ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

私家版『民間防衛』の続き

早くも11月。
例年、この時期になると、計画通りに行かないことに対する自責の念というと大袈裟だが、時が無為に過ぎることに対する抵抗感ないしは永遠の渇望感という気分でいた。とはいえ、この頃では、今年から始めた簡易テニス(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20161028)と毎日の手作り果物ジュース(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20160316)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20160401)のお陰なのか、前向きになってきた。
やはり、歳を取ることは、必ずしも悪いことではない。
先日、私家版『民間防衛』として、手持ちのお茶の本を埃を払いつつ書き並べてみたが(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20161030)、実はもっと本格的な本が自宅にはある。前回綴った小冊子類は、隙間の細切れ時間を利用して、電車の中でも手軽に開いて読み、少しでも暗記できるようにという、まるで受験生さながらの工夫でもあった。
久しぶりに箪笥の奥に仕舞い込んであった当時の記憶を取り出してみると、今でも全身が緊張して冷や汗が出そうな思いがする。
大学院の(少なくとも四名の)教授推薦のため試験なしの面接のみで、国際交流基金によって派遣されたマレーシアで(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20070801)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120425)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140324)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20151107)、三年間、暑さと慣れないイスラーム環境の下で政府プログラムに誠実に従事してきたというのに、任期が終了して帰国すると、母校では「もう、この人には将来ないね」とつれないことを言われ、大学時代のクラスメートにも「人生終わっているわ」と言われた私だった(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20160905)。
苦労して集めて二十箱ぐらいダンボールに詰めて送ったマレー語新聞(当時は、名古屋大学の図書館にも入っていなかった)なども、実家では臭くて困るので、捨てるように言われていた。
挙句の果てには、「これではまともな結婚もできない」どころか、「妹や弟の縁談にも差し障りがあるから、頭を低くして、ご近所にも目立たないように振る舞え」とさえ言われていた。「できれば、帰って来て欲しくない。ずっと海外で暮らしていることにして欲しい。家から出て行って欲しい」とも。理想通りに育たなかったから「養育費を返納せよ」と、電話代も別にして、毎月、数万円ずつ取り上げられている状態だった。しかも、少しずつ額が上っていくので、将来設計どころではなかった。
だから、学会で研究発表をして認めていただかなければならない大切な時期に、土台が周囲によって崩されていくような心理状態だったのだ。自分が働いて得た給与さえ、徐々に取り上げられていくとなれば、もう、心身ともに八方塞がりだった。
そのような環境下で、追い詰められ、切羽詰まった気持ちで、世間一般にもう一度受け入れていただくために、茶道の基礎ぐらいは身に付けねば、と必死だった。

新版 裏千家茶道のおしえ千宗室日本放送出版協会1984

これはよく売れたようで、平成七年に31刷まで発行されている。1995年6月に名古屋の近鉄ビルで購入した。中に挟んであった七事式に関する一連の切り抜きは、その一年半後、名古屋のお稽古でご一緒だったご年配の女性からいただいたものだった。

新独習シリーズ 裏千家茶の湯』鈴木宗保・宗幹(主婦の友社)1971年

これまたよく売れたようで、平成九年に76刷まで発行されている。1997年5月末頃に、名古屋の三省堂で購入した。書き込みやラインがたくさん入っていて、我ながら驚いた。

