ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

ちょうど一ヶ月前には....(1)

おととい、昨日と、一ヶ月前のニューヨーク訪問について書き始めた(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140508)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140509)。
4月7日から9日までの三日間については、まだまだ書き足らぬ点が多く、もちろん、今後も残りを続ける予定である。だが、実のところ今回の渡米目的の本命は、一ヶ月前のまさに今日の記念会合だった。従って、日付に合わせて話の順序を少しずらす。
もうしばらくしたら、恐らくテレビ中継の録画が公開されることになっているので、詳細はそちらをご覧いただきたい。(ただし、現場にいた感覚からすれば、確かにテレビカメラが入っていたが、録音状態があまりよくなかった模様。途中、とんでもないところで「キーン」という不調整のマイク音が高鳴ってしまったのだ。こういう点、さすがの超大国たるアメリカでさえ、まだ大らかというのか、準備不足というのか、素人っぽさが残っているというのか...。会合の性格上、撮り直しが利かないが、編集作業が加わるのかもしれない。また、いつ公表されるのかは、受付係を務めていた二番目のお嬢さんも「わからないわ」との由。責任者各人の署名を記した数枚の書類が、いかにも無造作に受付のテーブルに置かれていたのを、私は確かにこの目で見たのだが...。その番組そのものは、何度か私もインターネット上で拝見したことがあり、少なくともニューイングランドに住むアメリカのユダヤ共同体の間では、ちょっとした有名な放送である。)
この会合には、スペインの元首相が、外相を含めたSPらしきお供を数名引き連れて、スペインの風格と威厳を重々しく漲らせて参列された。「イスラエルなしには西洋はあり得ない」と題する英語でのスピーチの後、主催者と即興対談もされた。「イスラエルの友イニシアティブ」(Friends of Israel Initiative)を主宰されている元首相は、フランコ政権下で活躍したジャーナリストの家系、主催者のお父様はロシア共産主義の大家(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120124)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120131)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120505)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120507)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120521)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20121007)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20130105)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20130117)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20130203)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20130625)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20130630)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20130712)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20131017)と、相互の係累のご専門が共感を呼んだ結びつきらしい。このアスナール元首相の奥様は、現在マドリード市長を務めていらっしゃるそうだ。マドリードで思い出すのは、トレドと共に、1999年8月に主人と訪れた時のこと。季節外れの冷たい風が通り抜ける街路を夕暮れに歩くと、あちらこちらの店頭で目に付くぶら下がったハム。また、プラド美術館の壮大な絵画の陳列も忘れ難い(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20071124)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20071221)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20080202)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20080712)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20090728)。それに、広々としたアトーチャ駅を確かに思いを込めて歩いたのだが、2004年3月11日(!)に、思いが的中してそこがテロの標的になったとは、返す返すも人知を越えた意味を感じる。
