ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

マレー語・聖書・キリスト教

今朝、『子ども達のための聖書』と題するマレー語の本がマレーシアから届きました。聖書物語を子ども向けにやさしくリライトしたもので、私の知り合いも訳者の一人に含まれています。実はこの本、出版元のオフィスで、その他のマレー語のキリスト教文献と一緒に、戸棚に鍵をかけてストックしてあったのを、私は見ました。2003年8月中旬のことです。1990年5月頃に、マレー語聖書を入手しようとした時、店員が「あなたはマレー人ですか」「英語を話しているのに、どうしてマレー語聖書が欲しいのですか」とこわごわ尋ねてきたことを思い出しました。また、1999年6月に、同じお店で、店員がカウンターの下から、周囲をうかがうようにして恐る恐るこっそりと取り出したことを想起させます。

結局のところ、国語訳の聖書なのに、なぜそこまでクリスチャンが警戒しなければならないのか、と疑問に思ったことがきっかけで、私なりの紆余曲折のリサーチが始まったのですが、事情がわかってくると、正直な話、気が抜けるような感触があります。要領よく論文を書こうとするなら、こんなテーマは選ばない方がよい、とまで言いたくもなりますが、同時に、単純にマレーシアだけを見ていたら知り得なかった世界史の動きにまで視野が拡大したので、その点は非常にありがたかったと思います。2007年3月のイスラエル旅行の時、「短期的視野ではなく、長期的視野で」と、80代の牧師先生がおっしゃったのも、ますますよくわかってきます。表面だけ見ていると、その場はよいかもしれませんが、根本のところで読み間違えるからです。

ところで、ちょっと変則ですが、以下に英文の「資料」を出します。4月24日付英語はてなブログLily's Room”(http://d.hatena.ne.jp/itunalily2/20080424)のコメント欄に「神の名」をめぐる『ヘラルド』論争の裁判について、新たなニュースを追加しましたが、クリスチャン達が長年迷惑を被ってきた問題が、イスラーム主義者にとっては、次のように、いとも簡単に明言されているのです。

Herald” (6 April 2008, Vol.15, No.13, p.5)
Use the word ’Allah’, have a church not a factory for worship….

The Church of the Divine Mercy parishioners were pleasantly surprised with the friendliness and warmth exuberated by YB Khalid Abdul Samad.(Lily's note: Some paragraphs are omitted.)

Another concerned parishioner put forward the question on the use of the word ‘Allah’ being an offence. As a PAS delegate, YB Khalid was the best to share his take on this issue. According to YB Khalid “in Arabic, ‘Allah’ means God. ‘Allah’ comes from the word ‘Al Illah’. ‘Illah’ means something that you worship. ‘Al’ means ‘the’. Therefore‘Al Illah’ (or ‘Allah’ for short) simply means ‘the item of worship.’ Even before the coming of Prophet Mohammad, the word ‘Allah’ was used, simply because it means God. So if you ask me whether you can use the word ‘Allah’, I would say Yes. It is even not a problem for non-Muslims to use the word. ‘Assalamualaikum’ because it simply means ‘Peace’. When I was in Jordan, I heard a Christian priest speaking Arabic on TV, and he used the word ‘Allah’ to refer to God. The problem here again is the ignorance within the Muslim community itself, thanks to BN.You have to give us some time to educate the Muslims. We have 50 years of ignorance to repair,” he said.

今更そんなこと言われても、1980年代から問題になっていたのに、この28年間の「ムスリムの無知による修復」は、いったい誰がどのように責任をとってくださるんでしょうか。そして、例の裁判は、来週火曜日に延期されたのです!全く、繰り返しになりますが、時間とエネルギーの無駄以外、意味はないように思われます。このブログでも論文でも研究発表でも既に繰り返し述べているように、上記の説明は、PAS党の役職にあるムスリムが公言したことに意義が認められるだけで、その内容は、1980年代からクリスチャン指導者達が、ヴァチカンにまで訴えながら、論理的に主張し続けてきたことと何ら変わりはないからです。

