ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

あまりにも貧弱思考では?

1998年から、いろいろな所で研究発表を続けてきた。大学で教えるよう依頼があって、お受けしたこともある。だから大体、質問の仕方で、相手がこちらの言っていることを理解する気があるかないかぐらいは、一瞬でわかる。能力の問題ではない。意欲や意識の問題だ。人に対してフィルターをかけて見るかどうかの違いだ。
専門やテーマが異なっても、すぐに通じ合える人もいれば、いくら立派な肩書きを有していても、トンチンカンなアドバイスを寄こすか、「皆がわかるように」と訓示まで垂れる人がいる。例えば、「詳しく資料を作るのはいいが、そんなに細かく情報を出すな」「全部不要です」と言ったかと思えば、「話はおもしろいのだが、独創性がないんですよね」とか、「それがどうしたんですか」という極めつけの発言もあった(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20090224)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20090418)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20101126)。それに、明らかに先行研究を知らないくせに、きちんと聞き取りもせずに、思い込みで断罪してくる人もいた。後に、飛行機に乗って対象者のお墓まで見に行って(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20121225)、やはり私の発言や先行研究の通りだったことが確認できたのだが、事情を知らないのに断罪した人の方が、あたかも絶対に間違っていないかのようである。それに、時既に遅しだ。
第一、インドネシアとマレーシアの区別もできない人に向かって、「皆がわかるように」とは、どうすればいいのか?
このようにして、人の人生を浪費し、破壊していく。
しかし、今ではご隠退された世代や80代90代、あるいは既に逝去された先生方は全く違っていた。もちろん、現地調査のベテランである。「いやぁ、こういう人の方が、おもしろい研究ができるんだよな」「着眼点が素晴らしい」「よく気がつきました」等々、こちらが呆然として恐縮するほどだった(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20070918)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20071211)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20081027)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20110217)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20130906)。「私の時代はこうだったんですが、今は違うようですね。その点を、もう少し教えてください」「話は聞いていましたが、改めて恐ろしいと思いました。まだ続いているんですね」などと、前向きな質問のされ方をした。教養の幅が違っていたのだろうか、それとも、年の功なのだろうか(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20110330)。頭が固くて視野が狭いのは、むしろ、それより下の年代の方のような気がする。
ただし、その頃は、本気で取り組むとなれば、資料を求めて世界中あちこちを飛び回らなければならないことがわかっていたので、それだけでも萎縮する気になってしまった。できるのだろうか?それに、欧米では、既に一区切りついたテーマである。日本側は、それさえ取り組んでいなかったのだ。第一、日本にまともな資料も揃えていなかったくせに、鬼の首でも取ったかのように、どうしてそんなに威張り散らせるのか、私には不思議で仕方がない。
知り合って早くも二年半ほどが経ち、「先生」こと「友達」およびお仲間学者から多くを学んでいる。そんなこんなで、心から敬服し、よい刺激を受け続けているのは、地に足をつけた戦略的思考と豊富な分析力とデータ収集能力である。それに、あの勤勉さは、どう見てもかなわない。発言の一言一言が、実証と実感を伴っているために、専門外の私にまで、使用言語の違いを超えて、伝わってくるものがあるのだ。
「細かく情報を出すな」なんて、どれほど恥ずかしい発言か、わかっていないんじゃないでしょうか?この程度で「細かい」だって?あまりにも貧弱思考では?
PS:今受け取ったメールによれば、「あんたに値する敬意を受け取るよう、僕は主張する」とあった。さすが、この意気込みで世の中を渡ってこられたんですね。もう少し言うと、マキャベリによれば、「愛されるよりも恐れられるほうがよい」らしいです(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20121020)。