ともかく、幼稚園で触れたカトリック文化もさることながら(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20071031)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20071116)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20080127)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20080903)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20090116)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20090223)、それと併行して、イスラミック・スペイン(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20080416)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20090112)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20090704)あるいはムスリム・スペイン(http://www.danielpipes.org/13794/)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily2/20131205)ならぬアル・アンダルシーアに並々ならぬ関心を寄せてきた。19歳の時からのスペイン語自学自習者としては、一度は生でお目にかかれる機会があればと願っていたのだ。専門との絡みでは、マレー語を学ぶと必然的に知ることになるアラビア語彙は、実はスペイン語にもかなり借用語として溶け込んでいる。
そしてスペインと言えば何より、私にとっては絵画と音楽。小学校低学年の時から、子ども向けの本で画家ムリリオ(ムリーリョ)の伝記に感動したり、音楽でもサラサーテやファリャの情熱的な曲に魅了されていた。また、同じ頃、日本人ギタリストの荘村清志氏の演奏にもテレビで触れており、表現の違いを超えた共感経験を自然と経ることとなった。三十路前後には、イタリア系だとばかり思っていたスカルラッティピアノ曲を学ぶことになって、あの透明な明るさの底に横たわるペーソスをしみじみ感じた次第である(http://pub.ne.jp/itunalily/?search=20519&mode_find=word&keyword=Scarlatti+)。(ユーリ後注:久しぶりに楽譜を本棚から取り出したところ、「1996年6月13日 (名古屋の)伏見ヤマハ店 2074円」で購入、と記入あり。)
とにもかくにも私の場合、いつでも何でもそうだが、著名人にすり寄る意図は全くなく、あくまで昔から継続している文化的側面からの理解に努めたい一心なのだ。むしろ、その方が、主催者にとっても気楽なのではないだろうか。どうしても、政治に関与すると、当初の意図はともかくとして、汚い人間模様に巻き込まれかねない。
その点も、4月8日の昼食会の後に、二人きりで会場外のエレベーター前の椅子に座って一時間以上もお喋りをした際、しっかりと尋ねてみた。「元はベルベル人遊牧民族の研究をしたかったはずなのに(http://www.danielpipes.org/11525/)、なぜ、文化人類学や純粋な歴史学ではなく、これほど政治に没頭されているのですか?」「政治は汚くありませんか?」
こんなストレートな問いかけは、私のような素人の日本人だからこそ、怖がらずにできたことかもしれない。しかも、米国の同盟国日本だ。現在の安倍政権の動向には、各方面から、いささか問題や懸念が噂されているところもあるとはいえ、一応の方向性としては、アメリカ保守派のシンクタンクのバックアップ(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20131026)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140326)に全面同意している私だ。また、しばらく前のメールでも質問を投げかけてもいた。「イスラームをご職業として専攻されたことと、熱心なシオニストとしてのイスラエル支援との間には、何らかの関連性があるのですか?」
