ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

1967年の境界をめぐる論争

メムリ」(http://memri.jp/bin/articles.cgi?ID=IA78412)より

Inquiry and Analysis Series No 784 Jan/22/2012


1967年の境界をめぐるパレスチナ人の論争


L・バルカン(MEMRIの研究員)


 パレスチナ自治政府PA)のアッバス議長は、1967年の線を境界とするパレスチナ国の国連承認を求め、国連総会で次のように演説した。
 「平和を信じるが故に、国際的正当性を持つと確信するが故に、人民のため困難な決断をくだす勇気がある故に、そして又、絶対的正義など存在しないが故に、我々は相対的正義即ち、我が人民に対する歴史的不正義を部分的にただす正義の道を選択した。かくして我々は、歴史的パレスチナの22%にあたる地域、即ち1967年にイスラエルが占領したパレスチナ全域に、パレスチナ国を建設することに同意した※1。


 一方ハマスの政治局長マシァル(Khaled Mash'al)は、日刊紙Al-Hayatのインタビューで、次のように答えている。


 「ハマスは、エルサレムを首都とし、パレスチナ人難民の帰還権の履行を条件とする、パレスチナ国の建設に同意している。これは、パレスチナ諸勢力とアラブ・イスラム諸勢力全部が大部分共有する考えである…二国併存の解決法は、イスラエルの承認を含む。我々ハマスは、イスラエル承認を拒否する明確な立場にたっている…パレスチナ人民の半数以上は、1948年の領域に所属する。本人自身がそこで生まれたか、本人の父或いは祖父がそこで生まれたからである。つまり彼等は、もともとそこに帰属しているのであり、新参者ではない。武力によってそこから追い出されたのである。パレスチナ運動が、歩みよってイスラエルを承認するのは、公平ではない」※2。


はじめに


 12月9日、2011年汎アラブ競技大会の開会式がドバイで挙行された。その際領土をガザとウェストバンクに限定したパレスチナの地図が展示された。つまり、1967年の線を境界とするパレスチナである(下の写真参照※3)。開会式に出席したPAアッバス議長は、この地図に反応しなかった。しかしこの事件は、パレスチナの境界をめぐってパレスチナ人の間で論争に火をつけた。


 パレスチナ人の間には、国家建設の願望、イスラエルの扱い、国際社会への対応をめぐって、議論がある。この論争はそれを反映している。PA支持者を含むパレスチナ人の間には、1967年の境界を受入れず、“歴史的パレスチナ”の夢を放棄したくない者が沢山いる。オスロー合意があるにも拘わらず、彼等はPLOイスラエル承認を否定する。パレスチナ指導部が二国併存による問題解決を明確に公約し、更に最近は1967年の境界をベースにしたパレスチナ国家の承認を国連に求めている。それでも彼等は、この方向性を拒否している。論争はこれを浮きぼりにする。更にこの論争は、PAハマスの立場の違いを明らかにする。双方共に、1967年の政治プログラムであるとしながら、実際には内容が相異している。PAは、パレスチナ国を二国併存のひとつとし、難民問題の解決を含め、イスラエルとの包括的恒久的合意の一環とみる(但し難民問題についてはあいまいで、PAは二つのバージョンを発表している。ひとつは「公正にして合意にもとづく解決」を主張し、あとひとつは「1948年前の郷土へ戻る難民の権利」を唱えている)。一方ハマスの幹部達は、1967年の境界をベースとするパレスチナ国家を受入れるものの、イスラエルの存在権、難民の全面的帰還権の放棄、武力抵抗の放棄、を拒否している。