ところで、昨晩は、マレーシア聖公会の司祭でもいらっしゃるRev. Dr. Albert Sundararaj Waltersの近著である“Knowing our Neighbour: A Study of Islam for Christians in MalaysiaCouncil of Churches of Malaysia2007)を読んでいて(参照:2008年2月13日付「ユーリの部屋」)、2005年に池田裕先生が私にお手紙でおっしゃった、「これからは、ますますこのような研究が重要になってくるのではないでしょうか」という激励のお言葉と非常に似たことが書かれているのに気づきました。この本には、私の所有している資料や観察と重複した部分がかなり多いのですが、だからこそ、非常に勇気づけられ、かつ、教えられます。

ポイントは、「政治的に世界中で台頭しつつあるイスラームが、マレーシア文脈において、キリスト教会やクリスチャンに対してどのような影響を及ぼすのか」という現実的かつ具体的な神学上の立脚点に沿った研究文献だという点です。言語問題から始まった私のリサーチも、結局はこの関心事に行き着くわけです。そうでなければ、1990年4月にマレーシアに派遣されてマレー人学生に3年間も教えつつ、休日には、マレーシアのキリスト教会や日本語集会にも通ってきた経緯が、まったく生かせないからでもあります。しかも、そうでなければ、マレーシアの人々にお世話になっておきながら、貢献どころか還元すべきものが何もない、という結果に終わってしまいます。

このアルバート博士のすばらしい点は、子ども時代の経験に基づき、「イスラームを深く尊敬している」と述べ、同時に、ペナンでご近所だったインド系ムスリム達が、「クリスチャン達は高い倫理的誠実さを持った人々だと考え、自分の子ども達をクリスチャン達と交流させようとしていた」とはっきり書いていることです(pp.xv-xvi)。これは、インド系同士だったからの交流でもあるでしょう。このインド系内でのムスリムとクリスチャンの関係については、改めて書きたいことがあります。マレー人とは明らかに異なる点が見られたからです。

往々にして日本では、キリスト教の指導的立場にある人までが、一緒になって一方的なムスリムの政治言説に乗っかっていることがあります。それは、いわば非ムスリム少数派を‘抑圧’する側に加担する面も含むことになるのですが、クリスチャンでありながら、同信の友の苦境を理解しようともせず、一気にムスリム側の求める「イスラーム理解」に立つのは、どうみても奇妙なことです。しかし、その奇妙さが、日本の大学では現実に起こったのです。私は、その証人の一人でもあります。
もう一つの弱さは、ヨーロッパの名高い大学の神学部では、例えばインドネシアの教会を「姉妹教会」と呼んで、定期的に人的交流や情報交換などを行っているのに、日本では、自分達の狭い縄張り争いやジャーナリスティックな話に飛びつくことで地位(名声?)ないしは立場を保とうとするような、さもしい考えや未熟さがしばしば見受けられることです。もっとも、普段は黙っている地味な先生の方が、責任ある慎重な発言と堅実なお仕事をされていることは、言うまでもありませんが。(例えば、先月26日に開かれたSamuel Vollenweider教授のワークショップでのE教授。英語も一番きれいで正確で、しかも質問が具体的で専門的なものでした。)

昨日は、大阪府立図書館から借りてきた本4冊をようやく読み終わり(参考:2007年9月29日・12月13日・2008年3月29日付「ユーリの部屋」)、例の如くノートにまとめていました。テーマは、「聖書の英語翻訳史・ユダヤ人と新約聖書の関わり・キリスト教の世界政策・現代ヘブライ語復権」に集約されるかと思いますが、本当におもしろい学びでした。夢中になって取り組みました。イスラエル建国前のパレスチナにおけるアラブ人の様子やアラビア語聖書についても言及されているのですが、(なるほどねえ、今でも誰がハッタリを言っているかよくわかるなあ)と思います。何でも勉強しておかなければ、判断を誤るとはこのことです。とにもかくにも、基本は聖書。ヘブライ語だって、聖書文献を参考にして現代語に蘇らせたものが多いそうですから。また、セム系言語ということで、アラビア語ヘブライ語の相互関係についても書かれていたところが、改めて興味深く思われました。