ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

ペン倶楽部とカーネギーホール

というわけで、昨日の続き(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140508)を少しと、ちょうど一ヶ月前の今日、何をしたかを記す。

1.2014年4月7日

それほどアメリカについて知っているわけでも、長らく深い興味があったわけでもなかったはずなのに、勇敢なことに、初めて単身で乗り込んだニューヨーク市。二つのご招待の(別々の)会場および夜の演奏会に合わせて、ホテルも近場を予約してくれたのが主人だった。この点、いい時期に東海岸に住み込んで勉強し、働いていた経験が物を言う(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20110422)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120123)。何かと本当に助かった。いくらお隣が空いていた機内で横になって睡眠を取るようにしていたとはいえ、やはり半日以上も飛行機に乗っているというのは、相当に肌が荒れるし、気をつけていても時差ぼけは解消しきれないし、水も食事の味覚も変わるし、従って頭も神経もぼうっとしたままで、それは会合およびクラシックの演奏会向きではないからだ。
観光旅行者ならば、多少疲れていても、精力的に計画通りに市内を見て回るのだろうが、私の場合は、必ずしも観光旅行ではない。一応は公式の訪問客および文献調査目的の研究者なのだ。だから、昨日も書いたように、予定をぎっしり詰め込んで忙しくバタバタと人に会ったり物を見て過ごすのではなく、あくまで自分なりの人生経験を深め、味わい、今後につなげて発展させていく契機としたかった。
それ故に、三泊したホテルは、昨今の日本と比べれば、古びていささか不便だったものの、一応は伝統ゆかしく、地元のアメリカ人から尋ねられても、中流階級の日本人として恥ずかしくない(が、成金お上りさんと軽蔑されない)程度の格式を維持している所を、主人に選んでもらった。全て納得済みで、予め私に助言してくれていたが、やはり中に入ってみると、部屋の広さは十分過ぎるものの、全体として暗く、浴室の装備も今ひとつ、食事も疲れて遠慮したいほど。なので、到着初日の4月7日は、とにかくひたすら寝て、体力温存と感覚の立て直しに努め、(とはいえ、ぐっすり休んで一度目が覚めた時には、一瞬、寝過ごして、約束の4月8日が既に夜になってしまったたかと錯覚したほどだった!)英語がきちんと聞き取れるかどうかを確認するために、夜中にはC-SPANやFOXニュース番組をテレビでしばらく流していた。
何と驚いたことに、チャック・シューマー氏がC-SPANに出演され、アメリカの安全保障および治安問題がどうあるべきかをコメントされていた。このシューマー氏、実は翌日お目にかかることになっている招待主と、学生時代には熱く討論した間柄だったのだ(http://www.danielpipes.org/blog/12683)。本当に、日本での自分の身分や経歴や普段の地味な暮らしを考えると、明日会う方がテレビ画面に登場されているシューマー氏と、その昔、昵懇の討論仲間だったなんて、信じられないような思いだった。しかし、ここまでトントン拍子に話が進んで、確かにご招待を受け、自分がアメリカ本土に足を踏み入れたことについて、我ながら勇敢さに呆れ返ってしまった以上に、普段は全く見ないアメリカのテレビ番組で話されている内容に充分ついていけたことにも、自分が自分でないような不思議さを覚えた。
それに加えて、FOXニュース番組では、明日会う方が過去に何度も出演され、‘Sean Hannity's Show’の放送で直接対話していた人気キャスターが一生懸命に喋っていた(http://www.danielpipes.org/spoken/?&order=publication&order_type=SORT_ASC&nogroup=TRUE)。映像よりは確かに年齢を感じさせる風貌になっていたが、あのままずっとこの番組を続けて来られたのだと思うと、感慨深かった。日本で見ているのと、アメリカ本土、特にニューヨーク市に自分が身を置いて画面を見るのとでは、やはり印象が異なる。
