ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

根本のあり方を見つめ直そう

今朝も余震があったらしい(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20180619)。他地域も心配だが、とりあえず近辺情報を気象庁から。

https://www.jma.go.jp/jp/quake/quake_local_index.html

2018年 6月20日05時28分 大阪府北部 M3.0 震度2  
2018年 6月20日03時47分 大阪府北部 M3.5 震度2  

(抜粋終)
ツィッター地震関連情報には、誰が発信しているのか、被災地のことを考えずに書きなぐったようなものが目に余る。余震に備えるように伝えているつもりが、単に脅すような高飛車な記述も目立つ。
気象庁の情報から判断するに、危険度は大阪北部のみではない。書いている本人にも現実に起こり得るのだと想像すれば、そのような書き方にはならないのではないだろうか。
昨日、我が町では、昔は避難所の一つだったであろう体育館が閉鎖されており、近くの消防署は、普段の二倍の装備で、すぐに出動できる体制を整えていた。町立図書館もしばらく閉鎖とのことだったが、幸いにも偶然、ここ数ヶ月は予約もせず、借りることもなかったのはありがたかった。
マレーシアからは、思いがけず多くの方々からフェイスブック上で安否確認が届いている。マレーシアについては、ここ数年ご無沙汰だった上、知的活動としては何かとフラストレーションの残る場だったが、人情に関しては、古き良き日本を彷彿とさせるような温かさで抜群。言うことなし。かつての日本軍政時代を思えば、感謝以外の何ものでもない。
余震対策だが、地震の怖さとは、いつどこで発生するかわからないという不安感が常に付きまとうことと、有形無形に積み上げてきたものが一瞬のうちに崩壊してしまうということである。そのために、いくら準備を整えておいたとしても、次第に積もる精神的な疲労感は並大抵のものではない。

国際派日本人の情報ファイル
No.2787 H30.06.20 7,897部


人としての「まことの道」を見つめ直さう!
池松伸典

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 世の中がどんなに変って便利に効率的にならうとも、次々に問題が生起して課題が消えてしまふことはない。さうした根本の事実を見つめ直すことが、いよいよ大事になってゐるのではないか
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・「働き方改革」が議論されるやうになって企業では生産性の向上やスキルアップといふ掛け声の下、労働時間短縮などで快適な職場環境を実現しようとしてゐる。また家庭においては、IОT(Internet of Thingsモノのインターネット、様々なモノをインターネットにつなぐこと)やAI(人工知能)などの言葉で示されるやうに、かつては夢の如くに思ひ描かれてゐた「未来の快適な生活」が現実のものとなりつつある。


・以前と比べると随分と便利になったのは人類の叡智の結集の賜物であらうと感心するのであるが、その一方で変化がどんどん早くなってゐる中で、それに追ひつくのが忙しく、「何か大事なものを置き忘れてゐる」やうにも思はれるのである。


・逆に情報が多くなった分だけ作成する書類がふえて、その整理のために現場を見る時間が少なくなり現場での問題点をいち早く見つける眼力や、突発的に起きる事柄に対して臨機応変に対処していかうとする意志力が衰へてきてゐるやうにも感じられる。


・今年は明治維新150周年で、当時の人々の生き方が注目されてゐるが、明治の人達の逞しさや精神性の強さなどに私も引きつけられてゐる。彼らの遺した言葉を通して、その思ひを辿っていくことは、この「忘れてきてしまった何か大事なもの」に気づく大きな手立てになるのではないかと思はれる。


明治天皇は生涯93,000首を超える驚異的な数の和歌をお詠みになったが、中でも近代西洋と国運をかけて戦った日露戦争の最中の明治37年には6,500首近くもの御歌をお詠みになってゐる。その中の一つに次の御歌がある。

 

思ふことありのまにまにつらぬるがいとまなき世のなぐさめにして


・一口に「ありのままの思ひを見つめる」といっても容易なことではない。国家の危機に直面して、その重責重圧を担はれながら「いとまなき」中の僅かな「いとま」に短歌をお詠みになってゐる明治天皇のお姿を拝察すると、現実からお目をそらされることなく、ありのままを御覧になる中で人のまことをしみじみとお感じになってをられるお姿が浮んでくる。


明治維新で活躍した志士達に大きな影響を与へた吉田松陰が野山獄で行った孟子の講義録「講孟さっ記」の序には、次の言葉がある。

道は則ち高し、美し、約なり、近なり。人徒(ただ)其の高く且つ美しきを見て以て及ぶ可からずと為し、而も其の約にして且つ近、甚だ親しむ可きことを知らざるなり


・「人が踏み行ふ道は高貴で美しく、同時に分りやすく身近なものであるはずであるが、私達はその高貴さと美しさとを見てとても自分には叶はないと思って、それが身近なもので大いに親しむべきものであることを知らうとしない」と松陰は言ってゐるのだ。続けて、裕福になると欲望におぼれ、貧乏になれば苦しみもがく。どちらも人としての「まことの道」を見失ってしまひそこから抜け出られなくなってゐると説いてゐる。


・世の中の変化が激しく、便利になればなるほど人としての生きる根本のあり方が見え難(にく)くなるものである。そして世の中がどんなに変って便利に効率的にならうとも、次々に問題が生起して課題が消えてしまふことはない。さうした根本の事実を見つめ直すことが、いよいよ大事になってゐるのではないかと思はれる。

(部分抜粋引用終)

追記:今日も用事で町内二箇所を歩いたが、体育館は開いており、いつも通り、卓球の練習光景が見られた。
また、スーパーのパン売り場は、元通り、食パンが一列に並べられていた。だが、インスタントラーメンやお湯をかけるだけの野菜・卵スープの棚はガラガラだった。ラーメンに関しては、売れ残っているメーカー商品と売り切れたメーカー商品の差異化が激しかった。お茶のペットボトルも箱から商品棚に並べている従業員が見られた。コピーの複写を忘れて取りに行ったコンビニでは、おにぎりがよく売れていた。

しかし主婦の私からすれば、ガスが止まり、水が汚染されていたならば、ラーメン等を買い込んでもあまり意味はないし、名水をブランド化している我が町の町民が、水やお茶のペットボトルを買い占めている現象は、どこか矛盾していないだろうか?