それに対する応答は、「何もない」。「サハラ砂漠に魅せられて、遊牧民族の研究をしたかったというのが当初の動機だ。彼らの宗教はイスラームだからね」。
その下敷きというのか前提あってこその、直接の問いかけなのだ。
政治は重要だ」と、まずは一言。「Ph.D.が終わったところで、1979年にイラン革命が発生したから、政治に関与するようになった」。「それは知っています」と口答えした私に、「それにしても、あんたってば、よくいろいろと覚えているんだね」とにっこり。
こういうやり取りがあればこそ、スペイン内外で様々な憶測が飛び交うアスナール元首相の談話も、直接にお聞きしたいという私の動機に、何ら混じり物はなかったのだ。一介の市民というのは、そこでこそ強みを発揮する。日本国内での、知ったかのような「右翼」説明など、あまりピンと来ないのだ。そもそも、スペイン語学習の動機は、第二外国語のドイツ語がゲルマン系であるため、ロマンス系の言語を一つは学んでおきたかったという言語学上の理由に加え、かつては無敵艦隊を誇っていたあの国の知識階層の動向を、まっすぐに理解したかったからだ。そのための基盤として、音楽と文学を素地とする。従って、このところ賑やかにはびこっている日本国内での楽しいスペイン語会話など、へったくれもないどころか、邪魔でしかない。ほとんど役に立たないのだ。
さて、話の時間軸を戻すと、実はこの4月10日の会合には二段階があって、私的懇話の時間と、アスナール元首相のスピーチ談話、そして過去にAIPACの重職を情報管理の問題とやらで排斥されたらしく、主催者の組織が引き受けることになったスティーブン・ローゼン氏(http://www.danielpipes.org/11595/)(http://www.danielpipes.org/11785/)(http://www.danielpipes.org/12681/)(http://www.danielpipes.org/14015/)(http://www.danielpipes.org/14028/)(http://www.danielpipes.org/14075/)の講話の二本立てだった。そのことは、数ヶ月前に送られてきたメーリングリストで知っていたのだが、昼食付きのスピーチはともかく、私的懇話の場合、相当の裕福な紳士淑女が集い、私など別仕立ての新調のスーツを着込んだとしても壁の花にもならないのではないかと、密かに心配はしていた。ところが、実際には、上記の次女たるお嬢さんが受付から元気よく声をかけてくださり、少なくとも彼女とお喋りに花を咲かせることで、間が持ったことは確かだった。(恐らくは背後の細やかな配慮だったのだろうと、今になって思うことである。)
というよりも、実はiPhoneにつなげておいたはずの受信メールによれば、「当日は終了後、夕方までたっぷり時間が取れるはずだったんだけど、結局のところ、限られた時間しかなくなってしまった。その代わり、開始時間の11時より一時間前に会場に行くから、もし来てくれたら、その時話そう」とメッセージが残っていた。ただし、その受信メールが末尾まで読めなかったことと、たとえ読めたとしても返信ができなかったので、申し訳ないことだった。そのメールに気づいたのは、出かける直前の三十分前。会場はニューヨーク市の婦人共和党倶楽部。
この共和党倶楽部にしてからが、非常に風格のある重厚な建物なのだ。本当は、事前にインターネットで調べておいたように、さまざまな由緒あるお部屋を見て回りたかったのだが、そんな時間も精神的余裕もなかった。ホテルからは歩いて行ける距離だったのだが、歴代共和党大統領の奥様達が名を連ねていらっしゃるところでもあり、本当に平々凡々のコネなし一日本人にとっては、一生に一度あるかないかの僥倖以外の何物でもなかった。
要するに、日米間の文化的距離は遠く太平洋を隔てていながら、ご厚意および両国の先達のご尽力によって、おそば近くにあらせていただいたのだ。ご招待とはいえ、本当にありがたいことである。
その私的懇話とは、献金額によって分類されたフォーマル式なのかと思いきや、実は、リキュールを混ぜた飲み物が振る舞われ得る、気軽な立食形式だった。「うちの父が、いつもあなたのことばかり話しているのよ」と、初対面なのにのっけから言い出した娘さんと話が弾んだのはよかったのだが、「あのね、ディテールを大事にする日本人の考え方に、とても印象づけられたわ」(一神教の神を信じていない日本人であっても、頻繁に「細部に神宿り給ふ」を引用している日本社会。だからこそ、訳文にも細かなミスに気づき次第、逐一訂正せざるを得ない、と言い訳した私のメール話が、どうやら伝わっていたらしい)「ね、ね、どこでご主人と出会ったのよぉ。ボストンで勉強していて、ニュージャージーで働いていたって?その間、マレーシアで政府の仕事をしていたのよね。じゃ、彼がマレーシアに来てくれたの?どこでどうやって知り会ったの?」と、年頃らしく興味津々の、彼女の剥き出しの好奇心にも苦笑しながら、(大変な家庭環境だったのに、はきはきして可愛い娘さんだなぁ)と感心していた。そこで、ちょっと隣の会場を覗き込んだところ、即座に目が合った招待者が、それまで話し込んでいた同じテーブルの紳士をそのままにして立ち上がり、にこやかに近づいて来られた。さすがは、当日のみの初対面ではなかったのがよかったらしい。突飛な思いつきの提案のようでいて、やはり細かい計算づくの二度目のご招待だったのだ。