アメリカの英語は、下手に日本で英語通ぶっている人の解説などに依存しない方がいいと思う。私は今でも、英国英語の方が本式だと思っているし、ご招待の主との二年以上に及ぶメール文通でも、英国式綴りを遠慮会釈なしに平気で踏襲しているが、フランス語がおできになるから、その方がいいと思ってのことである。ともかく聞き取りは、高校で繰り返した大学受験用の訓練と、17歳から自主的に始めた東後勝明先生のラジオ英語会話(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20071017)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20080402)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20091207)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20111009)および18歳から始めたNHKテレビ英語会話Ⅱなるものが基礎中の基礎(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120314)。当時のその関連番組はともかく(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20071017)、それ以上の昨今の余計なことは、私には不要だ。
そんなことをしている暇があったら、大学入学後から同時並行していたドイツ語や(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20070730)、その翌年から始めたスペイン語の学習を広げた方が余程ためになると思ったし、その他にも6年間かじった韓国・朝鮮語http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20070715)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20091027)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20091105)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20101013)、そして業務上やむを得ず体で学んだ(と言っても、生活の中で肌感覚で覚えたという意味)マレー語、必要に迫られてのアラビア語少し、ようやく数年前にやる気になったフランス語と(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20101013)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20101114)、先月から申し込んだヘブライ語通信講座の方がずっと重要だ。
英語と言っても、結局は自分と思考レベルおよび興味関心が合致し、相互に理解するに十分な共通素養を保持していることが前提なのであって、後は日常の用を滞りなく済ませるに必要な会話ができればいいだけなのだ(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20070821)。アメリカに来てみて全く言葉に困らなかったのは、不思議といえば不思議だが、日本人の訪問客レベルとしてはまずまず、といった程度。もし、このまま労働移民として市民権を申請しつつ、住む場所を決めて働くことになるとすれば、あるいは、きちんとした大学で学位取得を目指して勉強するとなれば、話は全く別だ。従って、非母語話者としては、単に英語だけを勉強するのではなく、英語を通して表出される概念や背景や事情の理解を、日本語と英語の専門論文や書籍で吸収に努める過程こそが大切だと思う。
それ以上に少しおかしかったのが、東海岸に昨今進出しつつあるヒスパニック系の人のコード・スィッチングによるスペイン語が聞き取れてしまったことだった。私は、スペイン語検定試験を中級レベルまで独習で合格したが、この頃は忙しくて学習を中断していた。ところが、その程度であっても、突然英語から切り替わったスペイン語で、彼ら彼女達が何を話しているかがわかってしまったのだ。文脈に身を置くことの大切さと、日本の外国語学習の基礎を繰り返し重視するやり方は、それほど悪くはないのではないか、とも思ってしまった。それに、スペイン語がわかるというのは、単身女性としてアメリカに行く時の、身を守る手段でもある。騙されないようにするためだ。ヒスパニック系の人が、テキサスやフロリダではなく、東海岸スペイン語に切り替えて話すのには、当然のことながら意味があるだろう。ヒスパニック系同士の連帯感情の共有および、周囲に聞かれたくない話をするためだ。もちろん、振りの訪問客が英語でのやり取りに困っていた際、さっとスペイン語で応対していた場面にも遭遇した。
私は、アメリカでスペイン語を話そうとは思わない。話すならば、スペイン本土に限る。しかし、理解可能な言語が英語以外にもあることは、外国人なりにも心理的に余裕をもたらすのだと経験できた。