写真1汎アラブ競技大会で展示されたパレスチナの地図(黄色部分)※4。


 ドーハで展示されたパレスチナの地図をめぐって、大衆の怒りが爆発し、アラブとパレスチナのメディアがその様相を伝えた。例えば汎アラブ競技大会の開会式で観客の間に激しい論争が生じ、アラブの若者達が自国の選手団に競技会不参加と帰国を要求した※5。パレスチナ選手団の団長ムタワリ(Daoud Mutawalli)は、アラブ競技大会組織委員会(AGOC)に説明を求めた。競技運営に参加したガザの労働組合は、謝罪を要求すると共に、アラブ連盟に対しては、調査及び責任者の徹底追求を求めた。この労働組合によると、地図は、“シオニスト存在体”をはっきりと認めており、アメリカの新中東構想に対する屈従そのもので、到底受入れることはできない※6。パレスチナ人青年グループは「カタールよ、パレスチナの分割はない」と題するフェイスブックをつくった※7。ヨルダンの活動家達は、アンマンのカタール大使館前でデモをやり※8、イスラム聖戦学生運動はガザでカタールボイコットのデモをやり、地図の件でカタールが謝罪しなければ、パレスチナ大使をド―ハから召還せよ、と主張した。デモ参加者は数百名、「ヨルダン川から地中海までが歴史的パレスチナ、この歴史的パレスチナを放棄するな」と叫んだ※10。


 前述したように、本件がパレスチナ国の境界とイスラエルの扱いをめぐって、論争に火をつけている。PAハマス及び独立系の新聞とウェブサイトが本件を論じているが、立場は二つに大別される。第1の立場はカタールを攻撃し、パレスチナの一部しかのせず歴史を歪曲していると非難する。更に、西側の反アラブ・イスラム策謀に組する行為とまで主張する。これに対し、第2の立場は、カタールの地図に示された境界こそ彼等自身が要求しているものであり、それを認めるべきである、とパレスチナ人に呼びかける。


批判される沈黙のパレスチナ高官


 パレスチナの高官達は、PA或いはハマスのいずれも、この論争に加わることを避けている。この沈黙に、パレスチナの大衆と新聞が驚愕し怒りを発している。複数の報告によると、ソシアルネットワーク上で多くのパレスチナ人が、開会式に出たアッバス議長は、カタール首長の横に坐りながら、地図に何故抗議しなかったか、と疑問を呈した※11。PA日刊紙Al-Ayyamコラムニストのザクタン(Ghassan Zaqtan)は、「パレスチナの公式筋の沈黙は不快である。更に悪いのは、カタールの友人であり味方である拒否戦線派(ハマスのこと)の最高幹部達が沈黙したことである。ハマスメンバーがカタール首長の写真を掲げてガザの市中を連帯行進しているのに、公式筋は現地住民(ハマスメンバーのこと)が命を犠牲にしてきた土地の写真と旗を掲げるのに待ったをかけ、その掲揚を阻止する…」と書いた※12。


 独立系のパレスチナ通信Ma'anは、時事評論家アブダッラー(Fares 'Abdallah)の記事を発信した。そのなかでアブダッラーは、この問題でハマスPAが何故沈黙するのか、ハマスは何故ガザで抗議デモをやらないのか、川から海までの土地全域を領土とするパレスチナ国家の建設が基本原則であるのに、沈黙はその基本原則に合致しないのではないかと疑問を呈し、次のように主張した。


 「PA議長がカタールの祭典に出席したが、一体PAの役割は何なのか。この犯罪行為に対するハマスの立場は一体どうなっているのか。パレスチナを切り刻む犯罪行為に抗議してパレスチナ選手団が退場しなかったのは何故か…アッバス議長は、オスロー合意に署名した時“イスラエル”をシオニスト国家として認めたのであるから、既に抵抗の落伍者である。しかもことある毎にこの承認を繰返し表明していることを考えれば、PAの公式姿勢に期待するものは何もない。生徒の学習用教材では、パレスチナはラファから(海岸沿いに)ラスナクラ(ロシュハニクラ)ではない。ラファから東北へ地続きで、ジェニンまでつながっているのだ。


