ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

長い冬眠から覚めて

明日から4月。年度初めでもあります。この辺りでも、山桜がうっすらと色づいてきました。
ところで、このブログを始めたのが2007年6月。その3ヶ月前には、イスラエル旅行を経験したのでした。今から考えても、当時の切羽詰まった状況の中から、(どうしても現場を見ておきたい)と思いついた旅行で、主人の健康問題や仕事のスケジュールとの関連で、多少の迷いもなかったわけではなかったのですが、(よく行かせてもらえたなぁ、でも、あの時行けて、本当によかった)と思います。その前後には、30冊ぐらい、イスラエルパレスチナに関する本を読みあさり、やっと混乱のもつれがほどけたような感触もありました。実はまだ、写真やメモの整理が終わっていないのですが、それほど濃密で充実した1週間だったということです。
やはり、物事にはタイミングというものがあり、できる時にパッと思い切ってやってみる勇気も必要です。
振り返れば、あの当時、ご一緒したりお目にかかったりした方の中で、その後、少なくともお二人が亡くなられました。まさに一期一会だ、としみじみ思いますが、若い人達中心のグループだったら、果たしてこういう感慨が得られたか、それはわかりません。
結婚前までは、何かと制約や抑圧に囲まれていて、なにかにつけて、「これやってみたい」「だめ。できるわけないでしょ!」というお馴染みのパターンでしたから、自発性や創造性の発揮できる場がなかった感じでした。本当に「できるわけない」かどうかは、やってみなければわからないし、先日の副大臣のお話ではありませんが、「できない理由」を最初に挙げるのではなく、「どうしたらできるかを先に10考えて」という風に、発想を変えなければならないと思います。
そういう意味では、結婚後、予想に反していろいろと自由にさせてもらえたことで、遅ればせながらようやく、自分の向き不向きが明らかになり、方向性が定まってきたのは、全く主人のおかげと感謝しています。
人生とは不思議なパラドックスに満ちているもので、主人の病気のことがあるから、私は家にいて自由に勉強ができる、という逆説を地でいっています。病気の性質上、人生選択の幅が狭くなったので、お互いにだらだら遊んだり迷っている暇がなく、特に私にとっては、勉強や読書や家事に専念する以外にないからです。また、家政に私が責任を持つことで、主人も安心できて体調が落ち着く、という副次効果もありました。
もちろん、診断を下された当初は、将来の不安がのしかかってきて、正直なところ、ここまで主人が仕事を続けられるなんて想像もできませんでした。いろんな所へ相談にも行きました。結局のところ、お医者さんも含めて、あまり人はアテにならないということがよくわかりましたが、今では、それが懐かしいぐらいです。
人生上の重たい問題が幾つも同時に発生している時には、とりあえず、なすべきことを地道に続けながら待つしかない、ということもあります。私にとっては、とにかく、学生時代から読みたかった本や気になっていた分野を、自分のペースで貪欲に勉強できたことが、この間の最も贅沢な収穫でした。働きながらの勉強ともいいますが、資格取得や技能ならともかく、分野によっては、ある程度の時間をとって、納得のいくまで取り組まなければ思考が深まらないという側面もあるかと思います。

ところで、3月29日には、半年にわたる佐藤全弘先生の「キリスト教と世界の宗教」が終わり、修了証をいただいて帰って来ました。月一回、午後6時半から2時間、大阪クリスチャンセンターでの講義でしたが、毎回、二十数名のご年配者中心で、私にとっては、密かに期待していたような、同世代の知り合いが新しくできるチャンスではありませんでした。また、昼間とは違って、途中で買い物などの用事を兼ねることができないため、暗くなってから家を出るのは、食事の準備などの点で難しいな、と感じたこともありました。
ただ、続けられたのは、79歳とは思えないほどの先生のお元気さと視野の広さ、そして、最近ではすっかり大学でも珍しくなってしまった、きっちりした講義内容が新鮮で魅力だったからです。こういう機会を通して、何らかの刺激と示唆を得たいと思いました。
もしかしたら、これで先生にお目にかかるのも最後かなあ、というような寂しい思いもありますが、いつまでも学生気分で教わるばかりではなく、学んだことを自分で発展させていかなければなりません。というわけで、昨晩から、ご紹介いただいて購入したPaul F. Knitter "No Other Name? A Critical Survey of Christian Attitudes Toward the World Religions", Orbis Books, New York, 1985/2008を読んでいます。この本の内容は、マレーシアのような多民族で多宗教の社会に慣れた日本人の私にとっては、(今更何を言っているのですか?こちらは、ずっとそういう環境の中で過ごしてきたのですが)という気になってしまいます。

