ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

真理愛の精神

矢内原忠雄大學について』(財圑法人東京大學出版會)(1952/1965年)

 學問を愛し、眞理を研究して止まない精神、すなわち私の言う「學問的精神」は、政治的權力・宗教的權力等に對して學問の權威を主張する。それは、學問は眞理の探求であり、そして學問的眞理の研究は事の性質上自由であることを要するからである。政治的權力もしくは宗教的權力の要求によって眞理の探求が曲げられ、時の權力者に都合のよい學説しか許されないような場合には、外見的にはいかに特殊の學問が榮えるようであっても、眞の學問の發達はあり得ない。それ故「學問的精神」は、學問研究の自由の拘束に對してはほとんど常に本能的に反撥するのである。
 これを應用的方面から見ても、學問に基礎をもたぬ技術もしくは政策は到底實を結ばず、かりに一時成立するように見えても、人類と國民に眞の幸福をもたらさない。(pp.5-6)

今日世界の國際情勢の變化につれて、日本の政治情勢にも變化の兆があり、再軍備論が學生諸君を刺戟することは少くないであろう。そのことは理解し得るところであるが、私が諸君に臨むところは、變轉する政治情勢に多く心を奪われることなく、むしろ落ちついた態度で勉學することである。淺く勉學した者は、世の中に出ても淺くしか働けない。深く勉學して學問的精神に触れ、眞理の為には何者をも恐れないという學問の權威に立脚する者だけが、世相の轉變によって波立つ機會主義者としてでなく、眞に勇氣あり節操ある社會人として働くことが出來る。(pp.8-9)

學問的にその根據を研究し、吟味してみなければならない。學問的信念に基づくか、もしくは宗教的信念に基づくのでなければ、時勢の變化によって動揺しないところの確固たる平和論をもつことは出來ないと思う。そしてそのような確固不動の平和論でなければ、これを絶對的眞理として主張するに値しないものではあるまいか。
要するに平和論もいろいろの根據から唱えられているのであって、少くとも學問にたずさわる者は、それぞれの平和論の根據を分析し、學問的もしくは宗教的基礎づけを深めなければならない。それが平和論だけでなく、すべて時局の問題に對してとるべき學生の基本的な在り方であると思うのである。(pp.10-11)

殊に專門的技術的な學問だけでなく、むしろ學問的精神、すなわち眞理の故に權力を怖れず、時流に迎合せず、また眞理を權力のために利用しないところの、眞理愛の精神を出來るだけ體得してもらいたい。また人間としての信念を養い、誠實な態度を以って行動し、出處進退を公明にするところの生活態度を學んでもらいたいのである。(p.12)
(引用終)

(注)原文では、「宗教」の「教」は旧字体になっています。
PS:「矢内原忠雄」先生については、過去の「ユーリの部屋」をご覧ください。
http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20090922)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20090923)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20090926)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20091124)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20100129