ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

オスロ合意から20年後に.....

去る9月13日はオスロ合意式典から20年。ダニエル・パイプス先生はワシントンの会合で思い切った総括発言をされた後は(http://d.hatena.ne.jp/itunalily2/20130919)、「コメントもないし、新たなニュースもない」と、あっさり沈黙を保っていらっしゃいます。それもそのはず、当初から批判的立場で直接に関与されていたからです(http://pub.ne.jp/itunalily/?search=20519&mode_find=word&keyword=Oslo)。裏方に回って仲介役を買って出たノルウェーの担当者の述懐を聞いてみたいところですが(http://d.hatena.ne.jp/itunalily2/20130917)。
中東の専門家ではない私でさえ、土地と平和の交換など「え!まだそんなことを?」とびっくり呆れたぐらいですが、日本の偉い先生方、そんなことではちょっと(というか大分)困るんですけど。要するに、オスロの失敗はアファラト氏の嘘と裏切り(を見抜けなかった第三者によるお膳立て)が根本原因。パイプス先生の中東フォーラムも、アラビア語イスラームムスリム事情に精通していらしただけに、「これじゃまずい!」と、それまで所長として率いていたシンクタンクの研究所から独立して、自宅をオフィス代わりにして立ち上げたという経緯があります(http://www.danielpipes.org/12184/)。
オスロ合意の1993年秋は、マレーシアから帰国して数ヶ月。当時、テレビの画面でホワイト・ハウスの式典を眺めていても、新聞報道を一生懸命読んでみても、何が何だかさっぱりわからなかったことを、今でもありありと思い出します。なぜ、晴れの舞台で、ラビン首相をはじめイスラエル側は皆、険しく神経質な表情ばかりなのだろう?なぜ、イスラエルの政治家は軍人上がりと聞いていたのに、落ち着いて知的な雰囲気を湛えているのだろう?どうしてアラファト氏はあの格好のまま出て来て、始終ニヤニヤと笑っているのだろう?あのニタニタ笑いは何だ?一体全体、何が何なのだというので、このような成り行きになったのか?日本で私が見聞していた狭い範囲の理解では、イスラエルが圧倒的武力で弱くかわいそうなパレスチナ人を追い出して虐めているので、やっとノルウェーのアラビストが何とか現状打開を、と密かに話を進め、大国アメリカが和平仲介するという形で、極秘に労働党イスラエルを説得して武力行使を止めさせ「平和が訪れる」と。ニュース報道は賞賛しているものの、それって本当なの?私の知る限りのユダヤ人は、そういうタイプではないのだが、私がずれているのだろうか?合意と言っても、何をどうするかがよく理解できないのだが、私の頭が相当に悪いのだろうか?
実は、そのような愚直な感想を持つ私が、そもそもダニエル・パイプス先生にとっては訳文を依頼するに当たって見極めるべき前提資質としての必須条件だったのかもしれないと、今なら合点がいきます。素人ならば素人らしく、余計な知ったかぶりのコメントは出さないで、わからないものはわからなかった、と正直に自分の力量の範囲内で言っている方が、かえって信頼されるのではないか、ということを改めて学びました。
今、西岸の場合は「占領地」ではなく「係争地」と呼ぶのだそうです(http://pub.ne.jp/itunalily/?search=20519&mode_find=word&keyword=west+bank)。また、ガザもイスラエルが「占領」を止めて撤退したら、即座にパレスチナのテロも止み、平和になるとあれだけ公言していたのに、物の見事に裏切られた次第。現状はいかに?
なので、毎日寝ても覚めても一呼吸毎にシオニスト人生を生きつつ(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20130620)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20130625)、ここが歴史における自民族の勝負どころと、自分の全人生と持てる力全てを賭けて、日々こまめに情報収集に努め、些細に見えることもコマゴマと分析してデータを記録する作業を続け、ありとあらゆる手段を駆使して世間にも働きかけている以上、強硬右派と名指しで悪態をつかれようが何だろうが、内情を知らない無責任な外国の平和団体のやることなど信用できない、というのがパイプス先生達のお気持ちだろうと愚考しています。
自分達の国は自分達で守る、壁を高く上げて孤立しても自給自足で生き残っていく、という決心(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20121020)。保護者的な同盟国アメリカからたとえ一時的に批判されようとも、自分達の国運は自分達で決める、という姿勢を貫いていた方が、長い目で見て尊敬されるのではないでしょうか?もっとも、安定して繁栄して世界に貢献していなければお話になりませんが。
オスロ合意に関しては、犬養道子氏の本にも(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20090317)、例によって日本叱咤の一例として(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120522)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20130522)、ノルウェー礼讃が挙げられていたのを思い出します。記憶に従えば、担当したノルウェーの専門家は、「アラブ人の気質や感情のヒダまで知り尽くし、アラビア語の微細な表現の使い分けも熟知していて、式典で読み上げる予定のアラファト原稿を極秘に作成した」「ごねるアファラトを宥めすかしつつ、時間をかけてゆっくりじっくりと内密に話を進め、一つ一つのアラビア語表現に関してアラファトにお伺いを立てつつ『これでいいか』『その表現よりもこちらはどうか』と、ようやく両者納得の完成に至った」「式典の際には、実務に当たったノルウェー自身が前面にしゃしゃり出たのではなく、密かに目立たない場でモニターを通して映像を確かめ、無事に最後まで辿り着いた瞬間、安堵のあまり意識を失って倒れた(らしい)」とエピソード開陳。その後、「私はノルウェー関係者から直に聞いて知っているので書くのだが、日本もこれぐらい貢献できる国際的に開かれた人材がいないものか」と叱責。
しかし、今となっては犬養道子氏、果たして実情をいかほどまでに熟知でいらしたのか?私が後で知ったのは、このノルウェーの話は、もともと左派の労働運動およびクリスチャン・サークルの路線であって、関係者の一人は社会科学系統の研究者。中東(カイロだったか?)に駐在中、西岸などを見て回り、(パレスチナの苦境を何とかせねば)ということでお膳立てを発案されたとか。
とすれば、これも今となっては、当時の日本が「慣れていないし、複雑な中東情勢はよくわからないから」とおとなしく引っ込んでいたのも、それほど大きな間違いではなかったのかもしれない、と。できることはすべきであるものの、下手に手を出して、後から「思い出すだに恥ずかしい」と当事者から書かれてしまうよりは、能力を超えたことには手を出さないという決意も、それなりに意味があるのでは?