 一番重い責務を負うのが、創設27周年を祝うハマス運動である。運動は、カタールの示す範囲を領土とするパレスチナ国家を受入れるのか。12月14日に(ガザの)アル・カティバ広場で集会を催し、ハマスの基本原則を読みあげる筈だ。パレスチナは(ヨルダン)川から(地中)海までの全域がパレスチナであり、パレスチナの寸土といえどもすべてムスリムの所有で、如何なる場合も絶対に手放すことはできない。これが基本原則である。カタール政権によるこの忌まわしい行為に、ハマスのメディアは何故沈黙するのか。ウェストバンクで何かあれば、ハマスは必ずガザでデモを組織して意志表示をしてきたのに、抗議やデモ行進が何故ないのか…」※13。


1967年の境界は歴史の歪曲―全域主張派の批判


 複数のPA日刊紙及び独立系パレスチナ通信Ma'anが掲載した記事は、カタールの地図を批判した。PAのコラムニスト達は、パレスチナ国の境界を明確に定義した平和条約がイスラエルと結ばれぬ限り、歴史的パレスチナの地図を示しておくべきであり、それ以外の地図の提示は、イスラエルパレスチナ紛争が未解決状態であるなかで、結論をだすことになるから、誤まりであると主張する。独立系のパレスチナ人コラムニスト達は、カタールが、パレスチナ人の集団的記憶にある“歴史的パレスチナ”を無視したことによって、歴史を歪曲し、アラブ領に対する西側の策略に加担した、と批判した。更にカタールは、さまざまな中東問題に独自路線で首をつっこみ、西側特にアメリカ及びイスラエルと結びついているとして、批判される。これまでもPAは、さまざまな問題で、何度かカタールを批判している※14。


 PA日刊紙Al-Hayat Al-Jadidaのコラムニスト、アブルハイッジャ(Mahwoud Abu Al-Haizza)は、パレスチナ国の境界を明確に定義した平和条約がイスラエルと結ばれぬ限り、歴史的パレスチナの地図のみを提示すべきであると述べ、次のように主張した。


 「カタールは、アラブのオリンピックで展示した地図が、オスロー合意の核心であり、最終合意の姿である、と我々に向かって言うだろう。しかし、オスローは基本原則の合意であり、ひとつの政治的動きであって、平和協定ではない。紛争はまだ終っていない。交渉は度々中断し、この地域の平和地図即ち最終合意の地図を描ける段階にない…“新しいパレスチナ”の境界に関して、イスラエルと真の最終的合意に到達しているのであれば、そしてそれが革新的な※カタールの解釈に沿っているのであれば、我々はこの地図を受入れる。そのカタールであるが、カタールが描いた地図の境界内でイスラエルが入植地建設をやっている。それをやめさせることができるのなら、我々は嬉しく思う。しかし、この地域に平和はなく、カタールイスラエルの入植活動に対して立上らない…」※16。


 PA日刊紙Al-Ayyamのザクタン(前出)も同種の主張を唱え、「カタールが、この地域のイマジネーションと記憶の中に存在する歴史的パレスチナを無視した」とし、「汎アラブ競技大会組織委員会は、パレスチナイスラエル紛争に(早計にも)結着をつけてしまった。4色のパレスチナ旗にガザとウェストバンクをあしらった地図を展示し、アラビア語と英語でパレスチナという名称を添えた。カタールの茶番にはあとひとつ驚きがある。つまり、ウェストバンクのイスラエル入植地とエルサレム問題を避けているのである。カタールの支配者、そして政治イスラムの輝ける太陽たる同盟者による革新的※17解釈からみれば、パレスチナの首都は一体何処にあるのか」と述べた※18。


 PAは、カタールの地図事件に対して沈黙を守ったにも拘わらず、事件の数日後PA日刊紙Al-Hayat Al-Jadidaが、カタールにおける事件とのかかわりに直接言及しないで、二つの手書き地図を掲載し、歴史的パレスチナの重要性を誇示した。


