『中央公論』は従来、中道リベラル路線だったのが、景気低迷もあって、経営立て直しのために、読売新聞の傘下に入ったところ、今では保守右派だとか。ただ、この路線というのも、結局は比較としての傾向を述べているのではないかと、私は思っています。
「中央公論社」が発行した書籍に関しては、次をご覧ください(参照:2007年8月8日・9月8日・2008年2月6日・5月19日・7月7日・2009年1月12日・3月17日・5月2日・11月10日・11月11日・2010年2月1日・3月24日・2012年5月21日・5月26日付「ユーリの部屋」)。
学生時代から、日本社会で主要だとされる月刊誌各種に対しては、大抵、書店や図書館で立ち読みし、気になるページは複写するか、後で買うことにしています。そういう経過もあって、『中央公論』は、本当に久しぶりに、一昨日、四条の地下書店で買いました(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120526)。
なぜこだわっているのか、といえば、『フォーリン・アフェアーズ』と『中央公論』が提携して、邦訳論文を掲載していた時期があり(『中央公論』1990年9月 p.263)、その中に、ダニエル・パイプス先生の論文2本も含まれていたからです(1991年12月第106号(pp.443-460)1993年4月第108号(pp.382-400))。そのことをお伝えすると、非常に喜ばれて「チュウオウコウロン、だよね?」と興奮気味(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120401)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120405)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120505)。その上、パイプス先生ったら、どこでどのように見つけてきたのか、邦訳論文の転載許可を求める日本事務所宛のメールにも、「中央公論」とわざわざ漢字表記までされていました。(だから「かわいいおじさま学者」だと、私は思うのです(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120505)。)残念なことに、その漢字表記が災いしたのかスパムメール扱いになってしまい、すっかりお返事が遅れたようです。(私のせいじゃないですよ!)
いずれにせよ、シリアとイランをテーマとした論文で、現在とも緊密に関係していますから、先生としても、日本語読者の目に少しでも止まって、支援を仰ぎたいというところなのでしょう。
話は少し逸れてしまったのですが、上記『中央公論』でおもしろいと思った記事の一つは、横江公美氏というヘリテージ財団上級研究員が書かれた「アメリカだってスタンドプレーじゃ決まらない:会議は日ごろの人間関係の総決算」(pp.102-107)でした。
というのは、かくいう私も、長々と一人で煩悶および思索を積み重ねながら、「喜んであなたの名前を載せるよ」と言ってくださったダニエル・パイプス先生のシンクタンクに、(仮設日本支部として?)間接的に連なる身となったわけですから(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120525)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120526)。そして、フェイスブック友達として、同じ系列にある4名の学者および若手研究者およびウェブ管理者(何やら、ドイツの大学にも籍があるらしい)も、即座につながってくださいました(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120429)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120521)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120525)。
本来は、黙って翻訳作業だけをこなしていれば済む話だったのでしょうが、どうやら、日本のマスメディアや書籍出版や大学および学会の方向性を見ていると、確かに、パイプス先生が1986年に3ヶ月日本にいらした際、「イスラエルに対する敵意の壁を感じた」(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120123)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120126)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120505)とおっしゃったことが裏付けられるような現象がまだ存在することに気づいたので、私の出来る範囲で、ありとあらゆる機会をとらえて、本件に対する、一般日本人としての私なりの受け止め方、あるいは、パイプス先生の中東政治思想および一神教観に対するお考えを、私がどのように受容していったかというプロセスを率直に綴ることで、少しでも多くの方々にご理解が広まれば、と願った次第です。
実は、イスラエル寄りの立場の日本の識者や出版業に関わる方達(主に男性陣)が、非常に強い調子で、反ユダヤ主義に対する非難の応戦をされているのを読み、(いかにも男性だなぁ。でも、もしかしたら、逆効果なのでは?)と感じてもいました。なぜならば、この種の問題は、かえって反発を招くだけだからです。
話は少し元に戻りますが、横江氏が書かれていたのは、盲点を突くような意外な事実。アメリカの組織の「幹部は寝食を共にするような濃厚な人間関係を構築していて、日ごろから情報を共有しているケースがほとんどだ」との由。
「私たち日本人は、アメリカでは会議の場で出席者が正々堂々と違う意見をぶつけ合い、平場でモノゴトを決めていくと想像しがちだが、そんなスタンドプレーで会議は動いていない。そもそも私は真っ向から意見が対立している場面に出くわしたことすらない。意志決定を伴う会議には、事前に念入りな準備が重ねられている。そういう点では、ハッキリ意見をいわないとされる日本の会議とあまり変わらない。」(p.102)
「日本人がはっきり「ノー」といわないとされ、国際社会で異端視されているというエピソードは巷に溢れているが、アメリカだってわざわざ事を荒立てるように「ノー」などといわないのである。」(p.105)
「そして、書店に溢れる"アメリカ式会議"の手引書でいくらプレゼンテーション能力を磨いても、人間関係ができていなければ、誰も耳を貸さない。」(p.107)
