ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

相手の目線に立つ

突然ですが、あることばの使い方について、ふと立ち止まりました。
・「親の目線に立って話しなさい」と子どもには決して言わない
・「先生の目線で発言しなさい」と生徒や学生には言えない
・「日本人の目線に合わせなさい」と外国人留学生に指導することは稀である
つまり、「相手の目線に立つ」とは、一見、相手に対する思いやりや理解を促した表現のようでいて、実は目線を同じくする相手や対象は、自分より上位にある人ではないという条件が加わるのではないでしょうか。むしろ、相手を、保護の必要な低く弱い劣勢にある人と位置付けるからこそ、この表現が出てくるのかもしれません。

ところで主人は、私よりも30センチも背が高いのです。主人が片手を曲げてとれる台所用品も、私なら椅子を持ち出したり一生懸命背伸びしたりして、手を伸ばしてとらなければなりません。ですから、主人が私の目線に合わせることは可能でも、私が主人の目線に合わせることはできないのです。さらに、5歳の年齢差もあるので、結婚してからずいぶん視野が広がったように思うし、理系の実務から、論理的な考え方を教えられました。
それがため、身長が高ければ、世の中の眺めや見方や感じ方も、ずいぶん異なるだろうと想像できます。
アメリカにいた頃、いわゆる白人系の専門職の人々と、主人は臆することなくアグレッシヴに渡り合っていたというようなことを、上司が披露宴でおっしゃっていました。多分それは、背丈がほぼ同じだからでもあるかと思います。服や靴のサイズも、アメリカでは困ることがなかったそうです。
一方私は、誰に対しても、どうしても見上げる姿勢になるので、相手はこちらを小さい人と思って前かがみになってしまいます。つまり、どこかで保護者気分になるのだろうと思われます。

ある時、ムスリムの先生が、「人間が平等であるとは幻想だ。早くその幻想から解放されなければならない」というような意味のことをおっしゃっていました。一瞬(え!)と思いながら聞いていましたが、身長でこれだけ‘目線’が異なることを思えば、確かに人は平等ではあり得ません。
ただし、機械的な「平等」ではなく、誰でも生まれてきた以上は、幸福を求めて一生懸命に生きているという意味において、すべての人は価値を平等に付与されているし、そうあるべきだと、私は考えます。それは、一人一人に与えられた権利でもあるのです。残念ながらそうでない国もたくさんありますが、少なくとも我が国では、法によって保障されてもいます。法とは、秩序としての規則をただ明記するのみならず、理念や達成目標を提示する方向性をも持っています。であるならば、目線がどうであれ、私としては、やはり理念を目指していきたいものだと思います。

総選挙まであと一週間を切った今、マレーシアの選挙活動は、もっともピークを迎えているようです。今回の特徴は、英語版ブログ‘Lily’s Room’(http://d.hatena.ne.jp/itunalily2)でも連載しているように、それまで非政治的で沈黙を守りがちであった、都市部の英語を話す中流階層のクリスチャン達が、支持層としては野党側に回っていることです。もちろん、クリスチャンの立候補者が野党に含まれるからでもありますが。
早朝のNHKラジオでニュースを聞いていた主人が、「現地滞在の日本人へのインタビューを流していたけれど、それを聞くと、いつもユーリが喋っている内容とその人のマレーシア観察が、ほぼ同じだね」と言いました。そりゃそうですよ。マレーシアに関して、私は自分の勝手な思い入れや主張を言っているのではなく、現地ベースで見聞した内容を基本としているのですから。
ただし、マレー人の言い分は、それはそれでわかるのです。学校を出て初めての海外勤務が、マレー人に教えることでしたから、思いも深いのです。それだけに、今の研究テーマが葛藤多きものであることも、また事実です。マレー人がマレー語で語ることが、肌感覚で伝わる部分も多いので、それに反する見解を打ち立てることが余計に難しく感じられるのです。マレー人の多数派と拮抗する形で、上記の理念に近いものを、非マレー人、特に中上層の華人やインド系が英語で主張すると、正直なところ、心が引き裂かれそうにもなります。