ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

いつの日か....

いつの日か、今年前半期を振り返ることがあったとしたら、何と感じるでしょうか。
意外な展開を伴い、とても不思議な時期だったけれども、私にとっては、関西に来てから、特に気になっていた部分でもあったので、事の核心がある程度はっきり識別できるようになったことは、重要だったと思います。

今日も実は大学図書館で、改革長老教会の『季刊 教会』について、製本された2009年までの全部に目を通し、必要な個所の続きを複写しました(参照:2011年8月22日・8月24日付「ユーリの部屋」)。
確かに、中には頭の堅い執筆者もいらして、聖書翻訳や讃美歌の新たな版が出るとすぐに、その詳細な検討もせずに、「何でも新しければいいのか」と頭ごなしに否定しているような文章も含まれています。ただ、ちょうど東と西の間で「安定した教区形成」をし、「再編後?の教団の姿を先取り」していると称される中部地方の出身者としては(2009年8月号『季刊 教会』No.76, p.1)、これでやっと両者が相対化できるというのか、バランスがとれて落ち着くのです。

おもしろかったのは、「日本の伝道論の混乱」と率直に指摘された記事(G.D.レーマン『「神の国伝道学」に学ぶ:現代の伝道論における混乱のルーツを探って』1997年5月 No.27, pp.14-21)。今回、時間不足で間に合いませんでしたが、これこそ私の疑問に思っていたことの一つ。もちろん、「伝道」ではなく「宣教」であり、用語でその人の神学がわかる、という側の言い分を踏まえてのことですが、他国のキリスト教史などを勉強し、アメリカの宣教雑誌を10年ぐらい購読している私にとっても、(それ、なんか変じゃない?)と感じさせられていたのに、嫌そうにはぐらかされて、まっとうなお答えがいただけなかった経験があるからです。

1948年から1961年までの期間は、神の伝道の働き手としての教会が強調された時期である。ミッショ・デイ(Missio Dei)、つまり神の伝道の概念が流行語になった時期でもある。この時期にはミッショ・デイが教会の伝道を言い表す新鮮な表現であった。(p.18)」
第二次世界大戦後の伝道論の第二の時期は1961年から1975年までであり、エキュメニカルな伝道学の論争において教会中心の伝道から決定的に分離した時期であった。ホーケンダイク(J.C.Hoekendijk)やヴァン・ルーヴェンA.T.van Leeuwen)などの思想に刺激され、世俗世界を高く評価することが盛んになった。(p.18)」
対話の可能性は取り戻された。しかし残念ながら、日本の教会の中に未だに1961年から1975年までの伝道論の脱線時代を脱出していない人達がいる。(p.20)」

そうなんです。何だか、ものすごく古〜い、懐かしい、骨董品みたいな文献が、今でも大事に紹介され、中には回覧までされているのです。若い頃、感銘を受け、影響されたからと言って、世の中も学問も変化しているのに、「進歩派」「革新派」だと自負している側こそが、むしろ遅れをとっているかのような悲喜劇....。

それに、もう成績が出たので公表しますが、今年1月になって初めて知った1982年の「リマ文書」に関して、学会でお世話になっている出村彰先生、そして加藤常昭先生などが、1990年代から問題を指摘されていたことです。(出村先生は1990年11月号No.1, pp.11-16、加藤先生は1994年5月号No.15, p.19)。その辺りは、正直なところ、私自身、推進側のお話だけ聞いたり読んだりして、戸惑いつつ、どこか非常に疑問だったので、(もっと早めにこちらを勉強しておけば、迷いも少なかっただろうに)と、悔しい思いがしました。
出村先生と言えば、2年前にICUでの学会で、「マレー人のための祈祷会」と題して、1930年代の一部の宣教師の活動を発表した時、帰りのバス停で「おもしろい研究してますね」と、ニコニコ声をかけてくださったのを思い出します。

それにしても、日本基督教団内部の論争と対立、つくづく大変な問題だな、と。直接の当事者じゃなくて、本当によかった、と言ったら叱られるでしょうか。とにかく、その人の発言の当否ではなく、自分達の仲間かどうかを確認して党派を作っているような印象を与え、何かとすぐ議論づく癖がついているのです。あたかも、今でも「青春」の延長を謳歌しているかのような....。

来週もう一度だけ、大学図書館へ行きます。ある雑誌の製本版を見ていて、特定の時期がキーポイントになっていることに興味をそそられたので。今では信じられないような檄文が掲載され、下の世代にとっては、何やらよくわからない混沌とした時期でもあるのですけれど。