「ごめんなさい。メールをいただいて読んではいましたけど、お返事ができませんでした」と謝ると、「いや、いいんだよ。それより、これ、あんたへの僕からの返礼。それと、こないだくれた日本のお土産、これ、あんたからうちの娘に渡してくれないかな?直接の方がいいんだ」と。手渡されたのは、紙袋に無造作に包まれたニューヨークのロゴ入りのペンとメモ帳。そして、娘さん用に京都の四条で買い求めたお茶道具を描いた木綿のハンカチセットが、再び私の手に戻ってきた。
ご夫妻には、深い意味を込めて、錦市場の老舗の扇子づくりのお店で買い求めた二組のお扇子を贈り物としたが、二番目の娘さんとなれば、大胆かつ激しい情熱のほとばしる絵画展をしばらく前に開いた芸術家。表向きはグラフィック・デザイナーということにはなっているが、趣味がいささか厳しいかもしれないとは心配していた。ただ、木綿のハンカチならば、嫌いなら手ふきにでも使ってもらえればいいし、最低限、部屋の中で物に埃がかぶらないようにする布としても利用できる。と考え直して、選んだものだった。彼女の二つ上のお姉さんと色違いで同じ枚数を選んだつもりだったが、実際にお父さんから手渡されたのは、一番下のまだ中学生だというお嬢さん用だった。その子には一枚減らして、デザインもやや単純なものにしたのだが、それが上のお姉さんに渡ってしまうとしたら、あらら、というところ。でも、それは私の責任ではない。
ともかく、よく躾されたアメリカ娘らしく、「わぁ!折り紙みたい!」と大袈裟に喜んでもらえた。(帰宅後、早速バンダナとして髪の毛を止めるのに使っていた、とお父さんからお礼メールが来た。本当に可愛い娘さんだ。)
もっとも、70名から75名が集った二十周年記念行事である。その前々日にもお会いした方達の中で二、三、同じ顔ぶれが揃ったが、煌びやかで気品あるシャンデリアのまぶしい、立派な会場であったにも関わらず、和やかな雰囲気だった。こう言っては何だが、日本で経験する学会や懇親会の、いかにも名刺を配り歩いて相手を値踏みしながら、心中を探り合いつつ相互に背伸びするかのような状況とは、全く違う様相だった。
お招きくださったお父さんならぬ主催者は、相当に慣れていらっしゃるのであろう、さすがは緊張などおくびもなく、遠来の珍客たる私が退屈したり孤立したりしないよう、さり気なく細やかな気配りが滲み出ていらした。次々に、私を紹介してくださるのだ。8日もそうだったように、特に理事関連など、今後も業務上の関係が深まりそうな方達には、「私の日本語翻訳者です。二年間で400本も出してくれました(注:実は、今日までにウェブ掲載された398本の邦訳(http://www.danielpipes.org/languages/25)のうち、2本は『中央公論』誌上の転載(http://www.danielpipes.org/11384/)(http://www.danielpipes.org/11399/)、4本は(恐らくは日系アメリカ人であろう)十年ほど前の訳者の仕事(http://www.danielpipes.org/2622/)(http://www.danielpipes.org/2623/)(http://www.danielpipes.org/2599/)(http://www.danielpipes.org/2677/)である。この辺りの詳細については、過去ブログ(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120528)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120531)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120604)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120804)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120922)を参照のこと)。時には、私の英語まで直してくれます。イスラームイスラーム主義の違いもわかっているし(http://www.danielpipes.org/12863/)、非常に物知り(knowledgeable)なんです」と、殊更に持ち上げてくださった。紹介された方は、仰天してドギマギしている私の心中をよそに、「ほう!」と、これまたアメリカ風に大袈裟に驚いて歓迎してくださる。この繰り返しだった。中には、同僚というのか仲間の執筆者も来られていて、私の方から「あ、メーリングリストで論考文を拝読しています」とご挨拶できる方もいた。と、ぴったり横に立っていらした主催者が「彼女は、我々の業務を本当によく理解しようとしているんだ」と、嬉しそうに付け加えてくださった。
