元で暮らしていた若い年齢だった時には、周囲が親をはばかって遠慮していたのかもしれない。でも、「この日本語、わかる?」「言っていること、理解できている?」など、あたかも小学生まがいの確認までされてきたのだった。「クラシック音楽なんて、無理して背伸びして聴かなくてもいいんだよ。どうせ、わかっていないんでしょう?」「あなたが西洋音楽を聴いているなんて、おっかしくってさぁ」等々....(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20100615)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140305)。
メールのやり取りでも、最初から、「一を聞いて十を知れ」(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20080529)「人の二倍、三倍努力してやっと一人前」(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20131204)「人と同じ事をしていたら生きていけない」(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140513)と子ども時代に周囲のおじさん、おばさん、先生達が言っていた通りにしているつもりなのだが、どういうわけか、返信を読むとがっくりくることが日本語では増えた。どうして、後戻りする内容をわざわざ送ってくるのか、ということだ。話が先に進まないどころか、いちいち後ろに後ろに戻っているのだ。つまり、私が内容を理解できないという前提に立っているとしか思えない。
しかし、メーリングリストなどでも、わざわざ漢字表記を平仮名にしているところを見ると、「皆が平等に同じ理解に達しないといけない」という誤った思想が蔓延しているのではないかと思われる。
ついでに、「失礼ですけど、どういう学歴の方なんですか?」「どういうご経歴を持っているんですか」「どういう裏技を使ったんですか?」などとも学会の合間や懇親会で聞かれて、いつでも憤慨している(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20130311)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20131128)。どういう学歴って、何もないですよ。義務教育だけは、国民の義務として終えました。経歴もありません。犯罪歴だけはないと思いますけど。裏技って、どういう意味ですか?表技さえ、わかっていないのに...。
アメリカからのユナイテッド帰国便の中で日経新聞を読んでいたのだが、地上で読む朝日新聞とは活字の詰まり方が違う上、話の土台が、そもそも朝日の記事程度を口に出すのも恥ずかしい常識として踏まえた先に設定されていることに気づいた。こればかりは愕然として、恐怖心さえ感じる。つまり、左派思想とは、全体の知的水準を、お互いに足を引っ張りながら下げっこ競争させるのだ。「人権」「差別」「弱者へのまなざし」「格差反対」などと、もっともらしいことを唱えて、愚かな大衆を操作するのだ。「丁寧な議論を」「国民は怒っている」などと(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20131127)、私なんぞ国民でも思っていないのに、勝手にレッテル付けされて勝手に一緒くたにされてしまう。これは、非常に恐ろしいことだ。
追記メモ:「血」「汗」「涙」(チャーチル)
「音楽の中に新たな意味とメッセージを見つけること。いつも勉強」(Menahem Pressler)
「才能は充分ではない。音楽のためには、知性が必要。そして幸運も」(内田光子)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140516)