ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

私がフランスに行けたなんて...

ロックスボロフ先生からは、この度の「ニュージーランド国難」とクライスト・チャーチの人々への励ましを感謝する、とのご連絡が入りました(参照:2011年2月23日付「ユーリの部屋」)。
救援活動には、台湾からも出動があり、一刻をも争う状況ではあるものの、今のところはなす術を知らず、といった状態のようです。マレーシアにおいてもエキュメニズム推進の指導をされている元宣教師らしく、「英国国教会、メソディスト、バプティストカトリック、その他の教会への損害は深刻だ。大聖堂については特に、人命が失なわれたことも含めて、本当に悲しい」と。
ロックスボロフ先生は長老派ですが、コメント欄には、今回の地震に対する、長老派としての状況分析が寄せられていました。さすがだなぁ....と感心している場合ではありませんが、救出作業が速やかになされ、一人でも多くの方が助かりますよう、また、破壊されてしまったインフラの復旧も、各国の英知を結集して、と願うばかりです。

ところで昨日、カメラ二台を駆使しての、お正月から仏旅行の期間中に取った写真、計536枚が現像されてきました。手続きは、すべて主人がやってくれたものですが、「実はあまり見ていない」のだそうです。
萩原朔太郎が「ふらんすへ行きたしと思へども/ふらんすはあまりに遠し」と詩に謳ったのは、確か「旅上」でしたでしょうか。同時代の永井荷風島崎藤村は、フランスを訪れる機が得られたようです。
高校生の頃に知った、この朔太郎の気持ちを、航空機の発達した現代に生きる私も、ゆめ忘れてはならじ、と思います。経済格差の著しい今、決して浮かれている場合じゃありません。
ともかく、私にフランス訪問の機会が与えられるなんて、想像もしていませんでした。実は、医学系大学の教授を務めていたという、母方の祖母の弟(つまり、もう一人の私の大叔父)がフランス留学組だったと聞かされたことがありますし、主人も弟も、ずっと前から、国際学会でフランス(ないしはフランス語圏)へは行っていたようです(参照:2008年2月29日付「ユーリの部屋」)。妹も、大学卒業後に「フランスに行ったよ」と電話で言いました。でも、私にとっては、いずれもまるでよそ事。長年、アングロサクソン諸国かドイツばかりに目が向いていて、フランスにはご縁がないものと思い込んでいました。
「よく、ご主人が許してくれましたねぇ」とも言われましたが、そこは、主催者だった神戸バイブルハウスの功績のおかげでもあります。空き時間と関心が一致しさえすれば、時々、私が神戸に出向いていることを主人はよく知っており(参照:2007年12月6日・12月14日・2008年1月17日−18日・1月21日−22日・1月25日−26日・2月4日・10月10日・2010年10月1日付「ユーリの部屋」)、帰宅後にはいつも、「今日はどうだったかい?」と尋ねてくるからです。(それなら安心だ)ということなのでしょう。
今から思えば既に遠い彼方の昨年10月、神戸バイブルハウスから封書でチラシが送られてきた日に、なぜか迷わず「行く!」と一人で即決し、その場で電話をかけたのです。既に二十数人の参加者が見込まれているとのことで、申込みのファックスをすぐ送るように言われました(参照:2010年10月13日付「ユーリの部屋」)。仕事から帰って来た主人にその旨伝えると、あまりにも突然のことに「え!イギリスじゃなくて?」とびっくりしていましたが、すぐに了承し、「フランス語がわからないなら、何か発生した時に不安じゃないかい?」とフランス語の本を注文してくれ、ついでに、「出発までに、新しいカメラも格安で見つけてあげよう」という....。この話をしたら、昨日ご紹介した「ハイチのシスター」のご親戚である素敵なおじさまから、「ごちそうさま」と言われてしまいましたが、同時に安心もされたようです。
と、例によって話が逸れてしまいましたが、私にとってのフランスとは、音楽ならドビュッシーラヴェルやサン・サーンス、文学ならば、学部時代に読みふけっていたスタンダールモーパッサンバルザック、フローベル、そして子ども時代になじんだヴィクトル・ユーゴーといった具合....。しかし、どうがんばってもファッショナブルな素地とは縁遠い私には、文化的あるいは知的に洗練されてはいるけれども、物価が高くて上品に気取った冷たい土地柄がフランスであり、フランス語に誇りを抱くあまり、外国人には英語も使わない閉鎖的な人々、という偏見を、いつしか持ってしまっていました。
