ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

‘Brown Sahib’

昨日付ツィッターに一言だけ載せた‘Brown Sahib'について、少し補足説明を。
ナイポールの作品に対する批評は、賛否に分かれているようです。その理由は、重複になりますが、トリニダードというカリブ海で生まれ育ったいわゆる「第三世界」出身のインド系三世にもかかわらず、混迷の度合いを深めているムスリム世界(イラン、パキスタン、マレーシア、インドネシア)を、時期をおいて二度訪問しながらも、ムスリムに共感するどころか、高見から批判しているかのように描かれているからです。一方で、過去の植民地支配に対する表向きの良心の咎めから、また、「政治的正しさ」から、そのような土地の人々に対して、公然と批判を展開しにくい西洋人にとっては、都合のいい代弁者をナイポールに演じてもらっているというわけです。
....という、いわば予想された反応を見ているうちに、セピア色になっていた十数年前の思い出が甦ってきたのです。つまり、‘Brown Sahib'。
この語彙を知ったのは、当時、クアラルンプールに在住していた英国人のマーティ夫人から、「この本、少しだけ貸してあげるわ。多分、あなたの関心を引くんじゃないかしら」と言われて手にとった本のタイトルでした。カンのよい方はご存じだろうと思いますが、スリランカ人の著述家 Tarzie Vittachi(1921-1993)の "The Brown Sahib Revisited"(1987)です。
そもそも、なぜクアラルンプールの高級住宅街にあった一軒家に住むマーティ夫人の所へ、私が勇ましくも一人で出かけて行ったのか、と言えば、英語の添削をお願いしようかと思っていたからです。ブリティッシュ・カウンシルのクラスで知り合った日本人女性からのご紹介でした。彼女達は二人とも、ご主人の勤務の都合でマレーシアにしばらく住むことになったものの、パートなど、公然と職に就くことが禁じられていたために、あまり余る南国での主婦時間の合間に、自宅で英語の個人教授をしたり(マーティ夫人)、ブリティッシュ・カウンシルとマーティ夫人の家で英語を勉強したり(日本人女性)して、優雅に暮らしていたというわけです。
その頃の私はと言えば、とにかく今思い出してもどっと疲れそうなぐらい、生きるか死ぬかという感じで人生(と英語)そのものと格闘していたので、お二人を心底うらやましく思っていました。
英語の個人教授とはいえ、マーティ夫人にはれっきとした「人種区分け」があり、「マレー人は約束の時間に遅れてくるから、できれば引き受けたくない」「華人は.....」「インド系は....」など、態度が実にはっきりしていて、その中で「日本人ならいい」ということだったそうです。今から思えば、私もいいカモの一人に過ぎなかったのでしょうが。そう言えば、飲み物もコップに入った水一杯で、(日本人なら、お茶ぐらい出すのになあ)と感じたことも、まざまざと甦ってきます。
とにかく、先生としてはよい方だったのだろうとは思いますが、二度ほど訪問して、相性が合わないことがお互いにすぐわかり、いつの間にか自然消滅してしまいました。ですから、本当に久しぶりに、彼女と彼女が貸してくれた本を思い出したというわけです。
もちろん、必死さのあまり、せっかくのことなので「先生」がお勧めくださった上記本を読みました。案外、読みやすい英語だったかと記憶しています。しかし、読ませてもらっての読後感は、ただ一言、‘混乱’。結局のところ、植民地支配に関しても、日本側のマラヤ支配と英国側のマラヤ支配とでは、言語政策一つとっても土地の人々に与えた影響が交錯している上に、個人としての自分の立ち位置が定まっていなかったからでしょう。あの頃、そのことを指摘してくれる人さえ、周囲にはいませんでした。
例えば、マーティ夫人が苛立っていたのは、マレーシアの新聞広告や道路の看板に掲載されている間違いだらけの英語表記。「この例を見て。オフェンシヴじゃない?」と言われても、こちらにとっては、そういう英語にも慣れていかなければ、土地の人との会話ができないしと、二重に荷物を抱え込まされているような気分。かつては日本語教師だった者としても、複雑な気持ちにさせられた次第。一方、マーティ夫人が直してくれるのであろう「正確で教養ある英語」を、もし私が身につけたとしたら、今度は恐らく、土地の人から(日本人のくせにスノビッシュ)だとか何とか、おかしがられることでしょう。両者の立場がわからないでもないだけに、あたかも「バナナ共和国人」になったような気分で、ぐっと憂鬱になりました。
もう一つ、輪をかけて私を憂鬱にしていたのが、その頃のマレーシア政府が自ら推進していた「国語キャンペーン」。つまり、マレー語のみを国語として、すべての人々があらゆる場面で使用するよう、あちらこちらに標語が掲示されていたのでした。マレー語使用を推進すれば、英語力が落ちるのは目に見えています。そして、マーティ夫人の苛立ちもますます募る。その一方で、「よい職に就いていい暮らしをする」ためには、英語に磨きをかける必要性も高まるのは当然で、しかしそれができる階層は、家の中でも英語を話しているような、上流階級および都市部の中上層階級に限定される。(一体、この国は何がしたいんだ!)と、新聞を読みながらも、毎日のように怒り、混乱していた私でした。
この怒りと混乱は、私のせいというよりも、混沌とした多民族多言語社会マレーシアの言語政策の実情を反映しているとも言えます。
とにかく、その中でも要領の良い生き方を満喫している現地の一部の階層ないしは人々を、揶揄的に指して‘Brown Sahib’と呼ぶようです。
ナイポール作品をおもしろく読めたのは、以上のような経緯が私にあったからだろうと思います。
そして、今考えても、言語政策がこのようにふらふらしているならば、と、社会言語学の要素も多分に含む聖書翻訳にリサーチの重点を移行させたのは、我ながらよい選択だったと思えます。
ついでながら、仲介役となった日本人女性は、その後、大変難しいと評判の英国の英語試験に合格し、まもなく赤ちゃんも産まれたと聞きました。彼我の差違は、こんなところにも現れていたのでした。