貢献とは何か
復活祭で「希望」のメッセージを繰り返し教わりますが、裏返せば、それほど痛苦の多い世の中だという意味ではないかと思うのです。
イスラエルでも、あれほど世界中の人々が巡礼に訪れるということは、惹きつけるだけの魅力と必然性があってのこと。昨日は、2007年2月下旬から3月上旬に訪れた地を想起しつつ、半ば観光地化しているとはいえ、現地で約2000年前の現場に触れた経験が、自分に何をもたらしたのかを考えていました。
結局のところ、いくらきれいごとを言っていても、自分の利益にならないこと、自分の興味に外れることなら人はしないのだ、と(自分自身も省みて)落胆気分でもあったために、あの十字架と復活が、単に「書き記された物語」としてではなく「現場」として可視的に残されていること、その意義と工夫を思い返していました。
さて。
昨日の午後、小さな集まりがありました。この度の東日本大震災を契機に、これまで横のつながりなしに何となく暮らしてきた私達の敷地内から、いざという時、このままではまずいのでないか、との危機感を持った発起人の呼びかけが起こり、少人数の有志(および関心を持って様子見に来た人々)が、2時間半ほど、いろいろと話し合ったのです。
ただ、組織の維持は楽でも、立ち上げそのものは困難なことで、繰り返し集まって話し合わなければ何も進まないだろう、ということが一つ。そして、必要性を感じてはいても、しがらみがないからこそ気楽でいい、と思う人々も少なくはない中で、活動負担を一部に課すわけにもいかず、請け負いたくもないのが本音、というざっくばらんな意見も聞かれました。
「一家の代表」として出た私にとっては、ほとんど初顔合わせの人々に囲まれて、行政関連で知らなかったことを学ぶ一つの経験ではありました。また、これまで地域貢献としては何もしてこなかった負い目のようなものが、参加することで、手前勝手にも少しは軽減したような感触もありました。
その中で、同じ敷地に消防署勤務の消防士さんが二人住んでいることを教えられ、特にご年配の方達が信頼を寄せていることがわかりました。日頃、人命救助のために訓練を積み重ね、職務として何ができて、何ができないのかの法的な面も詳しいから、との由。
消防士さんと言えば、私も毎日、買い物に行く道で訓練を見ていますので、頭が下がる思いです。そして、思い出されるのが、9.11発生時に、みずから志願して救援に乗り込み、犠牲になっていった消防士さん達。緒方貞子先生が、テレビのインタビューで「昔から、ニューヨークの消防士さん達は勇敢だと言われていましたけれど、本当に勇敢で...」とおっしゃっていたことも、併せて思い起こされます。
今回の私達の小さな集まりでもやはり、消防署勤務の若い方が、最終的に名乗りを挙げてくださり、頼もしいなあと感じた次第です。それは、ひいては震災地や福島で活動中の自衛隊員達の士気にも共通するものだろうと思います。有事の際の自己犠牲精神。「犠牲」という語がふさわしくないとしても、自らの能力や技能や時間や命を差し出す、という行為。
それでは、そのような決意を促す根底の思想は、何に基づくべきなのだろうか。
2005年8月にアメリカのMITを訪問した時(参照:2007年10月20日付「ユーリの部屋」)、気づいたのは、円柱の並んでいるコリドア辺りだったかと思いますが、レリーフのような薄ベージュの壁に、戦死した学生達の名前がリストとして彫り込んであったことでした。あの学生達は、自分達の名が大学に残されるだろうことを知った上で、戦地に赴いたのか、それとも、家族やコミュニティ内での支えがあってこそ、勇敢に出て行けたのだろうか。いや、そんな俗っぽいことは眼中になく、ただひたすら、大義に促されて出て行ったのだろうか...。
阪神大震災で亡くなった学生達を追悼して、植樹をしたというキャンパスもあります。それも一方法。でも、物故学生の名前がオープンなスペースに彫り込んであるのと、大きく育つ木を植えるのとでは、文化の違いなのか、戦死と自然災害との相違に基づくものなのか、考えさせられます。