再びマレーシアの ‘Allah’ 問題
七草粥の日ですが(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20100107)、マレーシアではまた「神の名」(Allah)を巡る紛争が再燃しています。
おかげさまで毎年の恒例行事となったクリスマス例会からお正月過ぎまでのこの動向は、いい加減、飽き飽きしてきました(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20131019)。このブログでも細部やエピソードを綴っていますが、どうやら、本件を世界中で広まったインターネットニュースで初めて知った方達にとっては、皆さんがそれぞれご意見を述べていらっしゃる様子。インターネットもなく、マレーシア研究もインドネシア研究よりは少なかった頃、誰が誰なのか位置づけもよくわからないままに教会指導者達との緊張した面会を繰り返し、内部資料を見せていただいた1990年代からの私の研究発表など全く無視状態...。聖書翻訳理論も踏まえて、イギリス、アメリカ、シンガポール、オランダなどの専門家とも連絡を取り、資料や論文を相当数集めた上での研究発表のつもりだったのですが、ネット・ニュースでは現象そのものに対する感想が中心のように思われます。三十年以上続いている懸案なのですが、当初、関与していた一部の現地指導者層も、何人か亡くなったり引退されています。
発表を始めた頃は、「気がつかなかった」「たくさんやることがあってうらやましいです」「興味深いテーマですね」とさまざまな先生方からおっしゃっていただいたのですが(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20091230)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120924)、ご指導をお願いする段階となると「私の分野ではないので」と遠ざけられているうちに、ここまで歳を取ってしまったという不甲斐なさ。また、最初の頃、研究発表では現地資料を出すだけでも快挙という時代に意気込んで調べ始めてみたものの、実は話の筋があまりにも単純で拍子抜けしました。視野は広がったものの、随分、人生を浪費したという感触が抜けきれません(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20100625)。
昨春の学会発表では(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20130308)、「細かく調べてあって、それはそれで興味深いのだが、いつまでこの問題続くんですか?」という至極まっとうなコメントが神学部のある教授から出されて、「それがわかっていれば、私も苦労はしません。アメリカのイスラーム学者の先生にお尋ねしたところ、あと二、三十年はかかるだろう、とのお返事でした」と申し上げたところ、(ふわぁ〜)というため息のような音が会場から聞こえました。その後の懇親会の時には、「要するに、使命感でやっているんですね、そのテーマ」と若く有能な男子院生から言われて、「そうです」と応えつつも、(何だかなぁ)という虚無感。結局のところ、どの立場、どの角度から本件を見るか、ということです。
純粋な学問的レベルとしては、それほど高い内容ではないものの、リサーチとしては重要なテーマ。イスラーム化現象が進むと、いつまでも綱引き状態でらちがあかないので、解決法としてさまざまな案が出されてはいますが、日本語訳よりも早かったマレー語の聖書翻訳伝統を歪めてまで「意地を張らずに折れる」のが賢明なのかどうかは、充分気をつけなければならないところです。