ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

人道上の罪とは

昨晩、タイムリーだと思ったので、さっと目に止まった最新のパイプス先生(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120522)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120523)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120524)のコメントを、その場で訳しました。すぐに送ったのはいいのですが、さて寝ようと思って横になった途端、(あ!あそこは間違いじゃないけど、もっと気の利いた表現があった!)と気づき、早速メモするはめになりました。
ウェブ管理をしていてくれるフェイスブック友達のレヴィ君には(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120429)、いつも申し訳なくて仕方がないのですが、完璧を期すつもりではなくとも、できる限りよい訳にしたいと願うあまり...。もともと日本語にこだわりを持つタイプでもあるので、誰から指摘されたわけではなくとも、自分で見直して、送り直しています。つまり、レヴィ君にとっては、必ず二度手間がかかっているわけです(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120417)。(お気づきの方もいらっしゃるでしょうが、もともと、このブログも、ミスや修正したい箇所に気づいた時点で、逐一、コマゴマと修正を加えています。だから、自分用の書籍化は、かなり後になります。)
他の翻訳担当の人達はどうしていらっしゃるのでしょう?パイプス先生の原稿が、特別のメーリングリストで事前に回ってきたと思うや否や、なんと、時差も含めて翌日にはウェブに翻訳が出ている言語があります。イタリア語やフランス語などは、その点、模範中の模範ですし、場合によっては、他の欧州言語も迅速なことがあります。
機械翻訳は、日本語の場合、まだ未発達であまり役に立たない(例えば、意味や主語がまるで逆になって出てくる)ので、まず使うことはありませんが(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120125)、英語とフランス語、英語とドイツ語などは、非常にきれいに訳文が出てきます。
その話をすると、主人がある日、「機械翻訳にかけて、後はちょこちょこっと手直ししているだけかもしれないよ」と言うのです。そういう方法があるとは思いもよりませんでしたが、だとすれば、多言語で翻訳版を作る意味は、どこにあるのでしょうか(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120505)。
それに、最初から気になっていたのが、いつまでこれが続くのか、ということ。いずれは本の形にまとめる予定なのか、もし突然、パイプス先生に何かが起こったら、この作業はどうなるのか。ちょっと聞くに聞けない事柄でもあり、どうしたものか、ということです。別に、契約書を交わしたわけでもないので、それぐらいの軽い気持ちでいらっしゃるのかもしれませんが、私としては、せっかくお引き受けした以上は、乏しい力の全てを挙げて、といったところです。いろいろと貴重な勉強にもなっていますから。
前から繰り返しているように、英語を読むだけならば数分で済むことが、訳文を作るとなると数時間かかるということは、著者であるパイプス先生も、無から有形の文章を紡ぎ出すのに、それだけの労力をかけているという意味です。本を読むと、(あ、これ、ウェブで前にも読んだことあるけど、マイナーチェンジが施されている)と気づく論考もあります。しかし、引証としての出典文献の膨大なことには、毎回、圧倒を超えて仰天するばかりで、リサーチアシスタントを使っているにせよ、資料を整理して読み込むだけでも大変なのに、訓練のされ方や頭の構造が根本的に異なるのではないかとさえ思います。これは、私が贔屓目に見てお世辞を言っているのではありません。確かに、別のインタビューを見ていたところ、アメリカのある大学教授が「彼はものすごく読んでいる」と述べていた一文にも出会っていますから。
時に、(この表現はどう訳出すべきか)と迷うこともありますが、その場合、自分が学習した(あるいは学習中の)言語であるドイツ語とスペイン語とフランス語を参照することにしています。そして、それぞれの言語の和訳を手持ちの辞書で調べるのです。すると、英語での迷いが溶けることがほとんどです。つまり、単純に英語力の問題ばかりとは言えないわけです。英語は通用性が広いので、かえって意味の幅が定まりにくくなっていて、わかりにくいこともあるからです。
特に、アラビア語イスラームの専門だというフランスの大学の女性教授(今は退職されたとか?)の訳文が多くて(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120505)、その点は助かります。また、(あ、この内容いいな)と思う昔の論考には、その先生によるフランス語訳だけが出ていることも少なくなく、(傾向が似ているのかもしれない)と、うれしくなることもあります。
今朝方、ラテン語と古ギリシャ語の翻訳をしているのが、もう一人の私のフェイスブック友達で(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120429)、オックスフォード大学の学生だということも判明。しばらく前までは、(新約聖書じゃあるまいし、古ギリシャ語なんて、どうしてパイプス先生の翻訳に必要なのかしら)と不思議でしたが、訳者がオックスフォード大の所属だとわかって納得。彼の論文も電子版で読みましたが、なかなかシャープで、将来の中東研究者としては、前途有望そうです。
ただ、彼も忙しそうで、訳文が次々に出てくるわけではありません。ちょっと時間が空いた時、語学の練習も兼ねて訳している、といった感じです。それにしてもすごい!
というように、ユダヤ系の人々と知り合いになると、本当に知的な面で刺激が多く、(これまで人生ソンしたなぁ)という気持ちになります。1948年にイスラエルが建国されるまで、全世界に散らばって、不自由かつ理不尽な思いをしながら、よくここまで教育に力を注ぎ、優秀な人々を育てて来られました。感嘆以外の何物でもありません。
だからこそ、国連憲章のガイドブックにもあるように「人道上の罪」と規定されている概念の内実を、改めて考えさせられるのです。もっとも、「じゃあ、パレスチナ人や周辺のアラブ人に対して、イスラエルは何をやっているんだ!」という痛罵が飛んできそうですが、その現実も踏まえた上で、「人道上の罪」は、実は欧州で迫害を続けてきたキリスト教圏の人々および、その影響下に連なる立場である我々の皆が、等しく分かち合わなければならない厳粛な人間存在の一側面だとも思うのです(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120313)。