この文章が説得力を持つと感じられたのは、上記のフェイスブック友達の反応もそうですが、パイプス先生のシンクタンクを見ていても、内部事情まではさすがにわからないものの、少なくともパイプス先生が、例えば「ノルウェーの白人テロ事件」との絡みで、わけのわからぬ非難や誤解を浴びせられると、誰かがすぐに、「そうではない」という反論を原稿化して公表されたことからもうかがえます。
この私でさえ、これほどメール交換を頻繁にしているのに、これまで一言も、パイプス先生の方から「ブログに自分のことを宣伝して書いて欲しい」とか「こういう内容を発表しろ」などと言われたことがありません。翻訳だけは、さすがに先生の依頼ですが(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120505)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120514)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120521)、それ以外のすべては、最初から私からの自発的行為です。つまり、問題や関心の共有事項だけでつながっている関係ですが、パイプス先生の引力というのか魅力というのか、それは相当なもの。昔の論考を読んでいて(さすがだわ)と思うと同時に(あれ?全然、反イスラームじゃない...)と、かえって驚かされるのです。
とりあえず、今日のブログの本題に関連して、これまで私が綴ってきた「反ユダヤ主義」関連のブログ日付を列挙いたします(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20070929)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20080516)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20080517)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20080608)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20080619)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20080621)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20090110)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20090725)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20091110)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20100810)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20110403)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20110511)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120124)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120201)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120313)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120402)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120416)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120421)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120422)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120505)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120524)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120526)。
ヒトラーの『わが闘争』(上)(下)を少しずつ見ていますが、よくこんな論旨の飛躍と、何でもユダヤ人のせいにする一方的な主張が、あのドイツ人の中で受容され、実践されたものだ、と空恐ろしくなります。昔から繰り返しヒトラー批判を聞いていた世代だからということもありますが、ちょっと落ち着いて考えれば、何かがおかしいと気づくのではないか、と、私でも思うのです。
Dr. Robert Satloff, "Among the Righteous: Lost Stories from the Holocaust's Long Reach into Arab Lands" Public Affairs, New York, 2006には(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20080224)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20091110)、次のように書かれています。
‘But in polite Arab company, it is out of bounds to praise Hitler, Auschwitz, or Mein Kampf, a best-seller in many quarters of Arab society. Even an uncompromising, absolutist Holocaust denial is frowned upon. It is too shocking, too brazen, too bound up with the conspiratorial mindset from which many moderate, modern-educated Arabs are themselves trying to escape. So, instead of denying the fact of the Holocaust, the more acceptable view is to deny its enormity. The result is that across the Arab world, it is conventional wisdom to discount the numbers of dead and to dispute the magnitude of the horror.'(p.163)
