マレーシアの「神」語彙論争
昨日と今日付の英語版ブログ“Lily's Room”(http://d.hatena.ne.jp/itunalily2/20100702)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily2/20100703)をお読みください。伍錦栄博士(ユーリ注:ケンブリッジ大学博士号)からのご連絡で、ムスリム議論に対する新しい論駁が書けたとのことで、早速アップいたしました。マレーシアのクリスチャン神学者によるこのような議論を、私は過去10数年間、待ち望んでいたのです!
昨年の大晦日に下されたクアラルンプール高等裁判所の判決に伴う一連の教会放火騒動その他については、ご記憶の方もいらっしゃることと思います。そうです、マレーシアのキリスト教文献で、マレー語の「神」に‘Allah’の語を用いてもよいかの是非を問う司法判決でした。過去22件の歴史的資料に基づき、これは合憲かつ非ムスリムにとっての権利だとも認められた画期的な判決でした。
と思いきや、その翌日に、各地のモスク前でムスリム達が抗議デモを行ったのみならず、一部のムスリム青年達が、計11件の教会に放火を試みるなど、大騒ぎになってしまいました。
日本国内では、朝日新聞やNHKラジオ放送などでも広く報じられましたが、私個人は、このテーマを1990年からずっと追求してきたこともあり(問題そのものは1980年から続いています。インターネット情報の中には、「2007年から」と書いてある記事もありますが、それは間違いです)、ようやく長年待った甲斐があったな、と思いました。今年3月6日には、経過報告としてパワーポイントを使用して、『ヘラルド』の実物も示した上で、学会発表しましたし(参照:2010年3月8日付「ユーリの部屋」)、今月中に発行される学会誌にも、要旨が掲載される予定です(初校は提出済み)。
英語版ブログを見ていただけるとおわかりのように、さすがにカトリック週刊新聞『ヘラルド』紙上では、ニュース記事や投稿がいったん収束しましたが、他のマレーシアのメディアで、まだ議論が続いているのです。
そして、政府当局側が裁判結果を不服だと申し立てたために、いずれ近い将来、また裁判のやり直しをすることになるだろうと思われます。その下準備として、ムスリム御用学者達も、さかんに論考をマレー語で発表し、それがムスリムのブログに転載されて広まっているそうです。もちろん、そのように情報を広めることで、少しでも多くの非専門家達に影響を与え、今後の裁判がムスリムに有利になるように働きかけているのです。
しかし、学会で発表し、要旨にも書いたように、そもそもキリスト教のクリスチャン向けの新聞や聖書で、教会内やキリスト教書店でのみ販売されてきた『ヘラルド』なのに、どうしてムスリムが「その翻訳は間違っている」とか「クリスチャンは混乱している」とか「ムスリムの感情に配慮せよ」とか「それはイスラームの地位低下につながる」などと主張できるのでしょうか。
本件にまつわる、あるムスリム筋によれば、イラク戦争やアフガン戦争やパレスチナ紛争のために、アメリカなどキリスト教圏の大国が、莫大な資金力と武力を使ってムスリム諸国を襲っているという被害者感情が、広くムスリムに共有されているのだそうです。また、ムスリムと結婚した日本人女性が、「普通のマレー人は、クリスチャンが聖書で‘Allah’を使っているなんて知らない。もっと穏便に事を進めれば、さっと解決できる問題なのに、あまりにもクリスチャン達が論理的に主張するので、余計にこじれているのだ」などと長い抗議文を日本語で書いているのも読みました。
さらに、「西側メディアは、たったこれだけの被害をあまりにも大きく報道し過ぎる」などという不満も、ムスリムから出ているようです。