2.2014年4月8日:ペンシルヴェニア倶楽部(略称:ペン倶楽部)

当初、訪米計画が持ち上がった際には、実はこれは含まれていなかった。3月半ばも終わり頃になって、「ちょっと思いついたんだけど」と追加提案が先方からあったのだ。その頃、ご本人は欧州滞在中で、相変わらず忙しかったのだが、ちゃんと私との連絡は継続されていて、思い立ったが吉日とばかりに、トントン拍子に話が進んだ。
あまりのご厚意にびっくりしたが、これも伸るか反るかだと思い、信頼してお任せすることにした。結果的に、これがよかったのだろうと思う。また、私が日本で外での正規職を持っていなかったために、日程に融通が利く身分だということも幸いした。
民間シンクタンクの運営上、毎年二回(つまり半年に一度)、業務内容を報告し、実績や成果を列挙して、賛同者には寄付金を募っていることは二年以上前から知っていたが、その個別報告会と寄与者へのお礼も兼ねた昼食会を、この時期、ニューヨーク市で数日間行っているとのことだった。もちろん、遠距離の献金者に対しては、恐らくはご自分が出向いて同じような催しをされているのであろう。たまたま、当初の目的であった記念祝賀会と重なる時期と場所に、私が太平洋を越えて渡米してくるということで、せっかくだから、業務内容も少し見てもらおうと、寛大にもお誘いいただいたらしい。
もちろん、公的性格上、後日、別のスタッフから場所や時間のご連絡をいただいたのだが、由緒ある格調高い建物で、ウェブサイトで下見をしながら、主催者のセンスの良さに、思わずときめいてしまった。実はもうすぐ、母校の関西支部同窓会が、今年も大阪の由緒ある建物で開催される予定なのだが(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20130519)、そこを初めて訪れた時のときめき感に近い、懐古趣味のほんのり入り混じった初々しい気分だった。つまるところ、本来の古き良きアメリカらしい、高邁な理念をまっすぐに実践して社会を築き上げていった知性溢れる指導者達の面影を偲ぶ会館、といった趣なのだ。
逆に言えば、現在の社会風潮には軽薄かつ趣味の悪さが混淆することを意味する、とも言えよう。また、ネット上で瞥見の限りでは、どうやら普通の日本人はあまり足を踏み入れたことがない建物らしい。もっとも、通りを歩いているだけでは、思わず通り過ぎてしまいかねない景観ではある。
さて、一時、寝過ごしたかと間違えたのだが、とにかく、ここへは遅れないよう、粗相のないよう、何事も第一印象が大切、とかなり張り切って、緊張しつつ準備をした。まずはホテルに到着直後に、フロントへ電話をかけ、どの程度遠いのか、歩いて行けそうかどうかを確認した。「徒歩20分」と男性の声で返事があったが、それなら初の東洋人ニューヨーク紀行ならば、その二倍は見ておかなければならない、と覚悟し、ホテル前からタクシーに乗ることにした。(それとて、渋滞時間に引っかかってしまったので、気が気ではなかった。つい、マレーシアやシンガポールでのように「何分で到着します?」と尋ねてしまい、運転手さんをイライラさせてしまった。結局は、一方通行ということもあり、直前で下車して、少し歩くことになったが、帰り道は何のことはない、10分ほどで歩けてしまった距離だった。)
今、こうして一ヶ月前のことを思い起こしながら、キーボードを打っているが、まるで当日のことのように、胸が少し高鳴っている。いえ、面会そのもの以上に、とにかく遅刻だけはまかり成らぬ、とそれだけを緊張していたのだ。もし、実際に会ってみて失望したなり、落胆したなりしたなら、気分と予定を変更して、黙ってその場で黙々と食事に専念し、挨拶だけしてお暇すればよいだけのことだ。その後は、用意してあったニューヨーク市内観光に切り替えれば良い。年の功というより、面の皮が厚くなったとは、この度胸でもある。が、今思い返してみて杞憂も杞憂、そこまで覚悟していた自分に、我ながら驚いてもいる。
どういう方達が集まるのか皆目見当がつかなかったので、出発一ヶ月前に、学会発表で一度着ただけの、春用のベージュ系スーツを着ることにし、疲れて撥ねがちな髪の毛をまとめるために、本当に十数年ぶりに、前の晩からカーラーを巻いて備えをした。実は、主催者側に「アメリカでは服装規定が厳しいと、東海岸で勤務していた主人が申しておりますが、会合では、避けるべき色づかいや気をつけるべき留意点など、何かありますでしょうか」とメールでお尋ねしておいたほどである。