ところが、実際は全く異なっていたんです!もっとも、過去の植民地政策に対する深い反省と現在のEU政策によって、文化的衝突や敵意を克服しようと、若い世代を中心に交流や相互理解が促進されているという流れを踏まえてのことでもあってでしょうし、私達が訪れた場所がカトリック巡礼地であるということもわきまえていなければなりません。留学や仕事で滞在したならば、また違った側面と出くわすことでしょう。しかし、今回の旅に限れば、人々は概してどこでも大変に温かく、誰に対しても「ボンジュール」とにこやか。しかも、意外と質素で、ウィットとユーモアに溢れ、いかにもラテン気質のおおらかな社会だということが、よくわかりました。単純なようですが、認識が一挙に改まりました。
フランス料理といえば、私共の結婚披露宴に京都市北部のフレンチ・レストランを選んだことからもうかがえるように、高度に芸術的で審美的な感覚を試されるというのが、日本での一般通念。でも、実際に今回味わったのは、どこでも、前菜−メインのお肉か魚料理−ケーキかアイスクリームのデザート、という素朴かつどっさりとした一品料理風。でありながら、ぶどう酒もパンもとてもおいしく、(ついでにビールまで)爽やかでした。
恐らくは、いくら世俗化したフランス社会とはいっても、長年にわたって根付き、染み込んだカトリシズムの精神と伝統が、今も生き生きと活きているということではないでしょうか。与えられるすべてが神の恵みであるならば、感謝してそのまま受けとめよう、享受しよう、という習慣の表れではないかとも思いました。
そして、アルバムに写真を整理しながら感じたのは、同行されたカトリックのおじさま、おばさま達の醸し出す、華やかでダンディでおしゃれで明るくおっとりした雰囲気。一人果敢に参加させていただいた私は、大半の方々にとって、まるでご自身の娘や嫁とほぼ同世代に相当するのでしょうが、本当に多くを学ばされました。聖母マリアプロテスタントでは「イエスの母マリア」)に対する崇敬の念を抱きつつ、日々の暮らしを送られているからなのか、それとも、洗礼名を通して各人の信仰の諸先輩に倣う者となるべく、日頃から意識されているからなのか、とにかく、プロテスタントとは、この点において、何かが決定的に違うという印象を受けました。断るべくもないことですが、もちろん、その是非を問うているのではありません。
一つのヒントとなったのが、今回の団長を務められた、池長大司教さまの鷹揚かつ筋のピシッとされたご人徳とご教導の賜物ではないか、ということ。カトリックヒエラルキーについては、伝統を尊重しつつも、思うところが皆無だとは言えないものの、人の上に立つべく育てられ、訓練された方が及ぼす感化には、相当なものがあると、今回の旅を通して、つくづく感じました。
写真の中の私は、自分でもびっくりするぐらい、うれしそうです。道中、「もっと笑いなさい」と、上記のハンサムなおじさまから何度か言われましたが、この温かい和やかな雰囲気に包まれて、おのずと幸せな気分になれました。
おじさま、おばさま達から習った一つの教訓は、老境に向かいつつあるこれからは、心も身なりも、品よくおしゃれに装わなければならないということ。もっと丁寧で上品な言葉遣いを心掛けなければ、ということ。(夫に結ばれている限り、結婚したら、おしゃれなんてもう必要ない。内実が肝心)と思って、これまでなりふり構わず、バタバタ過ごしてきましたが、多少はおっとりと優雅に暮らしたいものだと願わされました。
最後に、靴の話。
フランスの冬は激寒だとのことで、しっかりした重いブーツ靴の方もいらっしゃいましたが、荷物を増やしたくなかった私は、近所の生協へ歩いて買い物に出かける時の、布製の普段靴で通しました。寒かったら靴下を二枚にすればいい、と考えてのことです。それで正解でした。それにしても、ノートルダム大聖堂ルーヴル美術館ヴェルサイユ宮殿などパリの街を、ヌヴェールの静かな修道院や古い大聖堂や教会へと連なる街並みを、ルルドの広大かつ華麗な大聖堂やシャトー(城跡)を歩き回ったこの靴が、今、住み慣れた関西の小さな町の地面に再び触れていると思うと、何とも不思議な気がしてなりません。

PS:「ルルドに行ってみたい」と書いたのは、2008年6月17日付「ユーリの部屋」の「コメント欄」です。見事に、夢がかないました!