写真2「慈悲深きアッラーの御名において、歴史、地理、アラビア語、英語、各種言語、生と死の教え、文学、文法の教科の教え…ここは私の土地である」※19。


写真3 黒で塗りつぶして強調した歴史的パレスチナ


 独立系パレスチナ通信Ma'anコラムニストのラハル(Bahaa Rahal)は、次のように書いた。


 「カタールは自然のパレスチナという歴史的地図をさしかえた…これは、明らかに歴史を捏造し、自由と独立のため犠牲を強いられている人民の大義を歪める行為である。アメリカを初めとする西側諸国に願望がある。カタールは、その主要部分に加担した…カタールは、イスラエルという占領国家の策謀に加担している。カタールは卑しむべき策を弄し、まがいものを世界に提示し、敵さえやらぬ卑怯なことをしたのである。カタールは、アラブの魂を悪魔に売ったのである…」※21。


 Maanの時事評論家アブダッラー(前出)は、次のように主張する。


 「シオニストアメリカの権益に従ったアラブ領再分割構想の計画第1段階が始まっている。カタールで描かれたパレスチナの新地図は、アラブの春を装った新しいサイクス・ピコ協定といってよい…これは、エジプトのムバラク勢力の力がまだ残っている証拠である。そして、ムバラク追放以来エジプトが日夜経験している危機は、軍事最高評議会のせいである。つまり、評議会はアメリカの意を体し、アメリカが考える革命後の政権の性格をエジプト人民に押しつけようとしているのである…」※22。


 同じMa'anで、パレスチナ人時事評論家オベイダト('Ali 'Obeidat)は、パレスチナ諸派オスロー合意を受入れ、歴史的パレスチナの放棄に同意した誤まちを認め、パレスチナ人民に謝罪すべきであるとし、次のように論じた。


 「カタールは、川や海のない、欠落部分のあるパレスチナの地図を提示して、世界の怒りをかった、その怒りはおさまらない。アッラーの御慈悲がなければ、我々はその大罪の故にカタール弾道ミサイルで攻撃しているところだ…(しかしながら)、歴史的パレスチナの夢を消し去ったのは、オスロー合意当局(PA)ではなかったか。ハイファとヤッフォは最早我々のものではないと言い、我々が欲しいのはナブルス、ラマッラ、ジェニンだけ、いやイスラエルが選んで我々に渡すものだけと言ったのは、君達パレスチナ諸派ではなかったか。


 歴史的パレスチナが欲しいと言ったパレスチナ諸派がひとつでもあったか。この際ハマスがどうの左派がこうのと言わないで貰いたい。諸派は全部オスロー合意という屈辱の加担者なのである。カタールの怪し気な率直さが、いちじくの葉を払いのけ、我々の心の奥底(にある性格)を暴露した。パレスチナ諸派は、殉教者、服役囚、ガリラヤのオレンジ、カルメル山のいと杉、クハルカナのざくろパレスチナのアィデンティティを守る老姿に謝罪しなければならない…そしてカタールが、意図的行為を謝るとすれば、域外のキャンプに住む難民、占領国家の?内?に住むパレスチナの不動層、海から川までの不可分の歴史的パレスチナを信じる小さな集団に、謝罪すべきである…」※23。


写真4「カタールよ、パレスチナの分割はないのだ」と題するフェイスブック※24。


1967年の境界は現実的解決法―政治解決を支持する派


 PAファタハ系コラムニストやメディアには、もっとプラグマチックな意見も表明されている。彼等は、カタールの提示するパレスチナ地図を是とし、パレスチナ人自身がカタールの描いたとの同じ境界を承認せよと世界に求めてきた、と指摘する。彼等は、歴史的パレスチナと現実とを区別するようパレスチナ人に求める。現実の上にたつならば、パレスチナ人は1967年の境界で国家を建設できる、と主張する。


 PLOの前駐イエメン大使ラッバ(Yahya Rabbah)は、現在PA日刊紙Al-Hayat Al-Jadidaのコラムニストとして活動しているが、次のように主張するのである。