一番驚いたのは、(こっちに来なさい)と軽く手招きされたスペイン外相だった。紹介は、英語で主催者が同じように繰り返されたのだが、じっと品定めされるかのように私を見つめられた外相に、思わず口ごもりつつ、形容詞を女性形に直して「初めまして」とスペイン語で二度言うのが精一杯だった。もちろん、スペイン語での自己紹介などは、過去二十数年以上、初級レベルで毎年二回ずつ出てくるので何ら問題はないのだが、あまりにも視線が鋭かったので、咄嗟の言葉が引っ込んでしまった。(だからこそ、上記で述べたように、「楽しいスペイン語会話」などは、何ら役に立たないどころか、有害でさえあるのだ。あれは、気楽な庶民階級に対する旅行会話程度である。突然降りかかる、れっきとした公式立場の方との面会には、まるで不向きだ。これがグローバル化の実体なのである。)それにも関わらず、主催者はさすがに百戦錬磨、あくまで平然とされていた。
その他にも、8日と同様、気さくそうな女性が近づいてきて、「あなたのスーツの色、きれいだわね」と声をかけてきたり、「今、東アジアは中国関連で緊張が走っているんでしょう?一度、台湾に行ってみたいんだけど、台湾周辺は治安はどうなんですか?」などと話しかけてくれたりした。誰も彼もお金の有無をこれ見よがしに匂わせることはなく、いかにも金歯と金の指輪がぎらついたような服装の成金男女さえ、全く存在しなかった。それは、主催者(と初期からの女性スタッフ一人)が苦労して立ち上げ、昼夜を問わず、私生活を犠牲にしつつ、身を粉にして二十年間、働き続けてきたことの証左および反映であろう。
気楽な立食形式で、おつまみと軽いリキュールでお喋りがてら喉を潤したところで、何となく丸テーブルが並んだ昼食会兼講演会の始まりとなった。私は一応「招待客」ということになっていて、別の受付係の女性が、「‘reserved’と紙が置いてある席ならどこでもいいから、好きに座ってくださいね」と耳打ちしてくださった。もちろん、自発的に日本風に、末席に座るのである。
お料理は、アメリカならこうだろうと思われるフルコース。前々日と同じくコーシェル配慮で、どなたも問題がなくいただけるメニューだった。
実は8日には、日本より一回りも大きなグラスに注がれた水を少し飲み、後は葉っぱに酸っぱいドレッシングがかかったサラダを突っつくだけで終わってしまったランチだった。(主催者は、一切食べ物を口にしないで、水だけ飲まれた。)というのは、寄付者の挨拶や活発な質疑応答を聞き取りながらメモを取るだけで、食事と両立させるだけの器用さおよび芸当を、私は持ち合わせていなかったからだ。これじゃまずい、かえって心配させるかも、と反省し、10日の記念行事には、精一杯いただくことに決めていた。
アメリカの料理は、英国同様にアングロサクソンが主流らしく、味や質はあまり期待できず、とにかく量だと言われる。よろずサイズが大きくて、あれを真面目に食べていたら、誰だって太るだろうと思われる。確かに、同じテーブルを見渡しても、皆さん、品よく適度に残していらした。また、ご招待をいただく前のメールのやり取りでも、今でも笑ってしまうのだが、「(英国の伝統的な)紳士クラブみたいなものですか?」と尋ねた私に対して、「実は、淑女クラブみたいなもんだよ。会場は婦人共和党倶楽部」とあったので、最初は冗談かと思い、「では、女性ファンクラブですね」と返答していたのだ。
どうやら本気かと間違えられたようで、そこはそこ、大真面目に「違うよ、僕のファンクラブではない。組織が扱ってきた諸問題について真剣に考える人々の集まりだよ」と。果たせるかな、集まった人々には女性もかなり多かったが、やはり大半は男性であって、立場も職種も、顔ぶれはさまざまだった。
私の左隣に遅れて座られた紳士は、どうやら大学の先生か著述業らしいインテリ学者風で、ずっと静かに話を聞いていらしたが、質疑応答の時になるとさっと挙手され、「我々はオバマ政権下で不満がある」とはっきりおっしゃった。その点、確かに共和党支持者の集まりなのだが、しかし、日本のジャーナリズムが殊更に書き立てるような雰囲気は、微塵も感じなかったのは、私が無知なせいであろうか。同じテーブルの男性陣は、なぜ主催者を金銭的に支援してきたか、という自発的な何となくの自己紹介の会話で、「彼のイスラーム理解は深いから」「中東分析が的確だから」などとおっしゃっていた。これこそが、アメリカのアメリカたる由縁であろう。シビアではあるが、ちゃんと公開して誠実に勤勉に働いていれば、それなりに認めて支持する人々が口コミなどで集まってきて、組織として運営が継続できるだけの軌道に乗せることができるのだ。
(この続きはまた後ほど。)