ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

終戦/敗戦の日に

今日は8月15日。65回目の終戦/敗戦記念日です。今年はひときわ、戦争に関する報道や記事がメディアで目立つように思います。戦争の記憶が風化しつつある昨今の傾向と同時に、どこか内向きで右傾化した風潮に対して、警鐘を鳴らす意図があるのではないかと感じます。
私事ながら、いったんマレーシアと関わった以上、オキナワ、ヒロシマナガサキの惨事に対する被害者意識もさることながら、加害国の子孫としての責任を果たすべく、問題意識を持続すべきなのは言うまでもありません。これは本当に重荷で複雑で、以前もこのブログに書いたように、あの日本軍占領期と華人虐殺さえなければ、もっと楽しくマレーシアのリサーチが進んだのではないか、と何度も感じたことがあります。
とはいえ、私と接してくれた現地の人々は、予想に反して誰もが親切で寛大で、むしろ私の方が当時のことをいろいろ知りたがったぐらいでした。「いいよ、あの時期のことは、もう過去だから」「あの時の日本人と今の日本人は全然違うよ」と気を遣ってもらうたびに、「でも、私達は事実を直視しなければならないから」と言い張ったのは私でした。もちろん、マラヤ軍政研究の文献は一通り、目を通してはいます。
実は、「英領植民地時代の方がよかった」という声を、現地の人から聞くことが時々ありました。それを日本で言うと、途端に顔をしかめた、「脱植民地」テーマを志向する研究者がいました。恐らくは、日本軍政時代と比較すれば、英国の植民地経営の方が遙かに上をいっていたことも踏まえての声だと思います。また、独立して自国を自分達でつくり上げたいのはやまやまだとはいえ、今のマレー優遇政策およびイスラーム化政策の恩恵から外されてしまっている諸民族の人々にとっては、その一部に「あの頃の方が皆、仲良くやっていたではないか」と懐かしむ人が出たとしても、否定はできないと思うのです。
さて、南メソディスト大学のロバート・ハント先生とは、かつての「ロン・ヤス」ならぬ「ロバート・ユーリ」と呼び合う関係になりつつあります。実は数年前に、ハント先生の方から名前で呼び合うよう提案があったのですが(参照:2009年12月30日付「ユーリの部屋」)、当時は私にどこか抵抗感があり(だって、お会いしたこともなく、10歳も年上の先生なのですから)、こちらから遠慮してしまいました。すると、「ユーリ夫人」と呼ばれてしまうはめに...。それも何だかおかしな感じだということに気づき、今回、晴れて訂正を申し出たわけです。
テキサス出身とのことで、保守的な南部アメリカ人の典型かなと、こちらが一種の偏見を持っていたのですが、いろいろわからない点を質問して教えていただいているうちに判明したのは、いわば、よきアメリカ人の一典型だということです。気さくで親切で、ちょっと単純で、自分の非を認めたらすぐに謝り、丁重な物腰で対応するところは、さすがに余裕のある感じがします。自分ができることなら何でも社会貢献を買って出るという、アメリカ人のよい面がそのまま出ていると思います。
マラヤ大学歴史学科で博士論文を書く傍ら、マレーシアやシンガポールで宣教師として神学校で教えつつ、マレーシアのキリスト教の教派史やムスリム理解のためのクリスチャン向けの本を書いたりした他、その後のウィーンでも数年間、英語使用のメソディスト教会の牧師を務めながら、アメリカ系大学の教員として宗教(学)を教えていただだけあって、必ずしも学究肌ではないけれど、それなりに幅のある物の見方のできる方です。少なくとも私の知る限り、マレー語とドイツ語ができるそうです。
そうそう、1990年初期には、私がマレー語を習っていた場所と同じところで勉強されていて、なんと、そこのマレー人の先生が「ここに来ているアメリカ人男性には、マレー語で聖書を読んでいる人がいるのよ」と私に自ら教えてくださったことが、そもそもの間接的接触の始まりでした。「え!先生はマレー人なのに、アメリカ人にマレー語で聖書を読むことを教えていらっしゃるんですか?そんなこと許されているんですか?」と驚いて尋ねた私に、「ボレー(Boleh)!だいじょうぶよ。聖書は聖書。マレー語はマレー語。私はムスリムだけど、その人はアメリカ人でクリスチャンだから、勉強したいなら、読み方や意味を教えてあげたって問題ないわよ」とにこにこしながら、きっぱり言われました。
「あ、じゃあ、私もそうしたいんですが」と申し出ると、「だめです。その人は、毎日ここへ来て、午前と午後のコースの両方を取っているし、時々、集中コースも受講しているのです。もう、すごくマレー語ができるのよ。あなたみたいに、週一回、二時間だけ来る人とは、レベルが違うのです」と、あっさり断られてしまいました。それにしても、すごいアメリカ人がいるんだな、さすが、意気込みが違うなあ、と素直に感銘を受けたものです。
と同時に、ある種のおおらかさが、あの当時の英語教育を受けたマレー人には、まだ残っていたように思います。そしてそれを、密かに改宗行為をたくらんでいるのだと非難するような、狭くとらわれた考え方も出なかったのです。いわば、現代女性版アブドゥッラー・ムンシ(参照:2008年10月25日付「ユーリの部屋」)。もっとも、外国人にマレー語を教えるのが仕事、つまり「商売」なのですから、生徒なる「お客さん」に対して、そんな厳しい態度がとれるはずもないとは思いますが。
そのマレー人の先生は、イポー出身で独身だと自己紹介されていました。おしゃれでお化粧が多少濃いめで、スカーフもせず、いつも、短くピッタリしたタイトスカートをはいていました。ただし、金曜日だけは、聖なる日だからとのことで、民族服であるバジュ・クロンを着ていました。休みの日には、プールで泳いだり、本を読んだり、一週間たまった掃除や洗濯をしたり、映画を見たり、友達とお茶したりして、自由に過ごすことが好きで、働く女性のシングル生活の醍醐味を満喫しているようでした。
田舎(カンポン)に帰ると、マレー人同士では、なぜ結婚しないのか、とうるさく言われるものの、「私の教えているアメリカ人なら、理解してくれます」ときっぱり。どうやら、今から邪推するに、それはハント先生のことも含めてではないか、と。別に、同意という意味で理解しているわけではなくとも、それはそれとして認める、というのか、マレーシアにわざわざ来て、マレー語を学んでいる立場の人が、先生の未婚状態をとやかく言うはずがないのであって(私だって、何も言いませんでしたから)、その会話は今から思い出せば、ちょっと滑稽です。でも、当時の私には、何だかとても新鮮な話のようで、(マレーシアの方が進んでいるのかなあ)などと、妙に愚直にとらえていました。

太平洋戦争のこととなると、どうしても対米関係および米国占領政策についても考え込まざるを得ないのですが、こうして、マレーシアを通して昔の他愛もない経験を思い出すと、とにかく、個人レベルで何かつながりがあれば、国レベルでの政策討議とは別に、もっと具体的な相互理解への道が開ける可能性があるのになあ、とも思うのです。