ともかく、メールなら自宅から送受信可能で、服装など何でもよいのだが、面会となれば、二十代の頃から、国内外の著名なテレビ番組にも多数出演されている方がお相手である。親子でレーガン政権にお仕えし、いくら日本では評判がいささか芳しくなかったとはいえ、11年前には、ジョージ・W・ブッシュ大統領から直々に役職に指名されたのみならず(http://www.danielpipes.org/10989/)(http://www.danielpipes.org/13002/)、その後には、全く別件で一緒に並んでいる写真もお持ちの方だ(http://www.danielpipes.org/blog/10990)。あさってから公式訪問で来日されるネタニヤフ首相とも、シリアのゴラン高原を巡る情報の取り扱いの件で、過去に一時間ほど、さしで向かい合い、激しい口論となり、ネタニヤフ氏からのきつい叱責を経験されたほどの方だ(http://www.danielpipes.org/311/the-road-to-damascus-what-netanyahu-almost-gave-away)(http://www.danielpipes.org/13801/)。身分差から来るプロトコールの厳しさというより、人生の経験幅から、自然に足下を見られてしまうのではないか、といささか不安だった。
学会や大学講演やクラシック演奏会など、フォーマルな催しには比較的慣れているつもりの私。前々からメールで、「一介の平凡な日本の市民に過ぎません」と繰り返し自己紹介してはいたものの、それでも日米の相違は侮れない。化粧そのものは、普段よりは念入りにしたが、そもそも、フェイスブックで見かけた二人のお嬢さん方や前の奥様の雰囲気から、むしろ凝り過ぎず、自然な方がよいだろうとは思った。普段はごく普通だが、著述家および美術家として公開しているお嬢さん二人の改まったカバー写真などは、いずれも相当に美人で健康なお色気が漂っている。カメオ出演のエキストラ映画女優としても、充分に通用しそうだ。翻って私など所詮、まだまだ優勢な西洋社会の中では、東洋人として目立つのはやむを得ない。オリアナ・ファラチさんのように(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20130122)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20130208)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20130308)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20130319)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20130331)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20130403)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140220)、一人で健気に大胆に頑張っている、チャーミングで繊細な知的美人が好みだろうとは察していたが、私の場合、あくまで黒子に徹すべき東洋の訳者なのだ。美人不美人は、この際、不問ないしは不当だ、と勝手に決めて度胸をつけた。
約30分前には無事到着。一階の入り口近くで、この渡米に備えて数日間吟味した挙げ句、ギリギリ気に入ったものが見つかって新調した春用のトレンチ・コートを脱ぎ、札をいただいた。スーツと色合いが似ていて、我ながら気に入っている。
二階に上がって、しばらく待つ。一緒にエレベーターを上がってきたがっちりした体格の、いかにも羽振りの良さそうな実業家タイプらしき紳士と、口を利くこともなく共に待つこととなった。部屋の外の広間には、風雅な写真が一面壁に並べて貼ってあり、皆、ノーベル賞受賞者などの錚々たる人々だった。ペンシルヴェニア出身の各種知的リーダー達の、社会と国と世界への貢献度が、静かな誇りを秘めて伝わってくるようだった。何と場違いな、と後さずりしたくもなったが、ここまで来て引き返すわけにもいかない。私が来たいと申し出たのではなく、あくまでご招待をお受けする身なのだ、ここで引き下がったら、かえって失礼だ。
それに、今後も訳業を続けるとしたら、ただ間接的にネット上だけでつながっていないで、もっと良質の訳文を作り上げるためにも、ご本人の人となりに触れ、支援者の顔ぶれもわきまえておいた方が、何かとトラブル回避につながるだろう、との思いもあった。とにかく本質は、著名人を追っかけるファンクラブではないのだ。ユダヤ系だから、裕福な人々が多く支援しているだろうが、私の役目は、あくまで日本語圏での読者層を増やすべく、正確に状況をつかみ、適切な日本語で表現する作業を地味にコツコツと続けていくことに過ぎない。そこに一体全体、社会階層そのものが介入するのだろうか?