佐藤先生のご講義も、結局は、質疑応答の時間もなく、一方的に先生がプリント片手にお話しされるという形式に終始してしまったことからうかがえるように、「諸宗教の対立こそが究極の問題とされがち」な今、「一神教にその鉾先が向けられ」るが、「キリスト教は、はたして、人類の将来にとり平和の保障となりうるのか」という講義の趣旨は、最後までオープン・クエスチョンのままだ、と思いました。
せっかくなので、集まった人々のそれぞれの意見なども聞いてみたかったのですが、場所柄なのか、受講生の顔ぶれから判断されてなのか、先生ご自身が、どうやら避けていらしたようにも感じられました。
大阪クリスチャンセンターでのご講義であり、先生ご自身も無教会を主催されていることもあって、当然のことながら、「キリスト教は平和の保障となり得ない」という結論になるはずがない、というのは、最初から予想できることです。しかし、キリスト教内部から他宗教との関わりを世界史的に概観してみた場合、十字軍をはじめとして、どうしても自己批判的にならざるを得ない面が多々あること、特に「キリスト教の優位を前提」としたキリスト者の態度や「非キリスト教を下位に批判的に扱う」教会の姿勢など、世界情勢に関する理解がより深まり、地球の一体化がますます進む今日、そのままでは問題有り、という指摘は首肯できます。
そこで「諸宗教の将来を示唆する人々」として最後に紹介されたのが、ガンディー、マザー・テレサ内村鑑三、そして初耳の咸錫憲(1901−89)でした。この方は、日本留学もして内村鑑三に入門された経緯を持つそうで、その著作の日本語訳が新教出版社から出ているとの由。ただし、「その翻訳は全部だめ。韓国の民衆には人気があるが、日本の牧師には、その精神遍歴から何をしている人かわからない宗教的ジプシーだとして、人気がない」とのことです。(私見では、こういう話をもっとお聞きしたかったのですが。)
また、内村鑑三氏は、「余の信仰の真髄」(1907年7月号『聖書之研究』)で「人類の普遍的救済」、1929年10月2日付日記で「全人類教会主義」、1929年10月24日付日記で「この世では実行不可能の主義」を記していますが、佐藤先生曰く、「それは困るという人が、キリスト者の中の半分はいるだろう。自分は勝手に『救われた』と思っている人のうちに」。
私も随分前に、目の前で「私は‘救われた’から」「あとはご主人が‘救われていない’のね」「結婚して、相手を‘救い’に導く」などとクリスチャン達が言い合っているのを見て、何だか妙な気分になった経験があります。一方、同志社大学で開かれた2005年3月の講演会では、「もうこれからは、『選ばれた』とか『救われた』とか『最終の完璧な』などと言うのはやめましょう」とアメリカの女性教授が提案されていました。
もちろん、もともとそういう表現に抵抗があった私にとっては、全く異存はありませんが、ただ、考慮しなければならないのは、そうすることで個人の内面の信仰アイデンティティが不確定になる可能性です。下手をすれば、「誰でも、どの宗教でも、そのままでいい」という曖昧なメッセージにもなりかねません。そうすると、これまでの人類史で、可視的な教会が何のために存在してきたのかという面を見落とすことになります。そして、キリスト教を基盤として、哲学、文学、美術、音楽、建築、福祉、医療、教育、科学の進歩、倫理などへと発展した文化について、必ずしもマイナス面のみならず、確かにプラス面もあったのではないか、という複層的な見方が欠落することにもなりかねません。
佐藤先生が、10年前に「神は無教会」と発言したところ、まさに無教会の人が反対した、と仄聞されたとか。その反応も、何となく予想できるところです。制度面の弊害をおっしゃったのかもしれませんが、聞きようによっては汎神論にも受け取れ、いわば求心力を失うからです。
逆に言えば、これは、コインの両面のどちらを強調するかにも似ていて、一つの立場を選ぶということは、必然的にその他が脇に置かれることを意味し、どのようにバランスをとるかということは、困難で分裂した事柄なのかもしれません。
ただ、一般的には、現代に生きる普通の人々なら、世界にさまざまな宗教や文化があることは既に承知済みで、そこに何とか折り合いをつけて、暮らしを営んでいるのではないでしょうか。
それから、一言申し添えるならば、マレーシアに関する私の文献リサーチからは、「植民地の宗教をぶちこわしてキリスト教を押しつけた」という佐藤先生の説明は、少なくとも該当しません。スペイン・ポルトガル時代か、フランス植民地かアングロサクソンの植民地かなど、地域によっても、時代によっても、かなり違いがあるのではないでしょうか。そして、それぞれ制約のかかった文脈の中でも、現地文化に直面して、勇気ある新たな行動をとった宣教師も存在したのです。
また、文化的優越感というよりも、キリストの福音がもたらす内的確信に支えられてこそ、困難で過酷な状況で、聖書翻訳や学校や医療行為などの宣教活動が可能になったことも、マラヤでのキリスト教宣教師の記録からは、うかがえるところです。
という意味で、何となく不完全燃焼というのか、もやもやが残ったままの講座でしたが、先生ご自身も「この方向へ行くには、まだ時間がかかるでしょう」との見通しをおっしゃっていました。
昨晩、主人にその話をすると、最近ようやく「聖書には何が書いてあるのか」というダイジェスト版のような本を買って、興味を自発的に持つようになったこともあって、「だから、その分野については、長く本を読んで調べてきたから、もう素人じゃないってことだよ。そろそろまとめに入らないと」と言われました。そうですね、長い冬眠から覚めて、ようやく新たな一歩を、という気になりました。