ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

まどろみの日々を...

この頃、どうもぼんやりしていて時間を無駄に過ごしているような気がします。梅雨明けとなり、これから暑くなるというのに、こんな調子じゃいけません。10日ほど前の学会前に、資料整理に夢中になって不規則な時間帯で過ごしていた上、音楽会が続けて4回もあったので、今もその余波が残っているのかもしれません。ゆっくりできる時は無理しない方がいいそうですが、人生、いつまでも緩急のリズムでいいのかどうか、反省もあります。
昨晩は、シンガポールの友人から連絡が届き、8月の大阪日程が決まったと教えてくれました。予定より長く滞在するようで、早速、「会おうね!」と約束しました。楽しみです。
昨日の午前中は、2007年9月7日・2008年5月9日付「ユーリの部屋」でも言及した、アメリカのイスラミックセンター書店から購入したムスリム向けの宗教間対話の指南書を通して読みました。またもや、どこかぐったりしてしまいました。相変わらず繰り返しが多くて眠くなること、よく読んでみると相互に矛盾する記述があること、そして、キリスト教向けの対話指南書とはトーンも質も違うので、理解しようにもどこか壁を感じてしまうから疲れるのだろうと思います。
幾つかの気になった点を挙げますと、(1)エバンジェリカルのクリスチャンが対話に加わらないことの批判めいた指摘(2)ムスリムの大半が宗教間対話に慣れていないために相手を攻撃しやすいが、ソフトに穏やかに語るよう勧めていること(3)宗教間対話の目的は相互理解と平和構築であり、改宗者を求めることではないとムスリムに諭していること(4)ムスリムにとって、高い教育を受けたユダヤ教キリスト教の指導者との対話は挑戦的であること、などです。また、一見、ムスリム市民団体を装いつつ、どうもテロリスト集団との関連が疑われているらしいCAIRとの連帯について、三度ほど言及があった点も何だか気になりました(p.29, 35, 79)。
今日はその気力がないので控えますが、これは、日本の大学でのイスラーム議論との兼ね合いで、どのように位置づけられるかが問われるかとも思います。また、この著者の対話の真の意図は何なのか疑問に思われますが、一方で、アメリカ文脈では明らかに少数派であるムスリムが、自己相対化をする機会でもあるのかもしれません。ただ、なんとなく腑に落ちない点がままあることは確かです。
その後、送っていただいた故前田護郎先生の選集3巻本を取り出して、続きを読み進めていったのですけれども、正直なところ、比較するのが申し訳ないほど、ぐいぐいと引き込まれるように楽しく読めました。故井筒俊彦氏も言及されているように、聖書とコーラン(ママ)では、同じ啓典ではあっても、読み物としてのおもしろさが断然違うことが原因だろうと思われます(井筒俊彦(訳)『コーラン(上)岩波文庫 青813-1, p.296)。また、カール・ヒルティが「回教はいろいろな点で真理を誇張して表現する」と書いていたことを思い出します(『幸福論第三部)』草間平作大和邦太郎(訳)岩波文庫 青638-5, p.187)。聖書の世界の豊かさと創造性を知れば素直に頷ける話ですし、考古学や聖書内外文献を含めた研究上の批判が自由に許されている点も、開かれた精神の証です。一方、イスラーム圏では、「聖書は歪曲され変造されている」とムスリムが主張していることが、問題を複雑にしています。マレーシアでは、そのためにどれほど多くのコストや時間やエネルギーが無駄にされていることか。アフリカや難民の支援活動では、時々、「援助疲れ」と言われることがありますが、これでは「対話疲れ」ですよ。
さて今日は、東京大学出版会一神教とは何か:公共哲学からの問い』(2006年)の読み直しをしました。2年前に購入したものですが、全部を読み切っていなかったのです。(優秀で偉い先生方でも、案外、私と似たような考え方や感じ方をされる面もあるんだな)とか(イスラーム理解もさることながら、前半部の聖書の話になると、ぐっと読みやすくなるんだな)などと気づきました。イスラームについては、シーア派の方がおもしろそうなのですが、スンニー派の話はあまりにも決然とし過ぎていて、そこで議論が止まってしまっているのが残念です。眠くなるのもそこなんです。
公共哲学というような高尚な議論ではなくとも、現場の現象を一つ一つ見ていくと、どの解釈がまっとうかどうかの判断がしやすくなります。その意味では、私が長年格闘してきたテーマは、まるで意味がなくもなかったんだな、と少しは自信が出てきました。