アメリカの平均収入は、公表情報に限れば、日本の我々の年収に比べて一段低い。一部が突出して超裕福なのがアメリカだとすれば、日本は地ならし気味社会なのだ。それは私の責任ではない。それでよしとすべきだ。学歴は、主催者より低いのは当たり前だが、そうはいっても、主人だってMITで勉強させていただいていた。「自分は一流ではないけど、一流の人達の仕事ぶりを近くで拝見する機会に恵まれてきた」というのが、かつて元気だった頃の、主人の常套句だった。とすれば、私だって何の恐れがあろうか?「私は平凡な日本女性に過ぎませんが、一流の方の仕事ぶりを拝見し、少しでもよい感化を受けたくてここに参りました」と言えばいいだけのことだ。
...とまぁ、一ヶ月経った今振り返ると、あれこれ余計なことをゴチャゴチャ考えていたものだが、とにかく、この高揚感は一種独特のものだった。大胆不敵かつ繊細で神経質、創意工夫の革新志向かつ古典的な伝統重視の保守系、という相反する要素が内部で共存しているのが私の特徴らしいが、それはご招待主だって、実は類似の持ち合わせ。恐らくは、お互いにそこに気づいているからこそ、電子文字で交流を重ねながら、暗黙に感情を探り合ってきたのだろうとも思う。国が違えばこその特権でもある。お互いに違いが客観的に明らかだからこそ、一致すべき点が貴重に思われるのだ。もし同国人だったら、何ら突出した意味合いがないことだろう。
(この日の続きは、また後日に)

3.2014年4月9日:カーネギーホール

これはもう、幸運だったとしか言いようがない。恐らくもうアメリカには行けない(だろう)のに、急遽、渡米が決まった「ユーリまで一緒に人生しょぼくれることはないさ」と、カシャカシャとパソコンを操作していた主人が偶然に見つけたのだった。初めての割には、なかなかよい席のチケットを格安で。3月のことである。
何がラッキーだったかって、それはもう、内田光子さんのピアノ・リサイタルだったからだ。日本での演奏会はまだ行ったことがない。演奏会場とチケット料金が(当時の)私に合致するに至っていなかっただけのことなのだが、そうはいっても、インタビューは日本の月刊音楽雑誌で目を通していたし、英語やドイツ語のインタビュー映像もおもしろくて、時々楽しんでいた(http://pub.ne.jp/itunalily/?search=20519&mode_find=word&keyword=uchida)。NHKの音楽番組にシューベルトの歌曲のピアノ伴奏などで出演された時も見ていたし、何より、図書館で借りたCDやFM-NHKラジオ番組で、演奏ぶりを堪能していたのだった。
音楽学校に通っていた子ども時代からお名前を存じ上げてはいたが、内田光子さんと言えば、何を差し置いても日本外交官のご令嬢で、ウィーン育ちの、何というのか雲の上の人という印象だった。だから、そんなに演奏を聞きたいならば、遠くからこっそりと、壁に隠れるようにして聞かなければ失礼だと思い込むほどだった。
確かに、高校生の頃までは、内田光子さんのピアノ演奏は難しいと感じていた。何が何といっても解釈が哲学的で、一般受けする中村紘子さんのような華やかさや通俗的な舞台裏話など(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20070908)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20071005)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20080209)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20080525)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20080526)、微塵も出てこなかったという記憶がある。舞台衣装もドレッシーというよりは、あくまで細身のご自分が納得のいくスタイルを貫くポリシーがはっきりしていて、大衆好みの悪癖に(抵抗しつつも)毒されていた私には、よくわからなかったのだ。
しかしながら、待てば海路の日和あり。ただ音の流れとして聴くのではなく、または、メロディーの美しさに感動するという次元ではなく、同じ作曲家や曲目でも、さまざまな演奏家の解釈やスタイルに、ある程度自分なりになじんだ後、再び内田光子さんに戻ると、その際だった思想と解釈の深さが前方に屹立しているのだ。このような経験を自覚するには、物理的な時間の経過および自己の人生深化が必要なのかもしれない。
実はこの日は、前日のペン倶楽部での経験が自分にとっては夢のようなどっしりした内的深みへの経緯を通過する時に相当していたためか、朝から午後にかけて、どうしても起きられなかった。一つの目的を無事達成して、緊張がほどけて安心した途端、本格的に時差ぼけが発生したからでもあろう。目は覚めるのだが、持参したインスタントの味噌汁を部屋で用意したお湯で作り、咄嗟の判断で機内食から取り分けて鞄に入れておいたお箸で食べると、すぐに眠くなってしまう。とても外で食事する気にはなれなかった。まだ3月初旬の関西の気候に近く、寒かったこともある。