 「カタールが提示した地図は、アッバス議長が国連に提示した地図と同じであり、例外なくすべてのパレスチナ人が受入れている領域である。ファタハハマスもそしてその中間派を受入れている。最初が1974年。10項目計画の一環としてこの地図を認めている。次が1988年。PLOの独立宣言の一環として同様に認めた。勇気あるアブマゼン(アッバス議長)が国連と安保理に承認を求めたのが、この境界である。我々パレスチナ人は、これをベースとして国連加盟国になることを求めてきたのである。何がショックなのか、何で新奇なのか。君達は何故怒るのか。


 パレスチナ人はほかの民族と同じように、栄光の過去にノルタルジーを感じる。しかしそのノスタルジーと現実を区別し、政治ゲームのルールを知らなければならない。カタールの騒ぎは、パレスチナ人の心像風景を物語る。多くのパレスチナ人は、政治的には判っているようで、政治のルールを本当には理解していない…彼等は、歴史的パレスチナの夢と冷厳な政治の冷酷な事実は峻別できない…夢の痛みは、人類誕生以来人の染みついている…我々アラブは、アンダルシアの夢を、あの地へのあこがれを棄てたのであろうか。ロシア人は、ロシア帝国へのあこがれを抱いていないのであろうか。イタリア人はどうだろう。その首都ローマはかつて世界の都として栄えたが、あこがれはないのか。神々の家であったギリシアはどうだろう…すべての民族が、今はなき過去の栄光を持っているのだ。


 我々パレスチナ人は…独立国家として認めて貰いたい。我々は(国家の)名が世界地図にのり、国名に宛先のあることを望んでいる…我々がこのゴールへ到着しようとする度に、そして、この目的達成のために支援する者が出てくる度に、我々は何故急に怒りだすのだろうか。何故我々はいつも振り出しに戻ろうとするのか。私は、立派な祭典を開催し、その場を利用して真剣且つ明確なメッセージを発信してくれたことに感謝する。そのメッセージは、我々が常日頃耳にする内容とは違う。だが、これをベースにすれば建国が可能であり、本物の国を持つことができる。それは、敵即ちこの考え方に反対する者、この考え方の現実化を拒否する者は、間違っているとのメッセージでもある」※25。


 ファタハ系ウェブサイトでは、パレスチナ人時事評論家のフセイン(Maher Al-Hussein)
が、次のように同主旨の発言をしている。


 「我々は、集団記憶のなかにある歴史的パレスチナ地図と、政治的現実であるパレスチナ国の地図を区別して考えなければならない。我々が受入れ、推進しなければならぬのは、後者の方である。我々の父や父祖の記憶のあるパレスチナの地図は、我々の息子達が学ぶわけであるが、よく知られており、一種類しかない。我々は心の中でそれを思い描く。この地図に関しては、我々の間に論争はなく、パレスチナ人全員が共通するイメージを持つ。1967年の境界と1948年の境界の区別はなく、難民キャンプはその景観の中にない…歴史的パレスチナをめぐる論争はない。三大一神教の聖地パレスチナの地位と境界について論争はない…。


 それと同時に、パレスチナ国がある。交渉課題としてのパレスチナ、国際決議そしてアラブの和平提案にみるパレスチナである。我々はこれを受入れ、嘘やごまかしのない明確な真実として認めなければならない。そして我々は、ロッドやハイファ或いはヤッフォの解放を口にしない。我々は、全員が受入れるパレスチナの事業とは、1967年の占領地を境界としてエルサレムを首都とする国家(建設)の事業であることを、認めなければならない。換言すれば、我々は、国家の地図と?パレスチナの歴史地図?を区別しなければならない。


