ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

イスラームへの反論の是非

2009年6月20日付「ユーリの部屋」で書いた「エジプト人ムスリムの他宗教観」について、他のサイト(http://8928.teacup.com/yomimono/bbs)の7月10日付で引用されていることを、昨晩知りました。
投稿者が議論したがっているのは、ムスリムが主張するところの「イスラームの合理性あるいは論理性または科学の奨励」に対する反論が日本では見られない、ということのようです。
実は、京都大学教育学部の杉本均先生が、1994年と95年に「イスラーム科学」の意味するところとその真偽について、マレーシア国際イスラム大学をケーススタディとして、わざわざ具体例まで出して、教育学の見地から論文を二本立てで出されています。(電子化版は(http://ci.nii.ac.jp/naid/110000484369)「京大高等教育研究 第2号 「高等教育における科学と哲学:アジア・イスラム社会の視点−その2−」をご覧ください。)
私は、1995年に先生から出版前の抜き刷りを送っていただき、その問題については自分の中で解決済みとなっております。1998年には、先生のご講義でも取り上げられ、その時には、中国四川の女子留学生も、クスクス笑っていたぐらい、ほぼ「常識化」した見方でした。
ところが、2001年の9.11同時多発テロ事件発生以来、アメリカのブッシュ政権の政策のせいもあって、国際安全保障の観点から、ムスリムの言い分も聞いていこうじゃないかという風潮が、特にアカデミアで広まってきたように思います。ですから、あえて異議申し立てをすることは、はっきり言ってしまえば「無粋」なんでしょう。
問題は、正面切って反論することの有効性について、です。
先程も、昼食時に主人と、今月上旬の会合について(参照:2009年7月4日・7月5日付「ユーリの部屋」(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20090704))、せっかく「発言してほしい」と期待されていたのに、こんな風じゃ発言してもなあ、と自主規制してしまったことを話していました。「じゃあ、あの時言いたかったことを、ここで英語で言ってみろ」と主人に言われ、では、と話し始めたところ、「うん、英語そのものではなくて、そういう話になると、誰でも返答に困るわなぁ」と。そうでしょう?いろいろ指摘したいことはあっても、そこなんですってば。
実は、冒頭の6月20日の話は、前半部で終了していて、続きがあるのですけれども、どうもやる気が起きないのが正直なところです。あまり変わり映えのしない話が延々と続き、うんざり。ただ、『ムスリム世界』に掲載された1977年の段階では、充分意味があったとは思いますよ。むしろ、その頃の日本で、この掲載論文を上回るような議論が出ていたかどうか、そちらを調べてみる方が重要なのかもしれません。
7月18日の講演会の帰り道、T先生も「時期があるからね」とおっしゃっていました。そうなんです。物は発言すべき時とすべきでない時というものがあります。(コヘレトのことば3章1節から8節を想起!)
不毛な議論もないわけではありませんが、黙っていたら通じないことも多々あります。だから、今こそせっせと読書に励み、こつこつと書くべし!
(後日追記)このページもどうぞ。(http://www.gakushuin.ac.jp/~881791/hoodbhoy/hoodbhou2j.html)