このサトロフ博士については、かつてダニエル・パイプス先生も「私の友人かつ歴史家であり、私は通常その見解に同意するが、パレスチナの混沌については、彼は私に同意していない」と書かれていました(2004年時点)。
それでは、もっと具体的に、どういう点で反ユダヤ主義が蔓延しているのでしょうか。アラブ世界のことは、当然のことながら、マレーシアにも関わるので、無視はできないのです。
2010年11月中旬に、突然亡くなられてしまった藤原和彦氏の『アラブはなぜユダヤを嫌うのか:中東イスラム世界の反ユダヤ主義』ミルトス(2008年)を再読すると(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20080619)、パイプス先生の必死な強気の奮闘背景がわかるようになってきます。
・反ユダヤ主義の存在は中東アラブ世界では一般化し、ほとんどニュースにはならない。その中で、「イスラエル・スパイ団モスラティ一家事件」の過熱報道は、反ユダヤ主義が持つ虚偽性や荒唐無稽性をまさに"浮き彫り”にしたように筆者には見えた。(中略)荒唐無稽極まるユダヤ人陰謀説を、歴史経験の豊かなエジプト人がなぜ受け入れ、大騒ぎするのか―。思い至ったのが、多くのアラブ人イスラム教徒をマインドコントロールするかに見える反ユダヤ主義の広がりだった。(p.5)
・「陰謀説」(コンスピラシー・セオリー)」とは、特定の人間ないしは人間集団の陰謀によって歴史が動かされるという考え方だ。中東は1948年のイスラエル独立はじめ歴史の動きが激しく、また多様だったせいか、この陰謀説が盛んだ。しかも、そのほとんどが「反ユダヤ主義(アンチ・セミティズム)」に基づく「ユダヤ人陰謀説」だ。(p.12)
・ところで、中東世界のユダヤ人陰謀説論者は―その主唱者たちのほとんどがアラブ人ウラマー(イスラム教における知識人・学者)だが―実にさまざまなものにユダヤ人の陰謀を嗅ぎ取るようだ。(p.14)
・さて、マハティール・マレーシア前首相がOIC首脳会議の開幕演説で行なった「反ユダヤ主義」発言に戻ろう。日本のマスメディアは当初この発言を無視し、西側世界が批判して初めて記事に取り上げた。しかも、その記事の多くはマハティール前首相の発言を「ユダヤ人批判発言」、あるいは「毒舌」などと表現し、「反ユダヤ主義発言」とは明記しなかった。ユダヤ人問題に関する日本マスメディアの"及び腰"姿勢が改めて浮き彫りになった形だ。(p.21)
・筆者の知る限り、こうした火事の発生は海外に報道されていない。だが、舞台は"陰謀渦巻く"ロシア。この陰謀説は今後反ユダヤ主義勢力の間に急速に広がりそうな気がしてならない。(p.31)
・米国のマスメディアはユダヤ人に支配されている―。日本では、とりわけ進歩的とされる文化人やジャーナリストの間で囁かれるデマだが、今や反ユダヤ主義センターの観があるイスラム世界だと様相は一変する。公共のマスメディアが公然と言及してはばからない。(p.37)
・反ユダヤ主義(アンチ・セミティズム)は、とりわけイスラム原理主義勢力の間で激しいが、その原理主義勢力はユダヤ人をどう呼んでいるか。「猿と豚の子孫」が、頻繁な呼び方という。(p.44)
・「ムスリムの活動家はキリスト教化された、西側社会の人々と話をするとき、ナースィフ・ワ・マンスーフ(廃棄する節と廃棄される節)と呼ばれるイスラムの主要教義を故意に隠す。この教義は簡単に言うと(複数の)節が矛盾する場合、後で啓示された節が、それ以前に啓示された節を無効にすることを意味する。(すなわち)節の書かれたタイミングが、イスラム内の政策樹立の権威を決定するのである。非ムスリムはナースィフ・ワ・マンスーフの教義が意味するところを知らずにはすまされない。イスラムの代弁者はイスラムが平和の宗教であり、コーランが人権違反、性偏見、テロなどを支持してはいないと言う。この時、これら代弁者は嘘をついているのである。イスラムが高貴な平和の宗教であると弁じ続ける西側政治家とリベラルなジャーナリストは、実際には偽り―彼ら自身が偽られ、オウム返しに語っている偽り―を宣伝しているのだ」(pp.73-74)
上記のマハティール発言に関連して、2012年5月24日付「ユーリの部屋」(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120524)もご覧ください。)
そればかりではなく、故藤原氏が懸念されていたのは、「反ユダヤ主義言説がパレスチナ紛争経由で日本社会にも浸透してきた」(p.166)ことのようです。なぜならば、
「(前略)中東アラブ世界ではよく知られた反ユダヤ主義神話だ。それを、パレスチナ紛争に直接かかわりのない日本人の、それも若い女性が熱を込めて主張する。その異様な取り合わせに、エルサレム支局の同僚は驚いたようだ。」(p.166)
このあたり、私もどこか光景が目に浮かぶようです。何となく想像がつく経験を、過去に持っているからです。一本気で視野が狭いだけに、非常に難しいと思いました。
もう一点、この種の話が困難な理由として、2006年のレバノン紛争があった際(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120515)、それまでは仲よさそうに話をしていたエジプト人とユダヤ系イスラエル人の先生同士の関係が、途端に妙な方向になってしまったからです。「関係」と言っても、イスラエル人の先生からは特に何も聞いていませんが、エジプト人ムスリムの男性の先生の方が(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20071025)、私に突然、地下鉄の中でだったか、「○○先生(イスラエル人の先生のこと)は、本当は怖いんだよ。軍隊にいたから。ヒスボラ―は正しい」と言い出したのです。
日本側としては、深入りしたくもない事柄でしたので、ただ(ふんふん)と聞くふりをしていましたが、(だから困るんだよねぇ)というのが内心。「対話が必要で、人と人とが知り合うことが重要だ」と、あれほど会合でも述べ立てていたエジプト人の先生が、それを自ら壊すような発言を私にするということ自体、対話路線の空しさを感じさせられたわけです。時間とエネルギーの無駄だ、と。