だから、自宅の台所で普段使っているタイマーを何度もセットし直して、一時間とか三十分とか区切って、休んでは起きて荷物の整理をしたり、覚え書きを作ったりして過ごし、間にシャワーを挟んでまた寝ることを繰り返していた。聖書博物館やアメリカ聖書協会に行ったり、研究関連の論文で読んでいた地名などを辿ってもみたかったが、(これほど眠いならば無理することもない、集中すべき本番は演奏会だ)と、まるで自分が出演者にでもなった気分で言い聞かせた。
さて、曲目はシューベルトとベートーベン(http://pub.ne.jp/itunalily/?search=20519&mode_find=word&keyword=Schubert+%26+Beethoven)。まさに初めて生演奏を聴く内田光子さんにぴったりだ。
開始時間の一時間前に、ようやく重い体を起こして、化粧をし、前日と同じスーツに着替え、結婚前に東海岸への出張の際、ニューヨークで主人が購入してプレゼントしてくれたコーチのバッグ(これまでほとんど全く出番がなかった)を肩にかけ、一応は見苦しくないか薄暗い部屋の鏡でチェックして、外に出た。初めてのニューヨークの夕方だ。通りを行き交う人々は早足だと、昔から何度も読んでいたが、私にとってはそうでもない。東京の方が早いし、よろず忙しなく感じている。そこはさすがに日本国出身者の強みだ。堂々と歩けてしまった。
まるで京都市内のように、碁盤の目にきっちりと区画化されているニューヨーク市内ではあるが、方向を間違えたらとんでもないことになる。というわけで、場所は確かに目抜き通りなのだろうが、ホテルのフロントおよびビルの制服組に道を尋ね、用心に用心を重ねてホールに辿り着いた。と言っても、実は五分とかからなかったのだ。ここでも主人に感謝。
とはいえ、どうやら入ったのは裏口だったらしい。いつもマレーシアのリサーチ滞在ノートでしているように(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20091028)、今回の東海岸滞在も、間違いのないよう、必要なメールやチケット予約の一切合切をプリントアウトしてB5のノートに順次貼り付けておいた。だが、カーネギーホールの予約E-チケットも、まさかコーチのポシェットに入らないノートを持ち歩くわけにはいかず、その部分ページを静かに切り取って、持参した。それを裏口にいた(あれは何系なのだろう?肌の色は相当に白かった。ギリシャ系だろうか、東欧系だろうか?)おじさんに見せると、懐中電灯風のペン先で簡単にチェックした途端、日本人の私が日本人演奏家を聞きに来たということで、にこにこ顔で愛想良く通してくれた。
内田光子さんは長らく英国在住で、今では称号を授与された英国籍らしいのだが、そうは言っても日本出身者でいらっしゃることは変わりなく、エスニック上は彼我の共有要素がはっきりしている。そこだけを強みに、私は果敢に初のカーネギーホールに出かけて行ったのだった。
果たしてホールには、少し日本人が含まれていたが、大抵が白人の中上層らしい聴衆がほとんどびっしりと席を埋めたのを確認することとなった。その中で、明らかに東洋風の私が一人、落ち着き払って座っていられたのも、何も借金を重ねてここに赴いたわけでもなく、わかりもしない、聞いたこともないクラシック音楽を背伸びして聞くわけでもない、という内的実績から来るものだった。と書くと何やら大袈裟ではあるが、出発前のSTAP細胞事件の情けなさやら(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140315)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140331)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140403)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140404)、さまざまな社会の劣化を思うと、それぐらいの傍流背景も自覚する必要性を、密かに感じていたのだった。
私の学生時代には、まだ「洋行」という語が、古めかしくも何とか理解されていた時期だった。格安航空機の時代になった今では、通じない語彙かもしれないが、だからこそ、通じない客層と安易に同一化したくはない。つまり、海外に出ることが何ら珍しくもない時代であっても、「洋行」時代の初々しさと慎ましさは、心持ちとして保持していたいと願う。いくら見かけ上、時代が進んでも、東洋人としての自分の本質は、DNAを通して揺るぎがないからなのだ。その世界秩序というのか、人類の分類基準には、やはり抵抗することなくおとなしく従いたい。その方が、恐らくは保守系の西洋世界ではかえって、好感を持って迎えられるという気がしている。
この続きは、また後ほど。