禅語の茶掛 一行物』芳賀幸四郎淡交社)昭和48年初版

これは、京都市中京区の河原町三条の古本屋さんで、1998年2月上旬に購入した。これも書き込みをしてあったが、自分ではすっかり忘れていた。
それに、二十年前の平成8年12月1日には、何と熱田神宮で催された「毎日慈善茶会」の記録まで挟んである。全く記憶がないのは、一体どうしたことであろうか。
そもそも、帰国後に早速、お茶を習おうと思ったきっかけは、マレーシアでは各民族の伝統が生き生きと根付いていて、マレーのシラットも堂々たるもので見事だったし、ジョゲットと呼ばれるマレー舞踊も素朴だが優雅だったし、華人旧正月には活発に獅子舞が踊っていたし、ヒンドゥ舞踊も器用で素早い動きで、何とも感じ入っていたからだった。先住民族の習俗はあまり知らないが、とにかく、各種族が自文化を誇り高く表出していたのには、刺激された。かと言って、日本舞踊を習うには遅過ぎたし、応用が効かないと考えたのである。
ここで、上述のマレーシア業務に関する母校(の一部の先生方)や実家の冷酷な扱いについて、少し考えてみたい。
これは今でも解けない謎である。だが、常に現状に甘んじず、地道で堅実な暮らしを続けつつ、ますます勉強に集中しなければならないと気を引き締めるよすがであり、文字通り身の置き場もなかった私と結婚してくれて、ここまで暮らしを支えてくれた主人と主人の実家や親戚の方々への感謝の基であり、難病持ちながらも勤務を続けさせてくださっている主人の職場の上司および同僚の方々への、尽きせぬ思いの源泉でもある。
「そんな理不尽なことには、考えてみても答えはない」と言うなかれ。考えられないことを考えるところに、意味があるというものではなかろうか。
もっとも、国民の税金で設立された大学で自分が教育した学生であり、自分が生んだ子どもであるが、自分の思い通りの歩みをしていないから放り投げてもよろしい、という考えこそが問題である。
そもそもなぜ、そのような価値観が平然としていたか、と言えば、敗戦の結果としての社会秩序の崩壊と混乱が底流で続いていたためであろう。ご年配の方には、自由奔放に生きているかのように見える若者に対する不満があり、家庭においては、無責任で歪んだ思想がメディアと教育を通して植え付けられた戸惑いがあった。恐らくは日本のどの層においても、多かれ少なかれ観察されたのではないだろうか、と思われる。
海外暮らしと言っても途上国での生活は、今は知らないが、1990年代前半はまだ、大変にきついものであった。インターネットがなかったので、とにかく現地の生活を精神的にも体力的にも業務上も、真っ当に過ごすことが第一で、それには異文化適応能力(言語、健康、常識、知力、機転、人間関係などの総合力)が必須であるのみならず、日本の情報にも遅れずについていく必要性があり、いわば二重生活を強いられたと言っても過言ではない。
私の場合は、日経新聞朝日新聞の国際版を購読していた知り合いの日本人ご夫妻から、毎週、読み終わった分を紙袋に入れて譲っていただき、毎日のマレーシアの新聞二種以上(英語とマレー語)と合わせて、一生懸命に読んでいた。
それにも関わらず、帰国後は「この言葉、わかる?」などと、幼稚園みたいな扱いをされたこともあった。
今から考えると、本当に無責任でもあるが、一歩間違えたら、私など闇に葬られていた可能性もある。
どうしてこうなのか。
最も重要な点として、日本のマレーシア観が非常に身勝手なものであったし、今もそうである、と言えるのではないだろうか。マラヤ軍政期の資料も、2000年前後には、東京の国会図書館を始めとして、神戸や京都や奈良や大阪の大学図書館や公立図書館などで、相当見て回ったが、英領マラヤの資料に比して、非常に偏りがあり、貧弱であったことは確かである。
但し、もしも私が最初からシンガポール派遣だったら、多少は対応が異なっていた可能性は高い。現に、母校のある先生方は、明らかに態度が違っていた。「あ、シンガポールじゃなかった?マレーシアか。では、この辺で」と目の前で切られてしまったことは、今でも鮮明に覚えている。
私の希望だったのではないですよ!ルック・イースト政策は、日本政府が打ち出したのではなく、マレーシアのマハティール首相の提唱によるものだったのですよ!
税金の派遣によって現場で汗水垂らしてきた者が、美智子皇后陛下からも直接、おみ足を留めていただき、「あなたも日本から?」とお励ましの声まで掛けていただいたというのに(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20091112)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120311)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20131223)、人を人とも思わず、全体の成り立ちを考える余裕さえない層が、そんなことをなぜ平気でできたのだろうか。
これは、あらゆる角度からの真に学問的なマレーシア研究を真面目にして来なかったからこそ、でもある。最近は知らないが、私が見ていたテレビ番組のマレーシアと言えば、政治経済面以外は、田舎の庶民的な人々の素朴な暮らしを映し出すものが多かったので、それしか知らないのに世間を知ったつもりの私の周囲は、当然のことながら、そういう庶民と一緒になって私がのんびりと過ごしてきたと思っていたに違いない。
「この人、もう人生終わりだね」と高笑い気味に言った人は、私の母校の高校教諭になったが、どんな先生になったことであろうか。
今、マレーシアも大いに関係のあるイスラーム主義の諸問題が、日本を含めた世界中で跋扈しているというのに、「人生終わり」と二十代半ばで早々と決めつけた人達は、一体全体、どのようにご自身の発言と行動の責任を取るつもりなのだろうか。