 スポーツの祭典で展示された地図は、ハマスが、マシァル政治局長自身が承認している。カタールが、PAのアブマゼン(アッバス)議長の目の前で展示したものは、パレスチナ国の地図である。現在そこはイスラエルの占領下にあるが、我々が国連加盟国として求めているのが、そのパレスチナ国である。何処に問題があるのだろうか。何故この現実が受入れられないのか…パレスチナ国家は全パレスチナ人から受入れられているのだ。後になったがハマスさえこのコンセンサスに加わっている。マシァル政治局長は人民の要求を既に提出している。その要求とは、ガザ、ウェストバンク及びエルサレムを領土とする国家の独立要求である…ハマスは、カタールによって展示されたパレスチナ国の地図を問題視していない。その地図に反対せず、批判もしていない・ムスリム法学者国際連盟のカラダウィ会長(Sheikh Yousref Al-Qaradhwi)すら、この地図の展示を異端視していないし、中傷とも思っていない…パレスチナパレスチナである。しかし国は別の問題である…その領域はパレスチナに比べれば小さい…生存していくために建設できるのが、その国であり、我々はこの現実を直視し、受入れなければならない…」※26。


問題の元凶はPLOPAハマス支持派


 カタールは独自路線であのような地図を提示しているのではない。そう主張するのがハマス支持者達である。彼等によると、それはパレスチナ人とアラブ外交の現実を単に反映しているだけのことであり、カタールを批判しても始まらない。この現実をもたらした責任はPAPLOにある。譲歩に譲歩を重ね、歴史的パレスチナの78%を放棄するアラブの和平提案をうちだすに至った、とハマス支持者達は批判する。


 ハマス系日刊紙Falastinによると、2011年12月6−7日、イスタンブルで開催されたアラブ・トルコ産業協力会議でも、カタールの地図に似た中東地図が展示された。それはラマッラをパレスチナの首都とする。組織委員会は、後に技術的ミスと釈明した。この事件に対して、ガザにあるイスラム大学の講師ダボール(Amin Dabour)は、武力抵抗の放棄とデモ弾圧のPAの政策が、カタールのような事態を招き、ラマッラをパレスチナの首都にするような認識の下地をつくったのである、と主張。さらに本人は、歴史的パレスチナを郷土と定義する統一見解をつくるべきである、と述べた※27。


 一方、前出Falastin紙では、コラムニストのシャワー(Issam Shawer)が、次のように主張した。


 カタールにおける汎アラブ競技大会の開会式で、アラブ人パレスチナ人の観客は、ウェストバンクとガザだけの小さな浸食地図を見て、驚愕した…アラブ諸政権は、パレスチナの地図を切り刻んだ元凶である。2002年のベイルート首脳会議で占領者イスラエルがくいつきやすいようにしたのだ。PLOがやったようにアラブ側は、降伏文書のなかで、1948年来占領下にあるパレスチナを全域放棄したのである。


 カタールは、パレスチナ大義がどのような状態にあるか(即ち、ガザとウェストバンクだけのミニ国家を進んで受入れるという状態にある)、苦々しい苛烈なリアリズムで示したのである。


 彼等はパレスチナの78%をあきらめた…カタールが怒らせた人々は、アラブ連盟に和平主導を中止するように求め、PLOには占領国家の承認及びスロー合意の放棄を要求しなければならない。和平主導と承認が放棄されれば、地図は再び全域図になる…」※28。


 写真5 パレスチナチームの勝利後、地図に抗議するパレスチナ人サッカー選手※29。


 ハマス支持者達は、譲歩したとしてPAPLOを批判する一方、イスラエル承認を拒否する自分達の運動が、難民の帰還権が完全に認められるならば、1967年の線を境界とする国家を受入れる、と強調する。この条件は、一口でいえば、イスラエル承認を実体のないものにしてしまう。さらにハマスの幹部達は、目的が全パレスチナの解放である、と言い続けている。つまりヨルダン川から地中海までの全域解放。引続き抵抗を支援し、歴史的パレスチナの全域奪回を意図するする。