「たったこれだけ」って、当事者にとっては30年も続いている問題で、中には殺された司祭もいたりして、常に一方的な抑圧がかけられて困ってきたのに、権力者側が過小評価することに驚きます。確かにこの頃の日本でも、例えば関西で、もっと多くの教会が消火器を投げ入れられたりするなどの事件に遭遇していますが(後注:2010年7月4日付報道によれば、29歳の無職男性が一人で起こした犯行とのことで、逮捕されました。断るまでもなく、この一連の事件はムスリムによるものではなく、「牧師に話を聞いてほしかった」寂しい青年の屈折した心理によるもののようです)、たった一件の事件でも、たった一人が亡くなっても、きちんと報道して、周囲に理解を求めつつ再発防止に努めることは、近代社会における義務ではないでしょうか。しかも、あと10年で、マレーシアは「先進国入り」していなければならないという国家目標(WAWASAN 2020)を掲げているのです。つまり、事の大小にかかわらず、問題を問題として直視しないメンタリティにこそ、深刻さが垣間見えるのではないでしょうか。
もっとも、イスラーム復興期の現代では話は簡単で、イスラームが連邦宗教として優位に立つ以上は、キリスト教は歪曲された誤った宗教なので(私のつくり話ではなく、クルアーンに書いてありますし、マレーシアでは、メディアその他で語られています!)、裁判でムスリム当局が負けるなどという事態そのものが、あってはならないことなのでしょう。
もちろん、イラクやアフガンやパレスチナ問題で、多くの無辜のムスリムが深く傷つき、苦しんでいることは、百も承知しています。ただ、被害は必ずしもムスリムだけではなく、国連職員やNGOワーカー達もひどい目に遭っていますし、イラクの伝統的な教会破壊やパキスタンのキリスト教迫害やパレスチナでのクリスチャン人口減少など、キリスト教その他の少数派の人々にも及んでいることは、決して忘れられてはなりません。また、いわゆる「キリスト教圏」の中にも、これらの戦争に強く反対している人々も少なくないことは言うまでもありません。
そもそも、『ヘラルド』問題は、イラクやアフガンやパレスチナなどとは無関係で、あくまでマレーシア国内の固有事例に過ぎません。また、論理的に主張せずに、もっとマレー人の感情に配慮せよと言うのも、本来、迷惑を蒙ってきたのはカトリックの『ヘラルド』編集者と大司教なのですから、何だか飛躍した妙な話です。
しかし責任は、伍博士が書いているように、マレーシアの教会指導者層にもあると私は思います。伍博士によれば、ムスリム学者がキリスト教文献の不正確な引用をして、学術的体裁を装いながらも偽りを含む文章を出してくる真意を、教会指導者こそがいち早く見抜いて、論駁できるだけの知識と素養を備えていなければならないのに、そういった地道な勉強の努力を怠って、見栄えの良い大きな会合などの活動に専念してきた、というのです。また、「キリスト教の愛」を示すことで問題が解決するかのように錯覚してきたが、それでは不充分であり、しっかりとした聖書知識によって、キリスト教信仰を守らなければならない、とも批判されていました。実はこの指摘は鋭く本質を突いています。全く同感です。
ただ、これはマレーシアだけの問題でしょうか。日本国内でも、充分当てはまる批判ではないかと私は感じました。もしそうでなければ、ここまで長年、苦労することもなかっただろうに、と思うからです。
明日、伍博士のある訂正文を英語版ブログ(http://d.hatena.ne.jp/itunalily2/20100704)に掲載します(参照:2008年11月4日・11月7日・2010年6月15日付「ユーリの部屋」)。先程、ご連絡が入りました。どうぞお楽しみに。
(ユーリ後注)上記の記述で訂正があります。
ムスリムと結婚した日本人女性が、「普通のマレー人は、クリスチャンが聖書で‘Allah’を使っているなんて知らない。もっと穏便に事を進めれば、さっと解決できる問題なのに、あまりにもクリスチャン達が論理的に主張するので、余計にこじれているのだ」などと長い抗議文を日本語で書いているのも読みました。
2010年7月21日に、この文章の書き手である方からメールをいただきました。ムスリム名をお持ちだったのと、すべてのブログ文章を読んだわけではなかったために、すっかり誤解しておりましたが、この方は「ムスリムと結婚した」のではないそうです。また、「抗議文」ではなく、ご自身の意見を述べられたとの由。お詫びして訂正いたします。(2010年7月21日記)