ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

「白熱教室」を見て...

Twitterにも載せましたが、昨晩、Michael J. Sandel教授の"Justice: What's the right thing to do?", Penguin Books, 2009が届きました。
しばらく前から日本語訳も近所の図書館に予約してありますが、私が読む本にしては珍しく「予約待ち人数7人」と言われました。翻訳では訳者の考えが入ってしまっているのでは、と迷っていたところ、原書のペーパーバックの方が安くてすぐ手に入ることがわかり、注文したというわけです。
NHKテレビで放映された、ハーバード大学での公開講義の人気、来日時の特別講義番組も好評、ということで、私もYou Tubeでしばらく楽しんでいました。そもそも、普段はめったにテレビを見ない生活のため、数ヶ月前に「これ、おもしろいよ」と紹介してくれたのは、主人です。
そこで、東大の安田講堂で開かれた来日講義の様子をテレビで二週続けて見たのですが、さすがは「白熱教室」、飛行機を降り立った時から講義が始まっているかのようなシャープなノリ。真剣勝負で当然のように時間超過。若い人達も積極的に挙手し、堂々と英語と日本語の両方で意見を述べていました。参加者は、東大生の他にも一般公募で集めたようですが、さまざまな職業や立場の人々が、刺激を受けて、興奮状態で感想を語っていました。
ただ、一視聴者として私が素朴に感じたところでは、日本の公開講義では、申し訳ないけれども、何だか、哲学的議論という場の割には、単に自分の意見の主張のぶつけ合いのような段階で満足しているような印象もなきにしもあらず、でした。部分的に、(あのような話なら、私でも、小学校5,6年の時にクラスでやっていた)という記憶があるからです。
アメリカの大学での講義の場合、相当のリーディング課題やレポートが前提とされていて、公的に議論する以上は、自分の見解に哲学者の名前を添えたり、哲学的な枠組みにのせて身近な話題と結びつける主張であるのに、どうやら日本では、そこが省略されてしまっているように思いました。例えば、「だって、私の弟なんです。家族をまず信頼しなければ、どうして共同体や社会を信じられるんでしょう?」のような、まるで前イスラーム時代の古代アラブの部族社会を地でいくような発言が、平気で若い女性から出されましたが、本人としては、人前で英語で自己主張できたという点において満足かもしれなくても、公共の場、という視点が完全に抜けている点で、問題あり、です。
学部生の時、「西洋哲学史」を教養科目で履修しましたが、先生がただテキストを読み上げて、ダラダラ話すだけで、こちらもやる気が失せました。「日本の大学なんて、そんなもんだよ」と言われますが、時間とエネルギーの無駄に他なりません。一方、日本版「白熱教室」が注目を集め、若い人達が積極的に話そうとしたのも、サンデル教授が真剣に自分の発言を受けとめてくれるだろう、という期待、いや、受けとめられたい、という願いが、まず先立ってのことではないか、と感じました。もしそうだとすれば、換言するなら、日本の大学教授には、これほど熱くなれる人材が欠けているということなのかもしれません。
サンデル教授の議論の進め方に関しては、素人勉強ですが、ユダヤ教における聖書の解釈と似たようなところがあるような気がしました。私の限られた経験によると、日本のキリスト教会では、聖書解釈は「牧師先生の解き明かし」を黙って素直に聞くことが重んじられ、聖書の文言に対して疑問を少しでも持とうものなら、「ただ信じることの方が大事です」と、信仰における従順さを盾に言い含められてしまうような傾向があったように思います。それは危険ではないか、と長年思っていたところへ、ユダヤ人の聖書議論では「学ぶことが礼拝」「問いが重要」だと考えられていることを知り、目が開けました。例えば、聖書の一文一文に対して、「どうしてこのように書かれているのか」とあらゆる角度から疑問を提出して、見解をぶつけ合うのだそうです(参照:H.N.ビアリク他(編)ミルトス編集部(編訳)『賢者たちの[聖書]伝説』()())。
もっとも、ユダヤ教内部の派やラビによっても異なるでしょうし、実際にはそれほど一筋縄ではいかないだろうとは思いますが、サンデル教授の新しい試みに基づく哲学議論には、いかにも、と感じた次第です。