 Falastin紙のシャワー(前出)は、次のように論じる。


 「占領国家の合法的存在を拒否しつつ、1967年以来の占領地に(パレスチナ)国家を建設することは、占領国家の合法的存在権を認めたうえで国家を建設するのとは違う。前者においては、1967年の線は暫定境界である。何故ならばそれは、歴史的郷土の一部にすぎないからである。後者においては、境界は恒久的なものになる。つまり、このミニ国家はそこで行きどまりになってしまう。ミニ国家が歴史的郷土になるなど、非現実的であり、許せない…前者の場合我々は、批判や非難をうけつけず堂々と全域を示すパレスチナの地図を掲げることができる。しかし後者では、カタールが示したような地図しか示せない…」※30。


 前出のダボール講師は、Falastin紙に次のように語っている。


 「67年の境界は、ハマスファタハにとって大きい違いがある。ハマススにとって1967年の境界を認めることは、紛争の終り、武装解除イスラエル承認を意味ない。つまり、抵抗をやめることではない。一方ファタハにとっては、1967年の境界承認は紛争解決、占領下エルサレムの大部分の放棄、そして恐らく難民の帰還権放棄を意味する」※31。


※1 2011年9月23日付WAFA(PA
※2 2010 年6 月2日付AL-Hayat(ロンドン)
※3 この開会式でモロッコの地図も展示された。それは西サハラを含まない地図であった。この地域は1979年にモロッコが一方的に併合したところで、その併合は国際社会から認められていない。西サハラを欠く地図の展示にモロッコ側ga
怒り、カタールは直ちに謝罪した。
※4 2011年12月10日付Maannews.net
※5 同上
※6 2011年12月11日付Palestine-info.info
※7 http://www.facebook.com/No.partition.Palestine?ref=ts
※8 2011年12月11日付palestine-info.info
※9 2011年12月19日付Al-Akhbar(レバノン
※10 2011年12月25日付Al-Ayyam(PA
※11 2011年12月11日付Alarabiya.net
※12 2011年12月12日付Al-Ayyam
※13 2011年12月12日付Maannews.net
※14 例えば、イスラエルパレスチナ側の交渉で、PAが大幅な譲歩の意志を表明したと称される場面で、アルジャジーラTVがリーク内容を明らかにした時が、そうであった。
※15 アラビア語で使われた言葉はイジュティハード(ijtihad)。ここでは、宗教法上の問題での個人的な判定を意味する。
※16 2011年12月18日付Al-Hayat Al-Jadida(PA
※17 同じく使用された言葉はイジュティハード
※18 2011年12月12日付Al-Ayyam(PA)。ザクタンは、アラブの春の前後におけるカタールの行動を非難攻撃し、次のように非難した。
 長年カタールは、財政援助やメディアによる支援を通じて、拒否戦線派を支持するような振りをしてきた。この種の支援はカタールに策を弄する余裕を与え、拒否戦線勢力―ヒズボラハマスそしてシリア―の注意をそらし、カタールの本性を見えなくさせた。そのカタールは、アラブの春について目下同じことをやっている。拒否戦線時代からの古い盟友シリアのような独裁政権に?反対?する振りをしている。近年カタールは、その偽善的な表裏のあるメッセ―ジを発して、アラブ政界を混乱させている…」。
※19 2011年12月11日付Al-Hayat Al-Jadida
※20 2011年12月13日付同上
※21 2011年12月11日付Maannews.net
※22 2011年12月12日付同上
※23 2011年12月16日付同上
※24 http://www.facebook.com/No.partition.palestine?ref=ts
※25 2011年12月14日付Al-Hayat Al-Jadida
※26 2011年12月14日付Alaahd.com
※27 2011年12月14日付Falastin(ガザ)
※28 2011年12月11日付同上
※29 2011年12月18日付Al-Quds(エルサレム
※30 2011年12月11日付Felesteen.ps(ガザ)
※31 2011年12月14日付Falastin

(引用終)