ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

クリスマスに寄せて

先日、ローマ教皇に関する講演会の話を書きました(参照:2010年12月19日付「ユーリの部屋」)。その時、「アフリカなどで援助活動をしているカリタスについては、悪く言う人は誰もいない」ともうかがいました。
カトリックではない私も長らく、ささやかながらカリタスに献金を続けています(参照:2008年1月30日・2009年12月19日付「ユーリの部屋」)。報告書を見て驚いたのは、毎月あるいは隔月に、相当な額が集まっていることです。やはり、活動に意義があると認められるからこそ、そこにお金が寄せられるのでしょう。さらに驚くのは、「献金の使い道の内訳」に印をつけると、その通りに領収書が分散されて送られてくることです。「小事に忠実なる者は大事にも忠実」の実践を示されているように思います。
ただ、上記のご発言を聞いた時、何だか微苦笑を禁じ得なかったのは、講演会の主催者が、数年前、私に「カリタスのようなクソ真面目な団体もありますからね」とおっしゃったことです。もうご本人は忘れていらっしゃるかもしれませんし、プロテスタント系大学としては、あくまでカトリックを皮肉る立場に表向きは徹するというポーズを示されただけなのかもしれません。でも、聞いた直後はいささかショックでもありました。恵みを分かち合う精神や、少しでも社会公正へと近づける地道な運動として、専門的な活動を世界的に展開されているカリタスに、私なりに多くを教えられて恩義さえ感じていたからです。
このように、一見表には出なくても、その内実が露わにされることで、真意が透けて見えるということは、世の中によくあります。
ヨハネ・パウロ二世がパーキンソン病を患い、職務が困難になったかに見えた頃、それでも教皇職を辞すことはしない、と公言されたことに対して、「教皇の権力志向だ」と書いていた女性新聞記者がいました。彼女の書く記事は、いつも署名入りで著作もあり、今は出世もされている方ですが、当時も今も、(ちっとも分かっていない人なんだなあ)とあまり尊敬する気になれません。もし、ヨハネ・パウロ二世が病気のために教皇の地位を降りるとなったら、全世界のパーキンソン病患者および多くの病める人々をどれほど落胆させたことか、ひいては、「ローマ教皇さえやめたのだから、お前もやめろ」と、患者に対する職の解雇の潮流さえ出る可能性もあるのに、それに対しては、どのように考えているのだろうか、と思ったからなのです。
現に、ヨハネ・パウロ二世が亡くなった日に、女子パウロ会のシスター宛に弔辞のメールをお送りしたところ、即座にお返事があり、「同病者であるご主人のために、教皇様の執り成しを祈ります」と綴られていました。祈りとはそういうものではない、祈ったから病気が治るものではない、と反論が来そうですが(事実、そういう理路整然とした文章を送ってきたプロテスタントの方がいましたが)、理屈の上では正しくとも、人の気持ちも事情もまるでわかっていない反論ではないかとも思います。シスターのメールによって、私自身、どれほど励まされ支えられたことか、お会いしたこともない方ですが、大変ありがたく思い出される次第です。
こういう点からも、カトリックは温容で懐が深く、経験知に富んでいると感じます。プロテスタント圏には自殺者が多く、カトリック圏には少ないという話も、むべなるかな、と思います。

クリスマスの小話として、一言述べさせていただきました。