ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

湯田温泉の中原中也

二泊三日、気分転換を兼ねた夏休みとして、初めて山口県湯田温泉と萩に行って来ました。少し日焼けしましたが、今日一日ゆっくりすれば、また元気回復するでしょう。
iPhoneのお陰で、情報キャッチアップは便利になりましたが、せっかく訳文作業や重苦しい中東情勢を離れたつもりでも、結局は、メール着信をチェックするはめに。これがよいことなのかどうか、私にはよくわかりません。
湯田温泉は、高校時代に教科書で出会い、一時は卒論のテーマにしようかとまで思っていた中原中也の故郷だということで、昔から訪れたかった場所。でも、出生地跡にモダンな記念館が開館されたのが平成6年2月とのこと。私の世代では、たとえ卒論レベルでも、せいぜい中也が暮らした山口と京都と東京と鎌倉の場所を地図を頼りに歩き回る他は、図書館の二次文献程度で終わってしまい、不足が多かったでしょうねぇ。また、その後もその路線で研究を継続発展させられるかと言えば、それだけの見通しが到底、つかめませんでした。三十歳で、当時の言葉でいうところの「不幸病」で夭逝した詩人ですから、二冊しか詩集がなく、一次資料に肉薄するにしても、その頃には限界があったと思うのです(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140621)。
それに、言葉の音のリズム感がうまくて、意味の組み合わせ方もおもしろくて、内省的で捻りを利かせた叙情詩ということで、青春の心には響くところがあっても、この年齢になってしまうと、現実に生活そのものを考えているためか、その他の情報とやらに紛れてしまうためか、(やはり、士族で軍医の裕福な家に生まれたからこそ、あえて詩才を生きる道が選択できたのだろう)と思わざるを得ません。
それが証拠に、年表の下の欄には、時代背景の説明として、ロシア革命やNEP設立や日本共産党の事例が出ています。つまり、貧富の格差が相当に大きかった時代で、単純労働でさえ食べていけるかどうかという人々が多かった中、フランス留学をしたわけでもないのにランボーなどフランス語の詩に影響を受けて翻訳をしてみたり、新たな日本語詩をつくっていったりという人生選択は、単に詩才があるからというだけの理由では理解されにくかった地方出身という環境も考慮する必要があるということです。
記念館には、かなり達筆の自筆原稿(原稿用紙や大学ノートや書簡などで複製版も含む)や本人および家族や交流のあった人々の写真を含めた一次資料の展示がありました。既に知っていたものと新たに初めて見たものとの識別作業を通して、学生時代の記憶の引き出しにしまってあった写真やら自然と覚えた詩の幾つか、文藝仲間との関係や家系図などを思い起こすことで、さらに一段と立体的に位置づけを理解できるようになった自分を見出しました。2007年に二度参加した中原中也の催しのお陰もあったかと思います(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20071030)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20071217)。(あの後、続きを書こうとして結局は書けないままに。でも、七年後にこうして湯田温泉を訪れて、やり残した課題と記憶をつなげています。)
年齢のおかげで理解が深まった点としては、養子同士の跡継ぎ長男として、相当に期待のかかった中也の内的葛藤の深さ。若い頃、読みあさっていた時には、いかにも詩人らしい、素行の悪さのみが印象的でしたが、実際には、世の中で詩を書いて身を立てることに対する時代の厳しさに抗う反発精神から来るものでもあっただろう、と今なら思うことができます。そして、夭逝した文也という我が子を殊更に可愛がり、親子二代かけて何か文学を成し遂げようと考えていた節も、昔から承知していたこととは言え、今回見た資料の中で改めて目が留まりました。この「親子二代かけて文学する」ことの意味については、若い時にはなかなか理解できなかった側面です。要するに、文学とは、あくまで個人創作なのか、親子で受け継ぐ創作であり得るものなのか、ということです。
そして、お母様がカトリックのクリスチャンだったということも、初めて知ったこと(ユーリ後注:これは、記念館内の展示パネルを見て取ったメモによる。お母様ではなく、その養父母がカトリックだとは知っていたが、お母様については不明だった。ところが、コメント欄の本を読んだところ、お母様ご自身は94歳の時点で「私はとうとう洗礼をうけずじまいに終わりました」と述べていらっしゃる。(『私の上に降る雪は:わが子中原中也を語る』p.129))もちろん、中也にカトリックとの接触があったことは学生時代に提出したレポートにも書いたので知っていたものの、当時の限界で、土地柄の影響以上には考えが及ばなかった次第。道理で、母方のいとこにあたる女性達が極めてハイカラな名前だったのですね。このお母様は、上京しても学校にもろくに行かなかった中也に仕送りを続けていたそうです。また、男の子ばかり六人生んだものの、そのうちの二人を中也よりも若くして亡くされたり、長男中也に関する世間の批判などで苦労続きだったようですが、なんと102歳(数え年?)まで長生きされたしっかり者だったとの由。晩年までずっと、記念館の向かって右隣の今は空き地となった家で、お茶を教えていらしたそうです。
記念館から歩いてすぐの、井上馨ゆかりの井上公園(井上公園だったのが高田公園に改称され、2012年に再び元の名称に戻された)にある中也の詩「帰郷」を小林秀雄の揮毫で彫り込んだ黒い詩碑の横で、「東京のお友達」(小林秀雄河上徹太郎大岡昇平今日出海)と市長さんと一緒に写った記念写真では、着物姿の満面笑顔で「これでやっと報われた」という風の実に屈託なき嬉しそうな表情をされていました。(小林秀雄だけは、内心複雑そうな、どのような表情をしたらよいのかわからない風の平面的な仏頂面。)昭和40年6月のことのようです。この石碑も、昭和とは思えないほど、実にモダンで洗練されたものです。ちなみに、この公園には種田山頭火http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120729)の句碑もありました。
記念館も二十周年を迎え、本当によかったですね。ある面、時代の先を行っていた中也を、心配続きながらも金銭面で支えてきたお母様あってこその今ということでもあるとつくづく思うことです。
また、遠縁に当たる上野孝子さんという中原中也の奥さんについては、上記の著名な文藝評論家の著述から、トランプ遊びの時、よく笑う無邪気な女性だったということ以外、どこか陰が薄く、その後がよくわかっていませんでした。今回知ったのは、次男の愛雅くんも二歳ほどで夭逝と、どうも淋しい人生のようだったのに、家系図ではかなり長生きされた方だということ。中也の末弟氏と同じ平成15年に逝去されたそうです。やはり女性は強いということなのか、中原医院の跡継ぎを務めた五男氏と六男氏や気丈なお母様の助言あってのことなのか、記念館での資料公開なしには知り得なかった事情です。いずれにせよ、四男氏の活躍も大きく、例えば家屋焼失の際、機転を利かせて中也原稿の束を外に運び出したために無事に残ったなど、奥さんの役割よりは、どうやら実家筋の力の方が大きいようです。あえて控えめに振る舞っていらしたのかもしれませんが。(後に調べたインターネット情報では、中原家の娘として40歳頃に再婚したとか。)
しかし、記念館の設立後、今年の2月時点でのべ60万人もの人々が来訪したとはいえ、資料公開となれば、関係者およびご遺族一人一人の意向を問い、許可を得る必要があるため、なかなか大変だったでしょうねぇ。こんなことも、卒論テーマにしようかと考えていた二十代では、思いもしませんでした。
恐らくは、詩そのものの陰鬱な叙情もさることながら、ほぼ一世紀前に生まれ、戦前に夭逝した孤独な詩人の儚げな生涯というイメージが増幅して、今のブームを生んでいる側面もあるのでは、と思います。
それにしても、東京で巡り会った文藝評論家や作曲家の顔ぶれが功を奏していることは否めません。恋人だったグレタ・ガルポ風の長谷川泰子小林秀雄に取られていながら、自分の詩集の出版依頼をするなど、一見不可解な行動ながらも、「東京の友人に恵まれた」からこそ、ここまで認められる詩人となったのでは、と思うのです。当時は300部から600部程度の出版だったようです。今ならどうでしょうか。
最後に、一番おもしろかったのが、閉館間際に外でシルバーボランティア風の門番係を務めていた地元のおじさんとの会話。東京の友人に恵まれて、と言った私に「いや、あんまり友達もいなかった人のようですよ」とバッサリ。「奥さんの方が背が高くて、本人は小さい人だったようです」「まぁ、普通なら家をどうしようとか、将来の人生設計をどうしようなどと考えるものでしょうが、詩を書いて生きていくなんてねぇ、それだけ純粋だったとも言えるんでしょうが、まぁ、変わりモンですわな」と。
文学は、常識人にはできません。
このおじさんは、そうは言うもののガイド役にぴったりで、ご近所ならではの口ぶりで、中原中也が結婚式を挙げた今でも残る大きな旅館をさっそうと指さしたり、長州山口から逸材が多く輩出されたことについても、「伊藤博文が偉かったと言うけど、どんなもんでしょうかねぇ。あの人だって敵方を殺したんでしょう?今から考えると、客観的に見て、ということですがね」などと、いっぱしの政談もどきを披露。記念館でひとしきり中原中也の叙情世界に浸り切った身を一気に振り払って、しっかりと現実感覚に戻してくれました。
いやぁ、国内の旅は、だからおもしろい。
実はその前に、フランシスコ・シャビエルゆかりのカトリック教会の展示も見てきたのでした。そして、その翌日には、バスで山中を走り、十万年前からできたという、日本一長い(と言っても1000メートルの)秋芳洞へ。その後は、萩に向かい、明治維新ゆかりの吉田松陰やそのお弟子達の足跡を辿りました。もちろん、温泉や河豚料理も堪能。贅沢ですね。
この続きは、また明日以降に。